紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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帰京

 ◆◆◆◆◆

 男爵が戻って来たという報告は、瀬戸物町の里によってもたらされた。羽倉崎が、尾井坂邸へ向かったと云うことも。
 明日の午前中には、尾井坂家から連絡があると見当をつけ、屋敷の者達に何が起きても、晃子を屋敷外へ出さないこと――と申し付ける。それは、それは、強く言いつけるものだから、討ち入りでも起こるのかと、勘繰った者もいた程だ。
 そんな光留は、朝から司法省を訪ねた。
 大臣執務室の横にある次官執務室は、相も変わらず薄灰の煙が漂う。
 真っ白いグローブで作った拳を寄せ、ゲホッ、ゲホッ――と、咳き込んでみせるが、素知らぬ顔の清浦は、顎で着座を促す。

「こちらが不利な場合は、先手を打つことが重要と思っております。尾井坂男爵からすれば、自分が決めた許嫁を殴り、別の男の元へ走った娘です。考えられることは勘当ですが、これはないでしょう」
「当然だな。走った先が、君の所なんだから」

 脇に寄せられた黒盆の中身からして、相変わらず多忙なのが窺える。それでも時間を割いてくれるのは、乗り掛かった船ということか。

「ええ、それと羽倉崎さんが決して破談に首を振らないでしょう。あの人、晃子さんというより、尾井坂家の令嬢にご執心ですから」
「ほう、聞いたのかい?」

「ええ。精養軒せいようけんで、揺さぶりを掛けたことがありましてね」

 家柄や美貌も含めて晃子だと言った羽倉崎に、爵位の剥奪を匂わせた件だ。
 馬鹿馬鹿しいと思っていたようだが、宮内省の役人が語るのだから少々、気になっていたようにも見えた。

「ただの晃子さんでは、興味がないようでした。尾井坂家との強いパイプが、欲しいのでしょう。そのまま縁談を進めた方が、得策と考えても不思議ではありません」
「成る程、君よりマトモな考えをしているじゃないか、で?先手ってどうするんだい?」

 チクリと、嫌味の針を刺してくるから堪らない――が、聞き流す。いちいち反論していては話が進まない、清浦も承知で言っているのだ。

「おそらく明日には、何か言ってくるでしょう。それならば、先に呼びつけるまで」
「何処に?」

「鹿鳴館です」
「……ほう、ほう、成る程。場所に申し分はないなぁ」

 旧鹿鳴館は、華族の集まりに使われており、名を華族会館と改めていたが通りが良いのは、数年経った今でも鹿鳴館という名称だった。

「あそこは、宮内省内匠寮ないしょうりょうの管轄なので、すぐに押さえることができます」
「そういえば……近君が、肉を噛みちぎったのも貴賓室だったらしいじゃないか。今度、私も招待してくれないかい?」

「喜んで」

 今の清浦ならば、簡単に入れるというのに、わざわざ下手にでて頼む形を取るのは、人身掌握の手練手管なのか、元々の人となりなのか――
 光留は、朗らかな笑みを浮かべてみせると、深々と頭を下げ「感謝いたします」と礼を述べた。
 言葉の代わりに、フ――ッと 吐かれた白煙は、窓の向こうの枯れ枝とは対称的に、ゆっくりと たなびく。
 冬隣の北風が身に染みる季節に、木枯らしで カタカタと鳴る、ガラスに どちらからともなく視線を流した。

「時が経つのは、早いと思わないかい?」
「ええ、全くです。1年前、僕は宮家との縁談に絶望していました」

「私は、馬鹿な子爵家の跡取りの話を聞いた頃だ」
「馬鹿ですかね、やはり」

「いいや。昔、海軍少尉が品川の遊女に惚れて、足抜けさせたことがあったが……君も含めて、たいしたものだ。まあ、君の場合は晃子さんが、遊女だった方が簡単だったかもしれないがね」
「遊女でも、懸命に口説いていたでしょうね。僕は、晃子さんが 勘当されて無一文で投げ出されても気にならないし、想いは変わらないのです」

「そんなこと、欧州で思い知ったさ」
「……だから清浦さん、もう少し付き合ってください」

 思いかけず神妙な声音に「ほう?」と答えた清浦は、考慮する仕草を見せるが、すぐに軽く首を振った。

「何を?と尋ねようと思ったが、好きにするがいいさ。私に出来ることなら力になる」
「貴方は、何でも無理を利いてくれますね?いつも、娘を貰えなどと言っていましたが、あれは冗談でしょう?本当は、何が狙いなのです?」

「はは!人を高利貸しみたいに……近君から聞いていないかい? 私は、敵を作らないように心掛けている。味方を作るより、そっちが為になるんだよ」
「本当かなぁ……」

 真っ直ぐ向けられた眼に、清浦は肩をすくめ 蓄えた髭を、一撫でしてみせると
「ま、持ちつ持たれつ……」
 休憩はおしまい――と、名残惜しげに 煙草を灰皿に押し付けた。

「それでは、お時間を割いていただき、感謝致します。清浦閣下」
「はい、はい……はい!? 」

 文字を追う清浦の視線が、急ぎ 声の主を振り仰いだ時には、バタンと閉じた焦げ茶色の扉で遮られた。
 閣下――
 天皇の命とされる勅旨ちょくしによって任じられる、勅任官ちょくにんかんの敬称になる。実は、清浦はだった。
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