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井筒
見渡し、粗を探す必要もない。
ケチをつけようと思えば、いくらでも――と云ったボロ屋敷だ。褐色の瞳を眇め、不躾に品定めをする。質屋にでもなった気分だ。
「伯爵、至る所がいけません」
こう言うと グルリと向き直り、玄関の向こう――、屋敷の門構えを指差してみせる。
「少々気になります……いえ、かなり気になります。御門の軒先、今にも落ちそうで みすぼらしい。御家の顔となるべき部分です。早々にお直しになられた方が……と言っても、駒子さんのお支度などで入り用でしょうし、ここは尾井坂さんに頼んでみては?」
役にも立たない矜持を振りかざされ、言い訳をされても聞く気もない上に、時間もない。
光留は、おっとりとした京訛りが唇から放たれる前に、全てを語りきった。
駒子の支度で入り用とでも言っておけば、プライドも維持出来るだろうと。勿論、伯爵家が 金を出す訳がないが。
提案としては願ったりだろうが、大宮伯爵は浮かぬ顔だ。理由はすぐに語られた。
「しかし、駒子の作法まで講師を付けて頂いたし……」
「いえ、それは当然です」
伯爵の遠慮を、ピシャリと退けるのは光留の凛とした声、一言では終わらない。これは、どうしても呑んで欲しい提案なのだ。
「駒子さんの立ち居振舞いが、尾井坂家にとって大切になるのですから、講師の手配など当然であります。ああ、何故 僕が、こんなことを口にするか不思議に思われますよね?……少々、お耳を拝借」
有無を言わさず伯爵の肩に顔を寄せた。
密か事と認識させることが、大事なのだ。
当然ながら声音は 低く落とし、逸らされた視線は地面で揺れる草へ移る。
「男爵令嬢の縁談が、近々まとまります。あちらは、総領姫です。残念ながら泰臣君は、跡取りですが妾腹。男爵家は、夫人も揃って大変なお支度をされるでしょう。そうなると泰臣君の花嫁御寮である駒子さんのお支度が、それに勝るわけがありません」
伯爵が、ハッと息を呑む。資金目当ての婚姻であるのだから、その目論見が崩れる事柄に敏感なのは仕方がない。
「屋敷の修繕費を心良く出させる為には、今しかありません。明日、男爵家は何やら大きな催しがあるそうで……今すぐ泰臣君を呼びつけて、お話をされるのが得策です」
「今!? 急過ぎないか?」
「何を仰っているのです!僕の話を聞いていたのですか、明日男爵家で何かあるのですよ? 本日中に承諾させないとダメでしょう」
勿論、明日男爵邸である動きは、鬼怒川への出立であり、晃子の結婚など関係はない。
「わかった、今すぐ尾井坂さんの所へ……」
「貴方が行ってどうするんです!ああ、ちょっと、そこの貴女!」
裏木戸へ繋がる奥で、水を汲み始めた下女を見つけると大声で呼び止めた。
しかし、距離がある上に向こうは、釣瓶を落とし、縄を引き上げているのだ、滑車の音だけでもガラガラガラと鳴り響く。
声は届いていないようだった。察した光留は、間を置いた。
軋む縄、ひっくり返す桶からザバーと、水飛沫 飛び散る音が響き、再び下女が、井戸に釣瓶を落としかけた時
「ちょっと!そこの井筒の君!」
井筒とは、井戸の枠のことだ。
女は、すぐに自分のことだと気付いたようだが、同輩の者が ふざけ呼び止めたと思ったのだろう、気だるげに首を回すと「何や~」睨める視線を投げてきた――が、瞬時にギョッと眼を剥いた。
縄が、指からすり抜ける女の
「へ、へえ!何でございましょう!」と言う、上擦った叫びと 共に上がったのは、ガラガラガラ――、ドボ――ン!! と、井戸の底に叩きつけられた桶の悲鳴だった。
「手を止めて申し訳ない」
前掛けで、手を拭きながら やって来た女に、光留は更紗の札入れから抜き取った1円札を、有無を言わさず握らせると、突き返されないように強く両手で握りしめた。
鹿鳴館の馬車内で、晃子の手をからめとった時のようだが、同じ動作でも口にする言葉は、全く違う。驚く女に囁くのは、甘言ではない。
「良いですか? よく聞いて下さい。今から、伯爵のお使いで文を届けて貰いたいのです」
握らされた大金に高ぶっているのか、それとも目の前の美貌の男にか、女の頬はみるみる内に真っ赤に染まった。
「はは!林檎みたいですね、美味しそう……あ、こんなこと言ってる場合じゃない。伯爵、文を。内容は ただ一言、直ぐに参るようにと、泰臣君を呼びつけてください。僕のことを匂わせてはダメですよ。尾井坂家の慶事は、宮内省で知り得たことを漏らしたのですからね」
大嘘をつき、釘を刺す。何が何だか……といった表情だが、金が絡むとそうせざるを得ないとばかりに、伯爵は頷き 踵を返した。
ギシギシと、軋む足音が遠ざかるのを耳に捉えつつ、握る指先の持ち主を再度、見つめ継ぐ。
「良いですか? 今から、途中までお送りします。貴女は、伯爵の使いで文を届けます。主の返答を聞き、待たせていた俥で ココにお戻りください、お返事は?」
「は、はい!」
「そして、僕のことは忘れてください。屋敷の主が何か聞いてきても、伯爵に頼まれたと仰ってください。どうです? できますか? できるのならば、これでお好きな物でもお買いなさい」
女は、荒れた指先を覆う、真っ白なグローブと握ったことのない大金に、ゴクリと唾を呑むと「お任せください」と、掠れた声と共に頷いてみせた。
ケチをつけようと思えば、いくらでも――と云ったボロ屋敷だ。褐色の瞳を眇め、不躾に品定めをする。質屋にでもなった気分だ。
「伯爵、至る所がいけません」
こう言うと グルリと向き直り、玄関の向こう――、屋敷の門構えを指差してみせる。
「少々気になります……いえ、かなり気になります。御門の軒先、今にも落ちそうで みすぼらしい。御家の顔となるべき部分です。早々にお直しになられた方が……と言っても、駒子さんのお支度などで入り用でしょうし、ここは尾井坂さんに頼んでみては?」
役にも立たない矜持を振りかざされ、言い訳をされても聞く気もない上に、時間もない。
光留は、おっとりとした京訛りが唇から放たれる前に、全てを語りきった。
駒子の支度で入り用とでも言っておけば、プライドも維持出来るだろうと。勿論、伯爵家が 金を出す訳がないが。
提案としては願ったりだろうが、大宮伯爵は浮かぬ顔だ。理由はすぐに語られた。
「しかし、駒子の作法まで講師を付けて頂いたし……」
「いえ、それは当然です」
伯爵の遠慮を、ピシャリと退けるのは光留の凛とした声、一言では終わらない。これは、どうしても呑んで欲しい提案なのだ。
「駒子さんの立ち居振舞いが、尾井坂家にとって大切になるのですから、講師の手配など当然であります。ああ、何故 僕が、こんなことを口にするか不思議に思われますよね?……少々、お耳を拝借」
有無を言わさず伯爵の肩に顔を寄せた。
密か事と認識させることが、大事なのだ。
当然ながら声音は 低く落とし、逸らされた視線は地面で揺れる草へ移る。
「男爵令嬢の縁談が、近々まとまります。あちらは、総領姫です。残念ながら泰臣君は、跡取りですが妾腹。男爵家は、夫人も揃って大変なお支度をされるでしょう。そうなると泰臣君の花嫁御寮である駒子さんのお支度が、それに勝るわけがありません」
伯爵が、ハッと息を呑む。資金目当ての婚姻であるのだから、その目論見が崩れる事柄に敏感なのは仕方がない。
「屋敷の修繕費を心良く出させる為には、今しかありません。明日、男爵家は何やら大きな催しがあるそうで……今すぐ泰臣君を呼びつけて、お話をされるのが得策です」
「今!? 急過ぎないか?」
「何を仰っているのです!僕の話を聞いていたのですか、明日男爵家で何かあるのですよ? 本日中に承諾させないとダメでしょう」
勿論、明日男爵邸である動きは、鬼怒川への出立であり、晃子の結婚など関係はない。
「わかった、今すぐ尾井坂さんの所へ……」
「貴方が行ってどうするんです!ああ、ちょっと、そこの貴女!」
裏木戸へ繋がる奥で、水を汲み始めた下女を見つけると大声で呼び止めた。
しかし、距離がある上に向こうは、釣瓶を落とし、縄を引き上げているのだ、滑車の音だけでもガラガラガラと鳴り響く。
声は届いていないようだった。察した光留は、間を置いた。
軋む縄、ひっくり返す桶からザバーと、水飛沫 飛び散る音が響き、再び下女が、井戸に釣瓶を落としかけた時
「ちょっと!そこの井筒の君!」
井筒とは、井戸の枠のことだ。
女は、すぐに自分のことだと気付いたようだが、同輩の者が ふざけ呼び止めたと思ったのだろう、気だるげに首を回すと「何や~」睨める視線を投げてきた――が、瞬時にギョッと眼を剥いた。
縄が、指からすり抜ける女の
「へ、へえ!何でございましょう!」と言う、上擦った叫びと 共に上がったのは、ガラガラガラ――、ドボ――ン!! と、井戸の底に叩きつけられた桶の悲鳴だった。
「手を止めて申し訳ない」
前掛けで、手を拭きながら やって来た女に、光留は更紗の札入れから抜き取った1円札を、有無を言わさず握らせると、突き返されないように強く両手で握りしめた。
鹿鳴館の馬車内で、晃子の手をからめとった時のようだが、同じ動作でも口にする言葉は、全く違う。驚く女に囁くのは、甘言ではない。
「良いですか? よく聞いて下さい。今から、伯爵のお使いで文を届けて貰いたいのです」
握らされた大金に高ぶっているのか、それとも目の前の美貌の男にか、女の頬はみるみる内に真っ赤に染まった。
「はは!林檎みたいですね、美味しそう……あ、こんなこと言ってる場合じゃない。伯爵、文を。内容は ただ一言、直ぐに参るようにと、泰臣君を呼びつけてください。僕のことを匂わせてはダメですよ。尾井坂家の慶事は、宮内省で知り得たことを漏らしたのですからね」
大嘘をつき、釘を刺す。何が何だか……といった表情だが、金が絡むとそうせざるを得ないとばかりに、伯爵は頷き 踵を返した。
ギシギシと、軋む足音が遠ざかるのを耳に捉えつつ、握る指先の持ち主を再度、見つめ継ぐ。
「良いですか? 今から、途中までお送りします。貴女は、伯爵の使いで文を届けます。主の返答を聞き、待たせていた俥で ココにお戻りください、お返事は?」
「は、はい!」
「そして、僕のことは忘れてください。屋敷の主が何か聞いてきても、伯爵に頼まれたと仰ってください。どうです? できますか? できるのならば、これでお好きな物でもお買いなさい」
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