紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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紀尾井坂 ④

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 光留は、時間がないと言っていた割には、のんびり花を咲かせている。
 これから用事があるというのに、大丈夫なのだろうか? 泰臣は、心配になり壁に掛かる振り子時計を一瞥した。

「泰臣さん、お時間が気になるのなら、どうぞ席を外されて」

 客人の前で時間を気にするなど、無作法だと言いたいのだろう。睨み付けてやろうにも、声の主と視線が合うことはない。
 伏せがちの瞼が、ツンと澄ました印象を更に強くする晃子の顔は、庭に咲く薔薇の刺だ。
 美貌が薔薇に例えられたとしても、刺が目につき、話にならない。側にいれば身から放つ刺々しさで、精神をやられそうだと思っていると「ああ……」と、憂い気な光留の声が漂った。用事があったことを思い出したのか、湯呑蓋をつまみ上げると、そっと被せ
「泰臣君、御用があられるのでしょう?」などと宣う。
 寝耳に水だ。それはお前――と否定の言葉を口に仕掛けたが、一歩出遅れた。光留は、そこはかとなく――といった風情で継いだ。

「先日、綺麗な椿を見ました」
「椿?」
 
 何のことか分からないと、色に出たのだろう。光留は身体を傾け、泰臣に顔を寄せた。口許は、相も変わらず美しい弧を描いているのだが、褐色の瞳は笑っていない。

「瀬戸物町に、お知り合いがおられるでしょう?」

 秘密事とばかりに、そっと耳に吹き込んだ。泰臣が息を呑むのが、ハッキリと分かる。丸々と見開かれた目が、何で知ってる?と、あからさまに物を言うのだ。
 驚いたのは、光留も同じだった。まさか、ここまで動揺を表に出すとは、思わなかった。

「何だ?コソコソと調べ回って……お前は、清浦の手先になって警察にでもなるつもりか」

 泰臣の言葉が、非難めいたものに変わる。じとっと湿った目付きは、信用ならざる者と言った風情だ。

「誤解です。偶然、知ったのです」
「じゃあ、何故今……」

「少々、晃子さんと2人だけにして欲しいのです」
「瀬戸物町の件を話すつもりか?」

「滅相もない」

 瀬戸物町――正直、泰臣がここまで気にするとは思わなかった。しかし、これは好都合だ。光留は、両手を合わせ拝んでみせる。
 晃子と2人にしたくないと思っていた泰臣だったが、選択肢は一択だったのだろう。小さく舌打ちすると、反撃のつもりか 合わせられた手を、紬の袖で払いのけ
「少々、失礼」――と、すんなり部屋から出て行った。
 
 ―― やれやれ、変な誤解をされてしまった。

 とは思うが、誤解など後々解けばいいと、事の成り行きを不思議そうに見守る晃子を振り返った。

「いえね、瀬戸物町に良い焼き物があったと申し上げたのです。何か思い出されたのかな?」

 濁した言葉が、言い終わらぬうちに晃子の眉根が寄った。美しい顔に示された不快感は、光留にとっては、微かな――とは言い難い。不快を与えたのが自分だとすれば尚更だ。
 直ぐ様、どうされましたか?と原因を探る言葉を掛けた。
 晃子も心得たもので、色に出した不快感は、いいえ――と、2度程首を振った後には何事も無かったかのように、消え去っていた。

「瀬戸物町には、泰臣さんのお母様が住まわれていたので」
「ご生母!? 長崎の?」

「まあ、泰臣さんったら光留様に、お生まれのことまでお話しているのですね。困った人」

 勝手に調べ回りました――とは、言えない光留は「ええ」と肯定した。憂いを含む溜め息と共に、晃子は告げた。

「丸山芸者でして……幼い泰臣を連れ、上京して参りましたが、が12の頃、病で」
「……まさかと思いますが、その……泰臣君には妹などは?」

「おりませんよ。ただ、他所にはいるかもしれませんね」
「他所に?」

「ええ。うちの父は、あちらこちらにお囲いですから」
「……それは、それは夫人も大変ですね」

「母は、仕方ないと諦めてらっしゃるけど、私は嫌いです」

 あからさまに嫌悪を浮かべる晃子の顔を、光留は覗き込んだ。至近距離で見つめ合う形になるが、不思議なもので嫌悪の理由を突き詰める目的があるからか、顔に恋慕の情が浮かぶことはない。

「何が嫌なのです?」
「これ以上は……家の恥ですので」

「恥とは思いません。教えて頂きたい」
「知って何をなさる気かしら? 別に面白くもないというのに」

 苦々しいとばかりに言い放った言葉尻は、小さく萎む。

 ―― 口にするのも汚らわしいといった所か……。

 光留は、そう見当をつけた。
 晃子は、本心から家の恥と思うのだろう。顔を背けてしまった。

「僕を見てください」
「何故ですか?」

「貴女の顔が見たいのです」
「……」

「晃子さん?」

 女に無視される経験などない。こういう場合は、どうするのだろうか?しつこく言葉をかけるのか? しかし、それは……と躊躇する。
 相手が、妓楼の女なら頬を挟み、こちらを振り向かせるだろうが、晃子の頬に触れるような真似をしたら、今後2度と逢って貰えない気がする――、などと悶々と考えるが良案など思い浮かばない。
 顔を背けるほっそりとした首筋は勿論、柔らかな曲線を描く肩を抱く訳にもいかない。
 うずうずと伸ばした指先は、晃子の膝にある白魚のような手を掴んだ。その瞬間、曲線を描いていた肩がうおのように跳ねると共に、驚く顔が向けられた。椿の髪止めから流れる毛先が大きく揺れ、甘く芳しい香りが漂う。

「ダマスク・ローズの香水でしょうか?」
「香水などつけておりません。それより無礼ではありませんか?」

 無礼に決まっている。光留は内心、そう思う。と手を握っているのは、父でも弟でも、ましてや婚約者でもない男だ。しかし、無礼と言われ、すごすごと引き下がる訳にはいかない。
 
「全く。社交場では、こうやって手を取り、と唇を落とすのです。ご存知でしょう?」
「困ります。ここは社交場ではありません。人に見られては……」

「僕は困りませんが……仕方ありませんね。嫌われたくはありませんから」

 顔を向けさせたことで、光留は重ねた指を離し、すかさず嫌悪感の核心に迫った。

「晃子さん、お父上のお囲いになる女性がお嫌いですか?だから、泰臣君を?」
「その方が嫌いなわけではありません。会ったこともありませんし……ただ、私は母のようになりたくないのです」

「成る程」

 嫡男を産めなかったという歯痒さは、大名華族である光留には容易に想像がついた。
 そんな男爵夫人を見て育った晃子は、男爵家のような家庭は、理想ではないのだろうと。
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