紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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津多子

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 ◆◆◆◆◆

 事態の収拾に苦慮することは、晃子の為なら苦にならない。――が、出方を間違え、苦渋を味わうのは真っ平だ。身を切る思いは、欧州の1年で最後にしたいと光留は、悩ましげに黙り込んでいた。
 一方、そんな息子を他所に、香炉を手にする津多子は、右手で蓋をし 鼻を寄せている。いわゆる聞香もんこうだ。
 手のひらで蓋をすることで香りをため、匂いを聞く。本来は客人に回し、各々予想した香名を紙に記し、当てるといったゲームのようなものだ。
 スン――と、香りの筋を聞くと青磁の聞香炉を盆に乗せ「尾井坂さんにご連絡は?」と、初めて口を開いた。

「これから僕が」
「で? 人間のアキさんは、何故ここに?」

「晃子さんとお呼びください」
「で? 何故?」

 津多子は そっぽを向き、脇息にもたれ欠伸あくびをする。興味があるのか、ないのか分からない態度だ。

「まだ、詳しくは聞いておりませんが……」
「何故、聞かないの?」

「もう少し落ち着かれてからと思いまして……ただ、男爵家に黙っている訳にもまいりません。何があったのかは、少し尋ねました」

 光留は、勝手口から奥へ向かう晃子の後を追い、尾井坂家へ事情を説明する為に、何があったか教えて欲しいと切り出した。
 未だに、動揺する素振りをみせる晃子を なるべく刺激することなく、聞き出した内容は、羽倉崎が無体な真似をしたこと。それから逃れる為に、手元にあったランプで殴り逃げてきたという内容だった。
 
「これ以上のことは、明日にでも」
「あら、許嫁を殴ったの? その人、どうなったのかしら?」

 相変わらず津多子の視線は、真正面を向いておらず、今は閉じられた窓辺の金魚鉢を眺めている。舶来ガラスの中で 漂う、朱の尾びれに魅入ると云うより、故意に視線を逸らしているような態度なのだが、いつものことで今更、可笑しいと思わないのだろう「死んではいないでしょう」と答える光留も、淡々としていた。

「それで? 貴方は晃子さんを、どうしたいのです? 」
「愚問ですね、ご存知でしょう? 僕が何故、欧州に行ったのか」

「……そう、わかりました。尾井坂さんには私がお電話をしましょう」

 許嫁を殴りつけ、履き物も履かずに飛び出した令嬢を匿うことに、難色を示すのが普通だろうが、津多子はあっさりと了承し、話をつける役を買ってでた。
 これまで、光留に感心を寄せたこともなく、宮家の縁談を蹴った時も、欧州視察にも口を挟むことがなかった母の変貌に「いや……お待ちを」と、引き留める言葉を吐くのは当然なのだが、脇息から ゆるゆると身体を起こした津多子は、首を横に振る。
 待て――に、対する拒絶だ。

「貴方が、泰臣さんにお電話をしても、埒があかないでしょう? 晃子さんのご生母にご連絡しなくては……それに、子爵家にも関わることです。私が」

 初めて視線が合った。
 確かに、泰臣に話しても これ幸いとばかりに、晃子を迎えにくるだろう。そうなれば、終わりだ。しかし、何と説明するのか気になる――と、ジッと見つめ返した。
 目は 口ほどに物を云うとは、良く言ったものだ。
 察した津多子は「お預かりしたいと、そのまま申しますよ」と、立ち上がった。

「光留さん。お電話をお掛けして」

 この頃の電話は、初めに電話機についているハンドルを回し、発生した電気で、電話局の交換手を呼び出し、相手方の番号を伝える。これによって交換手が電話をつなげるのだ。
 そして、今回の相手方は男爵家。
 当然、尾井坂夫人が 1番に出ることはないのだから、津多子自ら電話をかけることもない。
 本来なら、家令か女中だろう。しかし、この件を知る人間は、少なければ、少ないほど良い。光留は、自らクランクハンドルを回すことに、異を唱えることなく津多子の前に回り込むと襖を開け、先んじて内玄関へ向う。
 耳に当てる受話器から「お話しください」と伝える交換手の言葉は、予想より早かった。夜間であり官庁も閉じられている為、混雑していなかったのだろう。
 受話器の向こうから「はい、尾井坂でございます」と男の声がしたことで

「本駒込の田中でございます。当家の津多子夫人より、尾井坂夫人にお取り次ぎ願いたい」

 田中家の家令のふりをし、取り次ぎを願い出た。
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