紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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「少し前まで日本にいた、ヘーン大尉が帰国されていましてね。この人、ドイツの仕組みを日本の警察組織に教え込む……そんな任務だったらしいです。その辺りは、僕も詳しくありませんが。清浦さんは、そのヘーン大尉のツテもあり、警察制度、監獄制度について視察されました。あとドイツ公使の西園寺さんとお会いしましてね。この人は、条約改正で粘ったようですが、上手くいかなかったとか。ご存知の通り、不平等条約の改正は 政府がやり遂げなければならないものです」

 自ら水注を傾け、空の湯呑みに白湯を注ぐ。チラリと向けられた視線に「私は結構」と、男爵が手のひらをかざすと、一口含んだ。
 
「残念ながら僕は、同席することが叶いませんでしたので内容は、分かりかねますが条約の件は絶対、話しているでしょう。ご存知とは思いますが、過去すったもんだと、散々揉め、諸外国はおろか政府内でも大騒動でした。伊藤閣下と大隈閣下の連携が取れていないんですもん。とうとう陛下が間を取り持たれるが、推進派の黒田閣下も大隈閣下も譲らず。結局、ヨーロッパから帰って来た山縣閣下が引導を渡して、改正の話はストップ。大隈閣下は足が失くなるし、黒田閣下は総理辞職、散々です……で、それからも色々ありましたが、今の内閣は 元勲内閣と呼ばれる実力者揃いです。頓挫した改正を進めようと伊藤閣下が考えるのは当然ではないでしょうか?いいえ、それだけではありません。やることは沢山あるのですから……前置きが長くなりました。申し訳ありません、突然結論を申し上げても ご納得頂けないと思いましたので」

 光留は、にっこりと微笑んでみせた。ここまでで、何か?と言わんばかりに。

「続けてくれたまえ」
「はい。帝国議会において衆議院第一党と政府は、初っぱなから揉めたと聞いております。総理は山縣閣下です。その後の松方閣下も。そして、現在の伊藤閣下も。意見の相違などは仕方ないとして、やはり反対勢力が幅を利かせていたら面白くないでしょう。それに帝国議会以前の改正問題で、あれだけ辛酸を舐めた元勲の方々です。先の先を考えるのは当然、となると手始めに貴族院です」

「手始め?」
「ええ、政党をどうにかするのには、時間がかかります。爵位で議席をもつ人達を会派でまとめる……男爵も、ある意味それが目当てでしょう?そこに金を握らせ、ご自身へ投票してもらう」

「ああ、その通り」
「これは、あくまで憶測です。確証があるわけではないです……が、結構、自信あります。初っぱなに洗礼を受けたのは、山縣閣下です。きっと驚いたでしょう。そして、その後の流れを見て察した筈です。ご存知ですか? 清浦さん、官僚を辞任した日に貴族院議員になってるんですよ」

 光留曰く、第1回帝国議会で山縣内閣と第一党が激しくやり合った後、清浦は官僚を辞任し、議員になったという。

「清浦さん、前々から欧州視察に興味があって、ゴネてたらしいです。もしかしたら取引があったのでは?」
「取引!? どんな!? 」

「山縣閣下の願いを了承する代わりに、欧州へ行かせてくれ……とか」
「願いとはなんだね?」

 気になるものの言い方に、おもわずテーブルに身を乗り出す男爵に合わせ、光留も身を乗り出した。

「清浦さん、最近会派に所属されたんですよね。40人足らずの……男爵、こちらの会派に移ることをお勧めします。おそらく、清浦さんは この会派を育て上げる命令を受けているはずです。そして、必ずやり遂げるでしょう」
「命令?誰の 」

「山縣閣下に決まっています。自身の腹心であり、議会法に詳しい清浦さんほど頼りになる人はいないでしょう。男爵、大所帯になる前に滑り込んだ方が良いですよ。なんなら僕が、清浦さんに繋ぎます」

 話は、ここまでなのだろう。光留は立ち上がると、颯爽と男爵の横に立つ。テーブルの端に置かれた2枚目の書面を滑らせ

「ご署名いただけますか?」

 さらりと流れる動作で差し出した。
 おそらく、答えはわかっているのだろう。男爵も、返答はしなかった。
 さっと、内容に目を通すと目尻のシワを深くし、筆を滑らせる。引き上がった唇は、愉快と云わんばかりだ。

「羽倉崎君への袖の下か?」
「ご冗談を。正当な取引です」

 もう話すことはない。どちらからともなく、ドアへ向かった。日暮れであることから、バザーのご夫人達も帰宅したようだ。
 しんと静まる館内に、靴音だけが響いた。

「もし、私が聞く耳もたず、晃子を返せと訴え出たらどうしたのだね?」
「そうなったら、それでも良いと」

「警察沙汰になっても?いや、宮内省が間に入るか?」
「ですね。土方大臣は、令嬢をお返ししろと言うでしょう。でも、返しません。理由は、すでに僕の子が宿ってるから……と、でも言いましょうか」

「いるのかね!? 」
「いませんよ!! 」

 2人の叫び声が反響し合う中、正面に停められた馬車のドアを光留、自ら開けた。
「寒い中、ご苦労様」御者を労い、男爵に手を差し伸べる。

「僕は 情けない男で、晃子さんを前にすると背伸びをしてしまいます、立派でありたいと。いつかボロが出て、嫌われてしまうのではないかと不安にもなります。寝室へ誘ったら殴られ、逃げられた――となったら、死にたくなるでしょう……ということで、羽倉崎さんの情けなさに僕が、心を痛めていたとお伝えください」
「嫌な男だな……」

 握手を交わすと、男爵は馬車へ乗り込んだ。凍てつくドアノブを握り、半分ほど閉めた所で「あ、そうそう……」と、手を止めた光留は、改めて開くことはせず、隙間へ顔を覗かせる。

「ドイツでお会いした西園寺さん、清浦さんと話した後、我々が滞在しているというのに、帰国したんですよ。その時は、ご病気と聞きましたが。しかし今、兼任で役についておられるらしいじゃないですか。突然元気になったんですかねぇ……あの人、伊藤閣下の腹心ですしね、皆様色々お考えなのかもしれません。それでは」
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