2 / 96
新橋 ②
しおりを挟む
「さて、手荷物もなくなったことだし、光留君はどちらへ?」
「……」
「返事をしないところをみると、本当に尾井坂男爵の屋敷へ出向く気か?止めておきなさい。行っても無駄足だよ」
「どういう意味です?」
清浦にしては珍しく、頭ごなしに反対を口にする。少々意外にも感じ、尋ね返した。
「男爵は、今、東京にはいないよ。本業で大忙し」
「本業……貿易ですか」
清浦は、頷いた。
華族というのは、元公家出身の堂上華族、大名家の大名華族、勲功から身分を得た新華族と分かれている。
尾井坂男爵は、勲功――つまり、天皇家への忠義を認められ爵位を賜ったとされるのだが、この忠義というものが、遠く遡ること南北朝だという。
そのような昔の話、本当か、どうかわからない。その為、真しやかに囁かれる噂は、金で爵位を買ったという不名誉なものだった。
尾井坂男爵は、貿易商として金は持っているので、爵位を買っても不思議ではないと信じられていた。
「男爵がいない……しかし、よくご存じで」
「ふふふ、偶然耳にしてね」
「偶然ですか……へぇ。しかしね、清浦さん。僕は男爵に用はないのですよ」
「すっ飛ばして晃子嬢に、目通りを願うのか?あり得んだろう」
「あり得ませんね、僕は泰臣君にご挨拶に伺うのです」
「ほう、男爵家の従五位か……そうか、確か学友だったか。しまった、失念していた」
失念――?
光留の片眉がピクリと跳ねた。
どういう意味だ?と、言わんばかりの目付きに清浦は、口笛を吹き、大股で俥へ歩み寄ると、ピタリと立ち止まった。
2度、3度、辺りを見回したかと思うと、フッと流れるような視線を向けるのだが、それが、何やら魂胆を秘めているようにも思え、光留はグッと身構えた。
「まあ、悪いことは言わない。今日は止めた方がいい。だってもう夕飯時だよ? 押し掛けるつもりか?」
「余計なお世話」
聞く耳を持たないと、そっぽを向く光留の耳朶に、清浦の低く落ちる声が、別の事を吹き込んだ。
「何処へ行こうがよろしいが、移動は俥で。決して1人になってはいけないよ」
「何です?気味の悪いことを言って……」
「忠告だよ」
清浦は、脇に挟んでいた帽子を頭にのせ、車夫に「とりあえず麹町方向へ」と告げると蹴込に足を乗せ、軽々と革張黒の座席に座った。
「約束だよ。絶対に1人で歩き回ってはいけない。白い袴の男に出会ってしまったら、大変なことになるから」
「だから!気味が悪い……」
「やってくれ」
「あ!ちょっと!!」
光留の不機嫌な叫び声なんて、知ったことではないと云うことだろう。
清浦は、背もたれに身体を預けると顎をしゃくり、進めと促す。「へい!」と威勢の良い声が先か? 足が踏み出すのが先か?
俥は、閉じた幌をガタガタと鳴らし、目の前から走り去った。
「何なんだ、あの人は……あ!少し乗せてください。行き先は……瀬戸物町」
「へい!」
清浦の後ろにつけていた車夫に、声をかけ飛び乗った。行き先は、思いつき。
本当ならば、紀尾井坂付近までと言いたいところだ。他の男と婚約したといっても、相手が何者なのか、どういう経緯なのか、話を聞かなければ手の打ちようもない。
話を聞くとすれば、男爵家以上に相応しい者は、いないのだから。
そして、都合がいいことに想い人の弟は、学習院で机を並べた学友だ。
帰国の挨拶に伺っても可笑しくはない――が、清浦の言葉が意外と刺さった。
いくら学友を訪ねるといっても連絡もしていない上に、時間帯も悪い。常識がないと思われては元も子もないと思い直し、流れる景色に褐色の瞳を細めてみせる。
「ああ、懐かしいなぁ」
1年ぶりの町並みに、思わず本音が漏れた。
「若様、東京は久々で?」
「ええ、1年ほど英国に行っていましたので」
「英国?そいじゃ、お屋敷は瀬戸物町でござんすか?」
車夫は微かに首を捻り、背後を伺った。瀬戸物町とは、江戸の頃より焼き物を扱う土地柄であり、他にも線香や水菓子など商売が盛んであることから、商人の町とされる。
その辺りに住む者が、英国帰りとなると話が噛み合わないと思ったのだろう。
光留は、言葉にしない車夫に相づちをうつと、素直に答えた。
「さっきの人が麹町の方へ行ったので、逆に向かっているのです。僕も麹町へ行きたかったのですが、今は止めます」
「ああ!瀬戸物町は、昨日から瀬戸市が開かれているから、丁度良かったのでは?」
「市ですか!? それはいい!焼き物の帯留めなんか、土産に良いかもしれません!」
車夫の何気ない一言で、晃子嬢への手土産を思いついた。本当は、英国で買い求めた物があるが、さすがに今の状況では渡す立場にないと思う。
偶然、瀬戸物町を通りかかったので――などと、さりげない言い回しも可能だ。
「本当、いいアイデアだ」
瞼をとじ、全身で風を感じる。
昨日まで降っていたという、残雨の香りが湿った土の匂いと混ざりあって、鼻先を撫でるように通りすぎるのが、心地よい。
虹でも出ていたら、幸先がよいと思うのだけど――と、過ったが、よくよく考えれば、意に添わぬ上からの縁談を断る為に英国へ渡り、やっと帰国したら意中の人は別の男と婚約が成立したというのだから、幸先が良いわけもない。
―― しかし、底にいるのならば、あとは昇るだけ……。
楽観的だと、失笑を漏らすと共に
「宮内省に出向かねばならないなぁ……」と、小さく呟く光留の目は、笑ってはいなかった。
「……」
「返事をしないところをみると、本当に尾井坂男爵の屋敷へ出向く気か?止めておきなさい。行っても無駄足だよ」
「どういう意味です?」
清浦にしては珍しく、頭ごなしに反対を口にする。少々意外にも感じ、尋ね返した。
「男爵は、今、東京にはいないよ。本業で大忙し」
「本業……貿易ですか」
清浦は、頷いた。
華族というのは、元公家出身の堂上華族、大名家の大名華族、勲功から身分を得た新華族と分かれている。
尾井坂男爵は、勲功――つまり、天皇家への忠義を認められ爵位を賜ったとされるのだが、この忠義というものが、遠く遡ること南北朝だという。
そのような昔の話、本当か、どうかわからない。その為、真しやかに囁かれる噂は、金で爵位を買ったという不名誉なものだった。
尾井坂男爵は、貿易商として金は持っているので、爵位を買っても不思議ではないと信じられていた。
「男爵がいない……しかし、よくご存じで」
「ふふふ、偶然耳にしてね」
「偶然ですか……へぇ。しかしね、清浦さん。僕は男爵に用はないのですよ」
「すっ飛ばして晃子嬢に、目通りを願うのか?あり得んだろう」
「あり得ませんね、僕は泰臣君にご挨拶に伺うのです」
「ほう、男爵家の従五位か……そうか、確か学友だったか。しまった、失念していた」
失念――?
光留の片眉がピクリと跳ねた。
どういう意味だ?と、言わんばかりの目付きに清浦は、口笛を吹き、大股で俥へ歩み寄ると、ピタリと立ち止まった。
2度、3度、辺りを見回したかと思うと、フッと流れるような視線を向けるのだが、それが、何やら魂胆を秘めているようにも思え、光留はグッと身構えた。
「まあ、悪いことは言わない。今日は止めた方がいい。だってもう夕飯時だよ? 押し掛けるつもりか?」
「余計なお世話」
聞く耳を持たないと、そっぽを向く光留の耳朶に、清浦の低く落ちる声が、別の事を吹き込んだ。
「何処へ行こうがよろしいが、移動は俥で。決して1人になってはいけないよ」
「何です?気味の悪いことを言って……」
「忠告だよ」
清浦は、脇に挟んでいた帽子を頭にのせ、車夫に「とりあえず麹町方向へ」と告げると蹴込に足を乗せ、軽々と革張黒の座席に座った。
「約束だよ。絶対に1人で歩き回ってはいけない。白い袴の男に出会ってしまったら、大変なことになるから」
「だから!気味が悪い……」
「やってくれ」
「あ!ちょっと!!」
光留の不機嫌な叫び声なんて、知ったことではないと云うことだろう。
清浦は、背もたれに身体を預けると顎をしゃくり、進めと促す。「へい!」と威勢の良い声が先か? 足が踏み出すのが先か?
俥は、閉じた幌をガタガタと鳴らし、目の前から走り去った。
「何なんだ、あの人は……あ!少し乗せてください。行き先は……瀬戸物町」
「へい!」
清浦の後ろにつけていた車夫に、声をかけ飛び乗った。行き先は、思いつき。
本当ならば、紀尾井坂付近までと言いたいところだ。他の男と婚約したといっても、相手が何者なのか、どういう経緯なのか、話を聞かなければ手の打ちようもない。
話を聞くとすれば、男爵家以上に相応しい者は、いないのだから。
そして、都合がいいことに想い人の弟は、学習院で机を並べた学友だ。
帰国の挨拶に伺っても可笑しくはない――が、清浦の言葉が意外と刺さった。
いくら学友を訪ねるといっても連絡もしていない上に、時間帯も悪い。常識がないと思われては元も子もないと思い直し、流れる景色に褐色の瞳を細めてみせる。
「ああ、懐かしいなぁ」
1年ぶりの町並みに、思わず本音が漏れた。
「若様、東京は久々で?」
「ええ、1年ほど英国に行っていましたので」
「英国?そいじゃ、お屋敷は瀬戸物町でござんすか?」
車夫は微かに首を捻り、背後を伺った。瀬戸物町とは、江戸の頃より焼き物を扱う土地柄であり、他にも線香や水菓子など商売が盛んであることから、商人の町とされる。
その辺りに住む者が、英国帰りとなると話が噛み合わないと思ったのだろう。
光留は、言葉にしない車夫に相づちをうつと、素直に答えた。
「さっきの人が麹町の方へ行ったので、逆に向かっているのです。僕も麹町へ行きたかったのですが、今は止めます」
「ああ!瀬戸物町は、昨日から瀬戸市が開かれているから、丁度良かったのでは?」
「市ですか!? それはいい!焼き物の帯留めなんか、土産に良いかもしれません!」
車夫の何気ない一言で、晃子嬢への手土産を思いついた。本当は、英国で買い求めた物があるが、さすがに今の状況では渡す立場にないと思う。
偶然、瀬戸物町を通りかかったので――などと、さりげない言い回しも可能だ。
「本当、いいアイデアだ」
瞼をとじ、全身で風を感じる。
昨日まで降っていたという、残雨の香りが湿った土の匂いと混ざりあって、鼻先を撫でるように通りすぎるのが、心地よい。
虹でも出ていたら、幸先がよいと思うのだけど――と、過ったが、よくよく考えれば、意に添わぬ上からの縁談を断る為に英国へ渡り、やっと帰国したら意中の人は別の男と婚約が成立したというのだから、幸先が良いわけもない。
―― しかし、底にいるのならば、あとは昇るだけ……。
楽観的だと、失笑を漏らすと共に
「宮内省に出向かねばならないなぁ……」と、小さく呟く光留の目は、笑ってはいなかった。
0
あなたにおすすめの小説
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
不器用な大富豪社長は、闇オクで買った花嫁を寵愛する
獅月@体調不良
恋愛
「 御前を幸せにする為に、俺は買ったんだ 」
〜 闇オク花嫁 〜
毒親である母親の為だけに生きてきた彼女は、
借金を得た母の言葉を聞き、
闇オークションへ売られる事になった。
どんな形にしろ借金は返済出来るし、
母の今後の生活面も確保出来る。
そう、彼女自身が生きていなくとも…。
生きる希望を無くし、
闇オークションに出品された彼女は
100億で落札された。
人食を好む大富豪か、
それとも肉体を求めてか…。
どちらにしろ、借金返済に、
安堵した彼女だが…。
いざ、落札した大富豪に引き渡されると、
その容姿端麗の美しい男は、
タワマンの最上階から5階部分、全てが自宅であり、
毎日30万のお小遣いですら渡し、
一流シェフによる三食デザート付きの食事、
なにより、彼のいない時間は好きにしていいという自由時間を言い渡した。
何一つ手を出して来ない男に疑問と不満を抱く日々……だが……?
表紙 ニジジャーニーから作成
エブリスタ同時公開
魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました
iru
恋愛
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。
両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。
両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。
しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。
そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか?
両片思いのすれ違いのお話です。
Pomegranate I
Uta Katagi
恋愛
婚約者の彼が突然この世を去った。絶望のどん底にいた詩に届いた彼からの謎のメッセージ。クラウド上に残されたファイルのパスワードと貸金庫の暗証番号のミステリーを解いた後に、詩が手に入れたものは?世代を超えて永遠の愛を誓った彼が遺したこの世界の驚愕の真理とは?詩は本当に彼と再会できるのか?
古代から伝承されたこの世界の秘密が遂に解き明かされる。最新の量子力学という現代科学の視点で古代ミステリーを暴いた長編ラブロマンス。これはもはや、ファンタジーの域を越えた究極の愛の物語。恋愛に憧れ愛の本質に悩み戸惑う人々に真実の愛とは何かを伝える作者渾身の超大作。
*本作品は「小説家になろう」にも掲載しています。
訳あり冷徹社長はただの優男でした
あさの紅茶
恋愛
独身喪女の私に、突然お姉ちゃんが子供(2歳)を押し付けてきた
いや、待て
育児放棄にも程があるでしょう
音信不通の姉
泣き出す子供
父親は誰だよ
怒り心頭の中、なしくずし的に子育てをすることになった私、橋本美咲(23歳)
これはもう、人生詰んだと思った
**********
この作品は他のサイトにも掲載しています
本日は桜・恋日和 ーツアーコンダクター 紫都の慕情の旅
光月海愛(こうつきみあ)
恋愛
旅は好きですか?
派遣添乗員(ツアーコンダクター)の桑崎紫都32歳。
もう、仕事がらみの恋愛はしないと思っていたのに…ーー
切ない過去を持つ男女四人の二泊三日の恋慕情。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる