14 / 96
奏任官
しおりを挟む
◆◆◆◆◆
瀬戸物町は、商人の町と言われるだけあって朝が早い。その分、寝静まるのも早いのは当然である。芳町の花柳界隈と比べ、店や民家の灯りがないものだから、車夫も走り難くかっただろうと、羽倉崎は多めに駄賃を渡した。
「悪いが、中に入って旦那様がお帰りだと伝えてくれ」
「へい!」
連絡もせず妾宅を訪れたが、そもそも妾宅とは そういうものだ。旦那がいつ帰ってくるか分からないのだから、いつ訪れても良い状態ではあるだろう。
時間を潰すこともない――と、俥で瞼を閉じる山寺に「着きましたよ」と声をかけ、俥の後ろから踏み台を下ろす。
「おお、すまんね……」
「何故、寝たふりなどしたのですか?田中様が困られておりましたよ」
「ははは!いやいや、あまりに綺麗な顔をしていたから、ベタベタと触ってみたくなって」
「山寺さん、あの方は……」
「分かってる、分かってる、悪ふざけだ。それにしても失敗した」
俥に、ぶら下がる提灯を山寺の足元にかざしながら誘う羽倉崎は、失敗という言葉の真意を問うかのように、チラリと視線を上げる。
「足が痺れたフリをして、ひっくり返ったのは良いが、まさか清浦様が奏任官に手助けさせるとは思わなくてな」
「それが失敗なのですか?」
政府の高官ともなると、沢山の挨拶を短時間で受ける。似たり寄ったりの挨拶では、覚えて貰えることは少ない。
山寺は、ここぞと云う時に印象に残る行動を心掛けていた。それが派手に倒れることであり、何度も繰り返すものだから柔術などやったことがないのに、受身だけが達人のように上手かった。
「いや、それよりも奏任官に袖の下を握らせるべきだったと……それをしなかったのが失敗だと思ったのだ」
「田中様にですか?」
「ああ、近藤様も……と言いたいが、清浦様の目を盗んで――となると難しい。しかし田中様には、好機があった。奏任官……どこの省だろうか?清浦様の側にいるってことは、あの2人……後々、使えるかもしれん」
「それは、失敗して良かったと思いますよ」
「何故?」
山寺は、大きな体躯を支えて貰いながら、地面に足をつけた。
「あの2人……奏任官でしょうかね?」
「どういう意味だ?」
「いかに高等官でも、清浦様の言葉遣いが丁寧な気がしました。それと……」
「それと?」
「田中様の身から、とても良い香りがしたのです」
「香り?儂は気付かなかったが……」
「……あれは、フジェールロワイヤルかと」
「何だ、それは」
「いえ、貿易商でもなかなか手に入らない代物……あ、戻って来ました」
妾宅に人を呼びにいった車夫が、1番に駆け戻り、羽倉崎から提灯を受け取った。次に、駆け出してきたのは、提灯を持つ年配の女。頭を下げると、無紋の灯火を足元へ向ける。
「羽倉崎君、これからがお楽しみ。一杯どうだい?」
山寺は、玄関先で草履を引っかけ こちらへ歩む若い女を指差し、口元でお猪口を飲み干す仕草をしてみせる。
お座敷では、頃合いを見計らう間、酒を口にすることもなかった為、寄りたい気持ちはあったが、その後のことを考えると億劫になる。
ほろ酔い気分で、真夜中に帰宅というのも危険である。だからと、山寺の妾宅に泊まる訳にもいかない。
「申し訳ない。明日早いので」
「それじゃ、仕方ない。おい、今度はこの男を連れて帰ってくれ」
山寺は、羽倉崎を送るように車夫に言うが、芳町から瀬戸物町まで大の男を乗せたのだ、これ以上は無理がある。
車夫も同じ事を思ったのだろう、言葉に詰まるといった風情が見てとれた。
「いえ、私は夜風にあたりながら帰ります。申し訳ないですが提灯を拝借しても?」
「そうかい? それじゃ……」
山寺は、足元を照す提灯を一瞥し、顎をしゃくる。羽倉崎は、女から手渡された無紋の提灯を下げ、街灯と月明かりの中を1人、歩いた。
1人になると思い出されるのは、先程の官僚達だ。偶然を装い、挨拶をする手前、花柳に1人では可笑しいと、連れ出された羽倉崎は正直、たいした者は現れないと思っていた。
――というのも、今まで何度か同じような場に、居合わせたことがあるのだが、どれもこれも良くて、奏任官五等の事務官だったからだ。
事務官がダメとは思わない。そこから上へ、上へとツテを頼るのだから、下級官吏じゃないだけ良い。
お約束とばかりに半玉が漏らす名前も、聞いたことのない事務官だと思っていた矢先
「離れに先の警保局長、清浦様がお越しなのですよ」
「清浦様!?」
山寺も目を見張ったことから、本人も想像していなかったのだろう。
数日前、欧州視察から帰った清浦が、近い内に新しい役職につくことは、羽倉崎でも理解していた。警保局長とは、内務三役と呼ばれる重職である。それを退任し、欧州へ行ったのだ。
誰の目からしても、更に大きな出世が見込めた。清浦の後ろ楯といえば、先の内閣総理大臣 山縣有朋だ。
たまたま連れて行かれたとはいえ、これは良い場に引き出されたと思った。
清浦と山寺にパイプが出来れば、羽倉崎にとっても心強い。
山寺が、それに飽きたらず 供をする2人にまで唾を付けようと考えていたのが、少々驚きだったが……。
羽倉崎は、フッと若い2人を脳裏に浮かべた。袖の下を――と、山寺は言ったが羽倉崎の目には、ただの高官に映らなかった。100歩譲って奏任官だったとしても、清浦が目をかけ連れ回すにしては、若すぎる。
そして、田中の最後の一言――
「また、お会いましょう?……私と?何故?」
意気投合したわけでもない。何か商売で関わることがあるのか?羽倉崎は、人懐こい笑みを浮かべた光留の真意が、さっぱり理解できなかった。
瀬戸物町は、商人の町と言われるだけあって朝が早い。その分、寝静まるのも早いのは当然である。芳町の花柳界隈と比べ、店や民家の灯りがないものだから、車夫も走り難くかっただろうと、羽倉崎は多めに駄賃を渡した。
「悪いが、中に入って旦那様がお帰りだと伝えてくれ」
「へい!」
連絡もせず妾宅を訪れたが、そもそも妾宅とは そういうものだ。旦那がいつ帰ってくるか分からないのだから、いつ訪れても良い状態ではあるだろう。
時間を潰すこともない――と、俥で瞼を閉じる山寺に「着きましたよ」と声をかけ、俥の後ろから踏み台を下ろす。
「おお、すまんね……」
「何故、寝たふりなどしたのですか?田中様が困られておりましたよ」
「ははは!いやいや、あまりに綺麗な顔をしていたから、ベタベタと触ってみたくなって」
「山寺さん、あの方は……」
「分かってる、分かってる、悪ふざけだ。それにしても失敗した」
俥に、ぶら下がる提灯を山寺の足元にかざしながら誘う羽倉崎は、失敗という言葉の真意を問うかのように、チラリと視線を上げる。
「足が痺れたフリをして、ひっくり返ったのは良いが、まさか清浦様が奏任官に手助けさせるとは思わなくてな」
「それが失敗なのですか?」
政府の高官ともなると、沢山の挨拶を短時間で受ける。似たり寄ったりの挨拶では、覚えて貰えることは少ない。
山寺は、ここぞと云う時に印象に残る行動を心掛けていた。それが派手に倒れることであり、何度も繰り返すものだから柔術などやったことがないのに、受身だけが達人のように上手かった。
「いや、それよりも奏任官に袖の下を握らせるべきだったと……それをしなかったのが失敗だと思ったのだ」
「田中様にですか?」
「ああ、近藤様も……と言いたいが、清浦様の目を盗んで――となると難しい。しかし田中様には、好機があった。奏任官……どこの省だろうか?清浦様の側にいるってことは、あの2人……後々、使えるかもしれん」
「それは、失敗して良かったと思いますよ」
「何故?」
山寺は、大きな体躯を支えて貰いながら、地面に足をつけた。
「あの2人……奏任官でしょうかね?」
「どういう意味だ?」
「いかに高等官でも、清浦様の言葉遣いが丁寧な気がしました。それと……」
「それと?」
「田中様の身から、とても良い香りがしたのです」
「香り?儂は気付かなかったが……」
「……あれは、フジェールロワイヤルかと」
「何だ、それは」
「いえ、貿易商でもなかなか手に入らない代物……あ、戻って来ました」
妾宅に人を呼びにいった車夫が、1番に駆け戻り、羽倉崎から提灯を受け取った。次に、駆け出してきたのは、提灯を持つ年配の女。頭を下げると、無紋の灯火を足元へ向ける。
「羽倉崎君、これからがお楽しみ。一杯どうだい?」
山寺は、玄関先で草履を引っかけ こちらへ歩む若い女を指差し、口元でお猪口を飲み干す仕草をしてみせる。
お座敷では、頃合いを見計らう間、酒を口にすることもなかった為、寄りたい気持ちはあったが、その後のことを考えると億劫になる。
ほろ酔い気分で、真夜中に帰宅というのも危険である。だからと、山寺の妾宅に泊まる訳にもいかない。
「申し訳ない。明日早いので」
「それじゃ、仕方ない。おい、今度はこの男を連れて帰ってくれ」
山寺は、羽倉崎を送るように車夫に言うが、芳町から瀬戸物町まで大の男を乗せたのだ、これ以上は無理がある。
車夫も同じ事を思ったのだろう、言葉に詰まるといった風情が見てとれた。
「いえ、私は夜風にあたりながら帰ります。申し訳ないですが提灯を拝借しても?」
「そうかい? それじゃ……」
山寺は、足元を照す提灯を一瞥し、顎をしゃくる。羽倉崎は、女から手渡された無紋の提灯を下げ、街灯と月明かりの中を1人、歩いた。
1人になると思い出されるのは、先程の官僚達だ。偶然を装い、挨拶をする手前、花柳に1人では可笑しいと、連れ出された羽倉崎は正直、たいした者は現れないと思っていた。
――というのも、今まで何度か同じような場に、居合わせたことがあるのだが、どれもこれも良くて、奏任官五等の事務官だったからだ。
事務官がダメとは思わない。そこから上へ、上へとツテを頼るのだから、下級官吏じゃないだけ良い。
お約束とばかりに半玉が漏らす名前も、聞いたことのない事務官だと思っていた矢先
「離れに先の警保局長、清浦様がお越しなのですよ」
「清浦様!?」
山寺も目を見張ったことから、本人も想像していなかったのだろう。
数日前、欧州視察から帰った清浦が、近い内に新しい役職につくことは、羽倉崎でも理解していた。警保局長とは、内務三役と呼ばれる重職である。それを退任し、欧州へ行ったのだ。
誰の目からしても、更に大きな出世が見込めた。清浦の後ろ楯といえば、先の内閣総理大臣 山縣有朋だ。
たまたま連れて行かれたとはいえ、これは良い場に引き出されたと思った。
清浦と山寺にパイプが出来れば、羽倉崎にとっても心強い。
山寺が、それに飽きたらず 供をする2人にまで唾を付けようと考えていたのが、少々驚きだったが……。
羽倉崎は、フッと若い2人を脳裏に浮かべた。袖の下を――と、山寺は言ったが羽倉崎の目には、ただの高官に映らなかった。100歩譲って奏任官だったとしても、清浦が目をかけ連れ回すにしては、若すぎる。
そして、田中の最後の一言――
「また、お会いましょう?……私と?何故?」
意気投合したわけでもない。何か商売で関わることがあるのか?羽倉崎は、人懐こい笑みを浮かべた光留の真意が、さっぱり理解できなかった。
0
あなたにおすすめの小説
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
不器用な大富豪社長は、闇オクで買った花嫁を寵愛する
獅月@体調不良
恋愛
「 御前を幸せにする為に、俺は買ったんだ 」
〜 闇オク花嫁 〜
毒親である母親の為だけに生きてきた彼女は、
借金を得た母の言葉を聞き、
闇オークションへ売られる事になった。
どんな形にしろ借金は返済出来るし、
母の今後の生活面も確保出来る。
そう、彼女自身が生きていなくとも…。
生きる希望を無くし、
闇オークションに出品された彼女は
100億で落札された。
人食を好む大富豪か、
それとも肉体を求めてか…。
どちらにしろ、借金返済に、
安堵した彼女だが…。
いざ、落札した大富豪に引き渡されると、
その容姿端麗の美しい男は、
タワマンの最上階から5階部分、全てが自宅であり、
毎日30万のお小遣いですら渡し、
一流シェフによる三食デザート付きの食事、
なにより、彼のいない時間は好きにしていいという自由時間を言い渡した。
何一つ手を出して来ない男に疑問と不満を抱く日々……だが……?
表紙 ニジジャーニーから作成
エブリスタ同時公開
魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました
iru
恋愛
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。
両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。
両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。
しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。
そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか?
両片思いのすれ違いのお話です。
Pomegranate I
Uta Katagi
恋愛
婚約者の彼が突然この世を去った。絶望のどん底にいた詩に届いた彼からの謎のメッセージ。クラウド上に残されたファイルのパスワードと貸金庫の暗証番号のミステリーを解いた後に、詩が手に入れたものは?世代を超えて永遠の愛を誓った彼が遺したこの世界の驚愕の真理とは?詩は本当に彼と再会できるのか?
古代から伝承されたこの世界の秘密が遂に解き明かされる。最新の量子力学という現代科学の視点で古代ミステリーを暴いた長編ラブロマンス。これはもはや、ファンタジーの域を越えた究極の愛の物語。恋愛に憧れ愛の本質に悩み戸惑う人々に真実の愛とは何かを伝える作者渾身の超大作。
*本作品は「小説家になろう」にも掲載しています。
訳あり冷徹社長はただの優男でした
あさの紅茶
恋愛
独身喪女の私に、突然お姉ちゃんが子供(2歳)を押し付けてきた
いや、待て
育児放棄にも程があるでしょう
音信不通の姉
泣き出す子供
父親は誰だよ
怒り心頭の中、なしくずし的に子育てをすることになった私、橋本美咲(23歳)
これはもう、人生詰んだと思った
**********
この作品は他のサイトにも掲載しています
本日は桜・恋日和 ーツアーコンダクター 紫都の慕情の旅
光月海愛(こうつきみあ)
恋愛
旅は好きですか?
派遣添乗員(ツアーコンダクター)の桑崎紫都32歳。
もう、仕事がらみの恋愛はしないと思っていたのに…ーー
切ない過去を持つ男女四人の二泊三日の恋慕情。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる