紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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奏任官

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 ◆◆◆◆◆

 瀬戸物町は、商人の町と言われるだけあって朝が早い。その分、寝静まるのも早いのは当然である。芳町の花柳界隈と比べ、店や民家の灯りがないものだから、車夫も走り難くかっただろうと、羽倉崎は多めに駄賃を渡した。

「悪いが、中に入って旦那様がお帰りだと伝えてくれ」
「へい!」

 連絡もせず妾宅を訪れたが、そもそも妾宅とは そういうものだ。旦那がいつ帰ってくるか分からないのだから、いつ訪れても良い状態ではあるだろう。
 時間を潰すこともない――と、俥で瞼を閉じる山寺に「着きましたよ」と声をかけ、俥の後ろから踏み台を下ろす。

「おお、すまんね……」
「何故、寝たふりなどしたのですか?田中様が困られておりましたよ」

「ははは!いやいや、あまりに綺麗な顔をしていたから、ベタベタと触ってみたくなって」
「山寺さん、あの方は……」

「分かってる、分かってる、悪ふざけだ。それにしても失敗した」

 俥に、ぶら下がる提灯を山寺の足元にかざしながらいざなう羽倉崎は、失敗という言葉の真意を問うかのように、チラリと視線を上げる。

「足が痺れたフリをして、ひっくり返ったのは良いが、まさか清浦様が奏任官に手助けさせるとは思わなくてな」
「それが失敗なのですか?」

 政府の高官ともなると、沢山の挨拶を短時間で受ける。似たり寄ったりの挨拶では、覚えて貰えることは少ない。
 山寺は、ここぞと云う時に印象に残る行動を心掛けていた。それが派手に倒れることであり、何度も繰り返すものだから柔術などやったことがないのに、受身だけが達人のように上手かった。

「いや、それよりも奏任官に袖の下を握らせるべきだったと……それをしなかったのが失敗だと思ったのだ」
「田中様にですか?」

「ああ、近藤様も……と言いたいが、清浦様の目を盗んで――となると難しい。しかし田中様には、好機があった。奏任官……どこの省だろうか?清浦様の側にいるってことは、あの2人……後々、使えるかもしれん」

「それは、失敗して良かったと思いますよ」
「何故?」

 山寺は、大きな体躯を支えて貰いながら、地面に足をつけた。

「あの2人……奏任官でしょうかね?」
「どういう意味だ?」

「いかに高等官でも、清浦様の言葉遣いが丁寧な気がしました。それと……」
「それと?」

「田中様の身から、とても良い香りがしたのです」
「香り?儂は気付かなかったが……」

「……あれは、フジェールロワイヤルかと」
「何だ、それは」

「いえ、貿易商でもなかなか手に入らない代物……あ、戻って来ました」

 妾宅に人を呼びにいった車夫が、1番に駆け戻り、羽倉崎から提灯を受け取った。次に、駆け出してきたのは、提灯を持つ年配の女。頭を下げると、無紋の灯火を足元へ向ける。

「羽倉崎君、これからがお楽しみ。一杯どうだい?」

 山寺は、玄関先で草履を引っかけ こちらへ歩む若い女を指差し、口元でお猪口を飲み干す仕草をしてみせる。
 お座敷では、頃合いを見計らう間、酒を口にすることもなかった為、寄りたい気持ちはあったが、その後のことを考えると億劫になる。
 ほろ酔い気分で、真夜中に帰宅というのも危険である。だからと、山寺の妾宅に泊まる訳にもいかない。

「申し訳ない。明日早いので」
「それじゃ、仕方ない。おい、今度はこの男を連れて帰ってくれ」

 山寺は、羽倉崎を送るように車夫に言うが、芳町から瀬戸物町まで大の男を乗せたのだ、これ以上は無理がある。
 車夫も同じ事を思ったのだろう、言葉に詰まるといった風情が見てとれた。

「いえ、私は夜風にあたりながら帰ります。申し訳ないですが提灯を拝借しても?」
「そうかい? それじゃ……」

 山寺は、足元を照す提灯を一瞥し、顎をしゃくる。羽倉崎は、女から手渡された無紋の提灯を下げ、街灯と月明かりの中を1人、歩いた。
 1人になると思い出されるのは、先程の官僚達だ。偶然を装い、挨拶をする手前、花柳に1人では可笑しいと、連れ出された羽倉崎は正直、たいした者は現れないと思っていた。
 ――というのも、今まで何度か同じような場に、居合わせたことがあるのだが、どれもこれも良くて、奏任官五等の事務官だったからだ。
 事務官がダメとは思わない。そこから上へ、上へとツテを頼るのだから、下級官吏じゃないだけ良い。
 お約束とばかりに半玉が漏らす名前も、聞いたことのない事務官だと思っていた矢先

「離れに先の警保局長、清浦様がお越しなのですよ」
 「清浦様!?」

 山寺も目を見張ったことから、本人も想像していなかったのだろう。
 数日前、欧州視察から帰った清浦が、近い内に新しい役職につくことは、羽倉崎でも理解していた。警保局長とは、内務三役と呼ばれる重職である。それを退任し、欧州へ行ったのだ。
 誰の目からしても、更に大きな出世が見込めた。清浦の後ろ楯といえば、先の内閣総理大臣 山縣有朋だ。
 たまたま連れて行かれたとはいえ、これは良い場に引き出されたと思った。
 清浦と山寺にパイプが出来れば、羽倉崎にとっても心強い。
 山寺が、それに飽きたらず 供をする2人にまで唾を付けようと考えていたのが、少々驚きだったが……。
 羽倉崎は、フッと若い2人を脳裏に浮かべた。袖の下を――と、山寺は言ったが羽倉崎の目には、ただの高官に映らなかった。100歩譲って奏任官だったとしても、清浦が目をかけ連れ回すにしては、若すぎる。
 そして、田中の最後の一言――

 「また、お会いましょう?……私と?何故?」

 意気投合したわけでもない。何か商売で関わることがあるのか?羽倉崎は、人懐こい笑みを浮かべた光留の真意が、さっぱり理解できなかった。
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