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瀬戸物町
◆◆◆◆◆
「やはり僕は、運がないようで……」
「申し訳ござんせん!」
光留は、あ~あ……と言いたげに天を仰いだ。昨日まで降り続いた雨によって出来た泥濘に 車輪がはまり込んでしまったらしい。地面の穴が深かったのか、傾いた俥から振り落とされそうになり、蹴込に足を踏ん張ったのが功を奏した。
転がり落ちることは免れたが、素人目からしても、走行できる状態ではなかった。
「ちょっと走って、代わりの俥を捕まえてきやす!」
車夫はペコペコと頭を下げ、少し走って代わりの俥を呼んでくると言うのだが、ここにきて清浦が言っていた気味の悪い言葉が過る。無駄口が多い男だが、たまに大事なことを言うので無視できないのだ。
チラリと周りを窺い、白い袴の男はいないかと探る。視界に入る範囲では、それらしい人影もないが――
「いえ、2人で行動しましょう」
光留は、さ迷わせていた視線を戻し、静かに告げたのだが、車夫は勢いよく首を振る。
「とんでもない!この通り、泥濘んでおります。お履き物が汚れますし、すぐに俥が捕まるとも限りやせん」
「いや、先程の連れの言い付けで1人で彷徨くなと。それが、少し気になるのです」
「……あ、あぁ!成る程!確かに、若様は狙われるやもしれやせん」
「何ですか、狼藉を働く輩でもいるのですか?」
「へえ、徒党を組んで襲いかかってくるので、太刀打ちできねぇと評判です」
「徒党!? それは、厳しいですね……」
「ええ、多勢に無勢で逃げ切れず、なす術もないとか。しかも代わる代わる槍で突き刺すものだから、酷い有り様で……」
「槍!? 警察は何をしているんですか!? 」
これは、清浦が念を押しただけある。
上着の上から懐のデリンジャーを押さえ、所持していることを指で確認していると、通りに面した家から女が顔を半分出し、こちらを窺っていた。
「あ!婆さん、ちょいといいかい!? 」
これ幸いと車夫が、駆け寄り言葉を交わす。俥だけ置いて行くわけにもいかないと、事情を話しているのだろう。
二言、三言のように感じた。直ぐに女が「どうぞ」と垣根越しに手を招くと、車夫は安堵を浮かべ、こちらに大きく手を振り駆けて来た。足元の泥濘など気にもならないのか、紺の股引には、焦げ茶の泥が随分と跳ね上がるのだが、お構い無しだ。
光留は、指で摘まんだチョコレートが溶けたような色合いに、美味しそうだ――などと、馬鹿な考えが浮ぶ。
「若様、わし1人で走った方が早ようござんす。話はつけやしたから、この家で暫くお待ちくだせぇ」
確かに、客を走らせるわけにもいかないだろうし、だからといって2人して歩いても、時がかかる。ここは仕方がない。光留は素直に頷き「お気を付けて」と送り出した。
家に招き入れられるといっても、端から上がり込む気など、さらさらない。
縁側に座らせて貰い、辺りを窺った。
小ぢんまりとしているが、よく手入れがされている。垣根の枝葉は綺麗に揃い、縁側から見える居間に置かれた調度類も、なかなか良い物に感じられた。
おそらく部屋数は、4つ5つ――といった所だろう。母屋とは別に庭の隅に離れがあることから、使用人が住み込んでいるのかもしれない。
「お2人でお住まいなのですか?」
光留は、出された茶碗に唇を寄せ、ボソリと独り言のように尋ねた。
出迎えたのは50程の婆であり、中には17.8程の女がいたのだが、それ以外に人の気配はなかった。
「いいえ、旦那様も。今は出ておりますが……それより、お上がりになられてください」
若い女が答えた。
「いえ、女人だけのお宅に上がり込む訳には参りません……ところで、お2人は親子ですか?」
光留は、質問を続けた。
「いいえ、私は身の回りのお世話ですよ」
50程の女が言う。
「そうですか、ここには長くお住まいなのですか?」
「いいえ、まだ3月程です」
若い女が答えた。
「そうですか。もう夕刻になります旦那様もお帰りの刻限なのに、ご迷惑をお掛け致します」
「大丈夫ですよ。うちの旦那様は、商いで不在が多くて」
女が口にした言葉が、あまりにも無用心で光留は、嗜めるように自身の唇に人差し指をあてた。
訳のわからない男を敷地に入れて、女2人しかいないことや、唯一の男手である旦那が不在ということまで漏らすのは、無邪気なのか、馬鹿なのか――と、溢れる笑みを止めることが出来なかった。
光留の言わんとしたことを察したのだろう。肩をすくめ「気を付けます」とだけ告げた女の目元は、ゆるゆると細まった。
うっすらと空に浮かぶ三日月のようなそれは、見る者に憐憫の情を感じさせるほど、儚げにも思えた。
―― 不在が多い旦那……。お妾奉公か?
光留は、そう考えた。
「失敬、馬鹿にしたわけではありません。貴女が、可愛らしいから思わず口許が緩んでしまいました」
「まあ、まあ!お口のお上手な若様ですこと!」
婆やと思われる女が、笑い飛ばすのに合わせて光留も、弾けるように声をあげ笑った。
若い女も、同じく口元に指先を寄せ「ふふ」と漏らすが、笑みを浮かべても幸薄気な雰囲気は、払拭することは出来なかった。
「まるで朝の容花のような人ですね、貴女は」
「容花……」
「朝顔です。とても美しい……と!! こんなことを口走っては、婆やが旦那様にお言いつけなさるのでしょうね!」
女を口説くように、低く落とした声音を突然、跳ねさせる光留は、不味いことを口走った!! と、元凶を放った口元をガバリと掌で覆ってみせた。
これには、婆やは勿論、女までもが高らかに声を響かせた。先程とは、全く違う朗笑に
「うちの者がね、笑う癖をつけておきなさいと、ずっと言っていたのですよ。ですから、貴女も笑ってらっしゃったら旦那様もお喜びでしょう」
と告げた。
微笑む男に何を思ったのか、女はジッと褐色の瞳を見つめると、小さく頷いてみせた。
光留は、それ以上、踏み込まない。
後日、女中にでも菓子折を持たせれば済むことであり、2度と会うこともないからだ。
「やはり僕は、運がないようで……」
「申し訳ござんせん!」
光留は、あ~あ……と言いたげに天を仰いだ。昨日まで降り続いた雨によって出来た泥濘に 車輪がはまり込んでしまったらしい。地面の穴が深かったのか、傾いた俥から振り落とされそうになり、蹴込に足を踏ん張ったのが功を奏した。
転がり落ちることは免れたが、素人目からしても、走行できる状態ではなかった。
「ちょっと走って、代わりの俥を捕まえてきやす!」
車夫はペコペコと頭を下げ、少し走って代わりの俥を呼んでくると言うのだが、ここにきて清浦が言っていた気味の悪い言葉が過る。無駄口が多い男だが、たまに大事なことを言うので無視できないのだ。
チラリと周りを窺い、白い袴の男はいないかと探る。視界に入る範囲では、それらしい人影もないが――
「いえ、2人で行動しましょう」
光留は、さ迷わせていた視線を戻し、静かに告げたのだが、車夫は勢いよく首を振る。
「とんでもない!この通り、泥濘んでおります。お履き物が汚れますし、すぐに俥が捕まるとも限りやせん」
「いや、先程の連れの言い付けで1人で彷徨くなと。それが、少し気になるのです」
「……あ、あぁ!成る程!確かに、若様は狙われるやもしれやせん」
「何ですか、狼藉を働く輩でもいるのですか?」
「へえ、徒党を組んで襲いかかってくるので、太刀打ちできねぇと評判です」
「徒党!? それは、厳しいですね……」
「ええ、多勢に無勢で逃げ切れず、なす術もないとか。しかも代わる代わる槍で突き刺すものだから、酷い有り様で……」
「槍!? 警察は何をしているんですか!? 」
これは、清浦が念を押しただけある。
上着の上から懐のデリンジャーを押さえ、所持していることを指で確認していると、通りに面した家から女が顔を半分出し、こちらを窺っていた。
「あ!婆さん、ちょいといいかい!? 」
これ幸いと車夫が、駆け寄り言葉を交わす。俥だけ置いて行くわけにもいかないと、事情を話しているのだろう。
二言、三言のように感じた。直ぐに女が「どうぞ」と垣根越しに手を招くと、車夫は安堵を浮かべ、こちらに大きく手を振り駆けて来た。足元の泥濘など気にもならないのか、紺の股引には、焦げ茶の泥が随分と跳ね上がるのだが、お構い無しだ。
光留は、指で摘まんだチョコレートが溶けたような色合いに、美味しそうだ――などと、馬鹿な考えが浮ぶ。
「若様、わし1人で走った方が早ようござんす。話はつけやしたから、この家で暫くお待ちくだせぇ」
確かに、客を走らせるわけにもいかないだろうし、だからといって2人して歩いても、時がかかる。ここは仕方がない。光留は素直に頷き「お気を付けて」と送り出した。
家に招き入れられるといっても、端から上がり込む気など、さらさらない。
縁側に座らせて貰い、辺りを窺った。
小ぢんまりとしているが、よく手入れがされている。垣根の枝葉は綺麗に揃い、縁側から見える居間に置かれた調度類も、なかなか良い物に感じられた。
おそらく部屋数は、4つ5つ――といった所だろう。母屋とは別に庭の隅に離れがあることから、使用人が住み込んでいるのかもしれない。
「お2人でお住まいなのですか?」
光留は、出された茶碗に唇を寄せ、ボソリと独り言のように尋ねた。
出迎えたのは50程の婆であり、中には17.8程の女がいたのだが、それ以外に人の気配はなかった。
「いいえ、旦那様も。今は出ておりますが……それより、お上がりになられてください」
若い女が答えた。
「いえ、女人だけのお宅に上がり込む訳には参りません……ところで、お2人は親子ですか?」
光留は、質問を続けた。
「いいえ、私は身の回りのお世話ですよ」
50程の女が言う。
「そうですか、ここには長くお住まいなのですか?」
「いいえ、まだ3月程です」
若い女が答えた。
「そうですか。もう夕刻になります旦那様もお帰りの刻限なのに、ご迷惑をお掛け致します」
「大丈夫ですよ。うちの旦那様は、商いで不在が多くて」
女が口にした言葉が、あまりにも無用心で光留は、嗜めるように自身の唇に人差し指をあてた。
訳のわからない男を敷地に入れて、女2人しかいないことや、唯一の男手である旦那が不在ということまで漏らすのは、無邪気なのか、馬鹿なのか――と、溢れる笑みを止めることが出来なかった。
光留の言わんとしたことを察したのだろう。肩をすくめ「気を付けます」とだけ告げた女の目元は、ゆるゆると細まった。
うっすらと空に浮かぶ三日月のようなそれは、見る者に憐憫の情を感じさせるほど、儚げにも思えた。
―― 不在が多い旦那……。お妾奉公か?
光留は、そう考えた。
「失敬、馬鹿にしたわけではありません。貴女が、可愛らしいから思わず口許が緩んでしまいました」
「まあ、まあ!お口のお上手な若様ですこと!」
婆やと思われる女が、笑い飛ばすのに合わせて光留も、弾けるように声をあげ笑った。
若い女も、同じく口元に指先を寄せ「ふふ」と漏らすが、笑みを浮かべても幸薄気な雰囲気は、払拭することは出来なかった。
「まるで朝の容花のような人ですね、貴女は」
「容花……」
「朝顔です。とても美しい……と!! こんなことを口走っては、婆やが旦那様にお言いつけなさるのでしょうね!」
女を口説くように、低く落とした声音を突然、跳ねさせる光留は、不味いことを口走った!! と、元凶を放った口元をガバリと掌で覆ってみせた。
これには、婆やは勿論、女までもが高らかに声を響かせた。先程とは、全く違う朗笑に
「うちの者がね、笑う癖をつけておきなさいと、ずっと言っていたのですよ。ですから、貴女も笑ってらっしゃったら旦那様もお喜びでしょう」
と告げた。
微笑む男に何を思ったのか、女はジッと褐色の瞳を見つめると、小さく頷いてみせた。
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