紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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小夜嵐

 ◆◆◆◆◆

 薄く浮かべた物思いを「わかっております」と、無理に笑顔に変えたのは瀬戸物町の里。まるで、自身に言い聞かせているようだった。

「暫くは 男爵家から、お手当が出ておりましてね。家も元々は、奥様……泰臣様のお母様が男爵から頂いたものでして、贅沢をしなければ生活は出来たのです」

 一転したのは、5年程経った頃だという。突然、手当が止まった。それは致し方ないと思っていたのだが、何故か、家からも追い出されたという。
 当時、17歳になっていた泰臣は学生であったが、多少の工面は出来たそうで、少し狭いが2人で住むには十分な家を借りてくれたと云う。
 この頃、羽倉崎も事情を知り、親身になり相談などにも乗ってくれるようになったと。

「男爵夫人は、男爵と咲様を疑われていたのだと思います。咲様は、15にお成りでしたので、これ以上 関わらせたくなかったのでしょう。しかし、運命とは分からないもので……」

 里は、悩ましげに額を抑える。乱れた前髪が、苦悩を更に増して印象付けた。

「あれは、咲様が16……いえ、17にお成りでしたか、夜中に羽倉崎様が見えられましてね。私も、これは一大事だと思いました。ええ、思いましたとも」

 普段は、昼間に現れる羽倉崎が、就寝する頃合いに現れたと云う。近くで寄り合いがあり、屋敷に帰るのが億劫だから、泊めてくれと。

「滅相もない! 女2人の家に……と、私は非難致しました。しかし、普段の生活の面倒は、羽倉崎様がみられていると言っても、過言ではありません」
「ああ……」

 光留は、嘆息を漏らした。
 頼る者は、泰臣と羽倉崎しかいない2人にとって、学生の泰臣だけでは、生きていくことも儘ならなかったのだろう。咲が17ということは、泰臣は19だったはずだ。
 成人に1年足りない。もし、これが成人していたら、咲の選択肢は 違ったものになっていた可能性はある。

 ―― ああ、そうか。もしかしたら羽倉崎さんは……。

 同じ状況なら、誰しもが考えるだろうと、失笑を漏らした。

「あの日は、秋の夜風が強うございました。あとにも先にも、あのような恐ろしい小夜嵐はないでしょう。雨戸が、ガタガタと鳴り、恐ろしい事態に耳を塞ぎ、夜が明けるまで土間で身を固くし、時が過ぎ去るのを待ちました。咲様は、私の比ではなかったでしょう」
「……泰臣君の耳には、すぐに?」

 里は、静かに2度、3度、首を振った。

「比較的、最近でございます。こちらの家に越してくる頃ですので、昨年の師走でした。羽倉崎様と晃子様のご婚約が決まった時でございます」

 羽倉崎は、晃子との婚約を大層喜んだという。心踊るという言葉がピタリと当てはまったと。そうなれば、落ち込むのは咲だ。日に日に元気が無くなっていくのが見ていられない程だった。そんな様子を泰臣が気付かないわけがない。すぐに露呈し、強く非難の言葉を浴びせてきた。

「晃子様は、男爵家の総領姫様です。咲様の存在を知られては、泰臣様のお立場も厳しくなられるでしょう。咲様は、羽倉崎様にお願いし、泰臣様の借りられている家を引き払い、羽倉崎様のご準備された家に移られました。それが、ここ瀬戸物町の家でございます。名実ともに、羽倉崎様がとなられました」
「そうでしたか」

 寂しく微笑む 咲の白い顔を、朝顔のようだと例えたのは、4月。

「いつお生まれになるのです?」
「来年の3月頃かと」

「……で、何故今日は、お2人でお出掛けなのです?」
「旦那様が、気を使われたのでしょう。お子を宿されて、少しお元気になられたのですが、今回の鬼怒川……」

「へえ、ご機嫌とりですか。それは、それは。ああ、里さん 僕が来たことはご内密に」
「何故です?」

「色々と聞いてしまいました。会わなかったことにしておいた方が、里さんの為ですよ」

 唇に人差し指をあてる光留は、悪戯を思い付いた子供のように屈託なく笑う。
 晃子を瀬戸物町へ連れ出すという難題を、解決するにあたり、思わぬ収穫を得た。
 5日後――、何がなんでも止めないと世間は、2人を結婚間近と考えるだろう。婚姻前の男女が外泊をするとは、常識ではない。
 例え後々、言い訳じみた理由をつけたとしても、払拭できようはずもなく……。晃子を子爵家へ向かえるにあたって、他の男と鬼怒川温泉へ出向いた女という肩書きは、不味いのだ。
 しかし、まさかの伏兵が泰臣だったとは、予想だにしなかった。里から聞き出した鬼怒川行きが、羽倉崎の一存でないことはピンときた。男爵の意向しかあり得ないとも。
 ただ、それが本当に男爵の意向なのか? 夫人、もしくは泰臣の差し金なのかは、わかりようがない。だが、何故だろう。尾井坂家へ乗り込み、泰臣に詰め寄る過程で確信したのだ。
 泰臣だと――。
 魂胆を秘めた微笑み、和解か、宣戦布告か、差し出された右手。握手を求める学友の手を振り払い、通りで一休みしていた俥に飛び乗ったのは、昨日の出来事だ。ガタガタと鳴るほろの耳障りな音が、しみじみとした泰臣の声に聴こえるのは、動揺の表れか。

「ありがとう、。あの女を落としてくれて」

 計画だったのか?
 あからさまに反対していた言葉も、苦虫を潰したような顔も演技だったと云うのだろうか?

「いや、どちらにせよ同じ……」

 泰臣が賛成だろうが、反対だろうが、晃子に振り向いてもらう必要があった。これは譲れない光留の想いなのだから、やり方で今の結果を変えることなど、あり得ないと。
 
「明日、晃子さんをお誘いして咲さんをお訪ねしようか……」

 前途多難な恋の行方を前進させるには、起爆剤が必要な気がした。これが道を鬱ぎかねないものになるかも知れないが、他に方法はない気がしたのだ。
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