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エピローグ ~絆~
しおりを挟む「……無茶としか言いようがありませんな」
白衣に眼鏡、きっちり分けられた髪。
まるでドラマから抜け出してきたような、典型的な医師が、重々しい口調で言った。
病室のベッドには、雪のように白い肌をした女性が横たわっていた。
その隣には、介護用の椅子に座る男性。
誰が見ても、深い絆で結ばれた夫婦だと分かる。
二人とも、目は赤く腫れていた。
でも、その表情は不思議と晴れやかで、どこか誇らしげだった。
「いまさら言うまでもないことですが――奥さんは生まれつき心臓が弱い。出産に耐えるのは、正直、かなり厳しいでしょう。最悪の場合、母子ともに…という可能性もあります」
淡々とした口調が、冷たい現実を突きつける。
それでも、二人の決意は揺るがなかった。
まっすぐに医師の目を見つめ、微笑んでいる。
医師は、説得をあきらめた。
最初から、無駄だと分かっていたのだ。
医師としての立場上、言わなければならないことは言った。
でも、心のどこかでは――この夫婦にこそ、子どもを抱かせてあげたいと願っていた。
子どもを『事故』のように扱い、簡単に堕ろそうとする若い子たち。
夜泣きがうるさいと、手をあげてしまう親たち。
そんな中で、この夫婦は――間違いなく『父』と『母』だった。
「……わかりました。その覚悟があるのなら、私たちに止める権利はありません。全力を尽くします。ただし、万が一のときは――」
言葉が喉に詰まりそうになる。
それでも、医師はなんとか続けた。
「子どもを、優先してください」
女性が、静かに言った。
医師は驚かなかった。
この人なら、きっとそう言うと思っていた。
でも、隣でその言葉を聞いても動じない夫の姿には、少しだけ戸惑った。
――あれほど妻を愛しているのに、よく承知したものだ。
だがすぐに気づく。
愛しているからこそ、落ち着いていられるのだと。
これほどまでに互いを信じ合い、思いやる夫婦が、今のこの国に、どれだけいるだろう――医師は、ふと寂しさを覚えた。
「……わかりました。もちろん、そうならないようにするのが私たちの仕事ですがね」
事務的な口調の奥に、静かな決意を込めて。
医師は一礼し、病室を後にした。
その背中を、女性は申し訳なさそうに見送った。
自分たちの選択が、あの医師にどれだけの重荷を背負わせているか、分かっていた。
医師は、命を守る人だ。
今ここにいる命を、危険にさらしたくはないはず。
それでも、彼は自分たちの選択を受け入れてくれた。
彼女は、そっと心の中で手を合わせた。
――チリーン、チリーン。
窓辺の風鈴が、夏の風に揺れて鳴る。
「いい音ね。涼しいっていうより、心が落ち着く音だわ」
遠くを見つめながら、妻がつぶやく。
夫は、そっと微笑んだ。
妻が話すたびに、夫は癖のように頷いていた。
まるで、何度も繰り返してきた会話のように。
「そうだな。俺たちの子どもにも、そんなふうに育ってほしいな。誰かの心を、そっと癒せるような子に」
「……それよ!」
妻が、ふと目を輝かせた。
「え?」
「名前よ、子どもの名前! 『“すずね』ってどうかしら? 鈴の音って書いて、『鈴音』。羽音鈴音――なんだか、詩みたいで素敵じゃない?」
夫は、笑った。
妻の顔は『どう思う?』と聞きながら、すでに決めているものだったから。
「でも、男の子かもしれないぞ?」
「ううん、女の子よ。わたしには分かるの。きっとこの子は、幸せになれる。わたし以上に、きっとね」
夕焼けが、彼女の笑顔を朱に染める。
その笑顔に、夫は誓った。
たとえ彼女がいなくなっても――鈴音を、君のように優しく、強く、育ててみせると。
それは、まるで彼女の死を受け入れるような誓いだった。
だから、口には出さなかった。
でも、彼女には伝わっていた。
――その証拠に、彼女はその後、一度も娘のことを口にしなかったのだから。
◇
気がつくと、鈴音は一人で歩いていた。
見覚えのある道。
東から昇った太陽が、ゆっくりと西の空へ沈もうとしている。
まるで夢から醒めたばかりのような、ぼんやりとした意識。
鈴音は軽く頭を振って、目の前の景色を確かめた。
そのとき――向こうから、ひとりの男子が歩いてくるのが見えた。
真新しい学ラン。
まっすぐな足取り。
その姿に、胸が高鳴る。
ふと、自分の姿を見下ろすと、セーラー服を着ていた。
そして思い出す。
この道は、あのときの――あの場所。
制服の袖が、夕風にそよいだ。
遠くでチャイムの音が鳴っていた
絶対に忘れられない。
忘れてはいけない。
忘れるはずがない、あの瞬間の場所。
鈴音は、すべてを理解した。
一度消えた時間が、次元が――戻ってきたのだ。
たぶん、少しだけ『いい方向』に変わって。
胸の奥で、鼓動が跳ねる。
でも、鈴音はその高鳴りを押さえながら、彼を待った。
そして、彼の影が自分の足元に触れたとき――顔を上げて、最高の笑顔を向けた。
「好きです。付き合ってください」
ちょっとテンプレかな、って思った。
でも、それが今の自分の、まっすぐな気持ちだった。
彼は、驚いたように目を見開き――すぐに、破顔した。
何も言わずに、手を差し出す。
鈴音の手が、その手に重なる。
二人は、肩を寄せ合いながら、ゆっくりと歩き出した。
――そして、新たな神話が始まる。
誰にも語られることのない、歴史に刻まれることもない、けれど確かに存在する、創世の物語。
それは、人が人として生きる限り、静かに、けれど確かに紡がれていく。
一人一人の人生。
運命の糸。
色の違う糸が、複雑に編み込まれ紡がれる。
それは普遍的な、世界の構造そのものを象徴する。
一本の糸が、別の糸と出会い、結ばれ、編まれていく。
二本が三本に、三本が四本に。
やがて、無数の糸が織りなす、大きな織物になる。
星が生まれ、星が消えても、この織物に終わりはない。
それは、今この瞬間も、『誰か』の手の中で静かに紡がれている
糸を紡ぎ続ける『誰か』がいる限り――この世界は、何度でも始まり続ける。
そして、あなたの手の中にも、一本。
糸が、ある。
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