紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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前夜

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「申し訳ありません。林田とお話中かと思いまして、部屋を出るのが遅くなってしまいましたわね」
「嫌味ですか?」

「あら、そう思われることを なさっているのかしら? 参りましょう」
「どちらへ?」

 晃子は、踏み出した足をピタリと止めた。どちらへ――とは、いかなることか。ここは、晃子の部屋であるのだから、応接室へ移動するのは当然だ。

「羽倉崎さん、婦女子の部屋へ入り込むなど 恥ずべきことですわよ?」
「恥とも思いませんね、ここで結構」

 羽倉崎は、ズカスガと入り込むと、窓辺に置かれた椅子に腰を掛けた。こうなっては、聞く耳を持たないと知っている晃子は、さっさと話を終わらせるべく、向かい側へ腰を下ろす。

「司法省へ呼び出されて、遅くなってしまいました」
「司法省? 何かあったのですか?」

「いや、あくどい事をやっている連中がいるらしく、それについて知っていることはないか?と……まあ、誤解は溶けたようだったから、大丈夫でしょう」

 首もとのタイを指で引き下げ、疲れた様子をみせる羽倉崎に、光留の言葉を思い出した。夕刻まで足止めされる――、つまり司法省の件は、光留が手を回したことだろう。そして 帰り際、こうも言った。

「晃子さん、明日上野駅で羽倉崎さんを足止めしようと思います。屋敷で止めても、別の日に出立されては解決しません。ギリギリの時刻で止めます。晃子さんは、先に汽車に乗り、羽倉崎さんは乗せません。僕と鬼怒川へ参りましょう」

 とんでもない提案に、聞きたいことは山ほどあったが、すぐに終わる話ではないだろう。庭に立つ理由も、不意に泰臣が帰宅した場合に備えてのことかもしれない――と、察した。

 ――  明日、上野駅で足止めをする為の理由として、司法省へ呼び出したのかしら?

 ぼんやりと目の前の婚約者を見つめた。
 懐から煙草を取り出し、先端にフッ!と 息を吹きかける羽倉崎は、ここで向けられた視線に気付いたようで「あ!」と、指で摘まんだ煙草を口元から離した。
 無意識だったのだろう「失礼しました」と、元の煙草入れに戻し、深い溜め息をつく。落胆したようにも見える仕草に
「心ここにあらず……といった風ですわね」と、静かに尋ねた。

「そんなことはありません。少々、不思議な呼び出しだったもので……ところで、田中様が見えられたとか?」

「ええ、泰臣さんを訪ねて。ただ不在と知ると帰ってしまわれました」
「何を話されたのです?」

「また、そのような……」
「また、始まったという顔ですね。そうではないのですよ、聞き捨てならないことを耳にしましてね……ああ、ダメだ。つい指が煙草に伸びる」

 羽倉崎は、苦々しいとばかりに眉を寄せると、煙草をテーブルに滑らせた。

「袂にでも突っ込んで、私に見えないようにしてください」
「ふふ!そんなに美味しいものですか」

「何でしょうかね、落ち着くと言った方がしっくりきます。で、何を話されたのです?」
「特には……」

 羽倉崎は、涼しげな目をフッと窓へ向けた。腕を組み、顎をしゃくる仕草にを差していることは、すぐに気づいた。そして、それが誰の話にたどり着くのかも。
 しかし、あの時 周りには人がいなかったことから、会話を聞いていた者など存在しない。見ていたとしたら、遠目だろう。

「ご挨拶のような言葉でしたので、記憶にありませんわ」

 晃子は、袂へ煙草を仕舞いながら口にした。視線を逸らせたことが、動揺を隠すことに一役買い、ありがたかった。
 羽倉崎に知られてはならない。上野駅で足止め――、知れば大変なことになるだろう。
 光留が、鬼怒川へ同行する。これは、2人揃って父の前に出ると言うことだ。おそらく、結婚の承諾を得る為に。
「僕と、鬼怒川へ参りましょう」
 そう言った光留は、窓枠に置かれた晃子の細い指先を掬い上げると、静穏であるが確かな熱を孕む眼差しで見上げてきた。

「あの日も、このように貴女を見上げました。キラキラと輝く葉間の日差しの中、こう仰られたのを覚えておられますか?貴女は、僕を忘れないと その唇で確かに仰られたのです」

 あの日とは、初めて出逢った日のことだ。晃子は、頷いた。キラキラと輝いていたのは、とても綺麗なお日様色の髪を持つ少年だった。
 今もなお、美しく輝く姿に変わりはないが、あの日の潤む瞳は、見る影もなく、ただ直向ひたむきで、乞う眼差しは 強い決意を秘めているよう。

「あの時、僕は 何と返答すれば良かったのか。何度も、何度も考えました。結局、答えなど出ません。もし、あの時に戻れても僕は、言葉にすることが出来ないでしょう」

 光留は、瞼を伏せた。見下ろす形の晃子からは、苦笑いを浮かべたようにも見えたが、すぐに唇は、キュッと引き結ばれる。

「可笑しいでしょう? 僕は、貴女を前にすると甘美な言葉も口にできません、気の利いたことも言えない。言葉を尽くし、貴女に思いの丈を打ち明けられたら、どんなに幸せなことか。しかし、どうしても言い尽くせないのです。それでも、僕の知り得る言葉で 貴女に恋うる気持ちを打ち明けるとするならば、この一言しかないと思っております」

 掬われた指先に光留の唇が触れた。秋陽に煌めくブロンドの髪が 伏せられた顔と共に、ゆっくりと天を仰ぎ見、褐色の眼差しは 静かに晃子へ当てられる。引き締まった形の良い唇は、これまでの長い片恋に、終止符を打つべく静かに開かれた。

 「晃子さん、僕と結婚してください」

 
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