87 / 96
飾り櫛
しおりを挟む
普段から家に籠りがちの咲は、着飾った芸者や遊郭の女を見たことがない。
当然ながら、華族の令嬢も。
瀬戸物小町と呼ばれる御棚のお嬢さんが、1番の器量よしだと認識していたが
「咲様に、旦那様がいらっしゃらなかったら、きっと小町と呼ばれるのは貴女様です」
里が、言い募り 羽倉崎までもが
「確かに花柳辺りでも、咲さん程の人は 滅多にいませんよ」
などと言うものだから、お世辞としても嬉しかったことを覚えている。
恐ろしい小夜嵐から、想像していたものとは違う、何不自由ない生活に 初めて不安を覚えたのは、尾井坂晃子と羽倉崎の婚約成立であり、とても美しい人だと話した羽倉崎に、瀬戸物小町よりも、器量よしなのか?と、聞いてみたかったが 溢れた声は「そうですか」と、返すことが精一杯だった。
泰臣の姉、育ての親といっても良い泰臣の母を病ませた家の娘――
自分の存在が露見した時に、いや、その前に捨てられるのではないか?
泰臣とは 絶縁状態の中、どうやって生きていくのかと、考えれば考えるほど気鬱となったのは、丁度 1年程前だ。
そんな中の懐妊に、ホッと胸を撫で下ろした、浅ましい考えを思い出し、大きく膨らんだ腹を撫でる。
「いつぞやは、失礼いたしました」
「……お怪我は?」
「爪が かかっただけです。なんとも」
手の甲を優しく撫でた。
あの日は、注文していた斎肌帯が出来たついでに、好きな物を求めようと羽倉崎が、日本橋に連れ出してくれた。
婚約が決まっても、変化することのない優しさに、仕事を円滑に進める為の縁談で羽倉崎は、婚約者より自分を愛していると内心、勝ちを意識した日でもある。
それが、勘違いも甚だしいと思い知らされたのは、輝く黄蘗色の鼈甲櫛。
羽倉崎は、譲れと言った。
貴女の女主人と紹介されたのは、我慢できた。本来、側室や妾は 本妻の配下になるという。女主人というのは、嘘ではないと。
しかし、自分が手にした櫛を取り上げられ我慢を強いられたのは、未だに腑に落ちず、モヤモヤと事あるごとに気持ちを沈めるのだ。
詫びのつもりか、いくつもの代わりの品を身繕い、選べと差し出されても意地でも受けとりたくなかったのは、女としての矜持。
咲は、クスリ――と口許を綻ばすと
「あの鼈甲櫛は、御髪に飾られていないのですね?」と、尋ねた。
「鼈甲……ああ、あれは 貴女の物になったのではなくって?」
相変わらず晃子の視線は、逸らされているが、それよりも言葉の意味に、咲は反応した。
「あれは、貴女様にと羽倉崎が」
「ま、あんな物、受けとる訳がありません」
「あんな物とは?」
「あんな物とは、あんな物です」
笑みを浮かべ答える表情は、端からは機嫌良く談笑しているように見えるだろう。
「では、あれは 何処に……」
「さあ? お聞きになったら? 引き出しにしまってあるのか? それとも別の女に渡したのか。貴女の為に言っているのですよ、折角 男爵家の娘という肩書きを与えられたのです。大いに活用なさいな」
咲は、未だに視線を合わせない姉を見つめた。立場に泣き、諦めた物が 晃子にとってはあんな物とは。
「ふ、ふふふ……申し訳ありません。笑いが込み上げて……お姉様の申される通りですわね。私は、男爵令嬢として羽倉崎の妻になるのですもの。言いたいことはいう……そういたします。ただ、鼈甲櫛は 私も不要なのです。今は、気に入った物を持っておりますので」
「そう」
「何と仰ったかしら? 光沢のある黒が、上品で深みがあり、螺鈿細工が見事だと。私に、よく似合うと選んで下さいました」
「ま、羽倉崎さんったら 初めから鼈甲をお渡しになればいいのに」
「いいえ、これを選んで下さったのは光留様です」
伏せられた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。長い睫毛に縁取られた瞳が、映しているのは咲というより、黒髪を飾る品だろう。
「あら、本当に良い品ですこと」
「……と、言っても光留様が私に下さった物ではありません。羽倉崎が見繕った幾つかの品から、選んで下さったのです」
咲は、そっと結綿に挿す、飾り櫛に触れると、染々とした声音を放つ。
「とても素敵な方ですね」と。
「そうね」
真っ直ぐに見つめてくる双眸は、毅然とした強い眼差しを咲に向ける。
初めて会った日本橋よりも、顔合わせで見せた美しい微笑みよりも、今が1番 綺麗だと感じるのは、鍍金が剝げたのか、微かな憤りのような感情の欠片を、綺麗な顔に覗かせたからだろう。
それが、妾と嫌悪する女が 夫君の名を軽々しく呼んだからか、意志に反して視線を合わせたからか? もしかしたら、光留が選んだという部分が、気に入らなかったのかもしれない。
気分を害してしまった可能性もあるが、咲はおあいこだと思う。これまでは、お互い気分を害していた筈だが、立場上、引くしかなかった。
でも、今は違う。
「あんなケチがついた物、欲しくはありません。今度は、違うものをねだってみます」
儚げに呟く声に、黒髪を撫でる指先。
その髪には螺鈿見事な呂色の飾り櫛が、幸先の良い 咲の人生を感じさせるように、キラキラと輝いていた。
当然ながら、華族の令嬢も。
瀬戸物小町と呼ばれる御棚のお嬢さんが、1番の器量よしだと認識していたが
「咲様に、旦那様がいらっしゃらなかったら、きっと小町と呼ばれるのは貴女様です」
里が、言い募り 羽倉崎までもが
「確かに花柳辺りでも、咲さん程の人は 滅多にいませんよ」
などと言うものだから、お世辞としても嬉しかったことを覚えている。
恐ろしい小夜嵐から、想像していたものとは違う、何不自由ない生活に 初めて不安を覚えたのは、尾井坂晃子と羽倉崎の婚約成立であり、とても美しい人だと話した羽倉崎に、瀬戸物小町よりも、器量よしなのか?と、聞いてみたかったが 溢れた声は「そうですか」と、返すことが精一杯だった。
泰臣の姉、育ての親といっても良い泰臣の母を病ませた家の娘――
自分の存在が露見した時に、いや、その前に捨てられるのではないか?
泰臣とは 絶縁状態の中、どうやって生きていくのかと、考えれば考えるほど気鬱となったのは、丁度 1年程前だ。
そんな中の懐妊に、ホッと胸を撫で下ろした、浅ましい考えを思い出し、大きく膨らんだ腹を撫でる。
「いつぞやは、失礼いたしました」
「……お怪我は?」
「爪が かかっただけです。なんとも」
手の甲を優しく撫でた。
あの日は、注文していた斎肌帯が出来たついでに、好きな物を求めようと羽倉崎が、日本橋に連れ出してくれた。
婚約が決まっても、変化することのない優しさに、仕事を円滑に進める為の縁談で羽倉崎は、婚約者より自分を愛していると内心、勝ちを意識した日でもある。
それが、勘違いも甚だしいと思い知らされたのは、輝く黄蘗色の鼈甲櫛。
羽倉崎は、譲れと言った。
貴女の女主人と紹介されたのは、我慢できた。本来、側室や妾は 本妻の配下になるという。女主人というのは、嘘ではないと。
しかし、自分が手にした櫛を取り上げられ我慢を強いられたのは、未だに腑に落ちず、モヤモヤと事あるごとに気持ちを沈めるのだ。
詫びのつもりか、いくつもの代わりの品を身繕い、選べと差し出されても意地でも受けとりたくなかったのは、女としての矜持。
咲は、クスリ――と口許を綻ばすと
「あの鼈甲櫛は、御髪に飾られていないのですね?」と、尋ねた。
「鼈甲……ああ、あれは 貴女の物になったのではなくって?」
相変わらず晃子の視線は、逸らされているが、それよりも言葉の意味に、咲は反応した。
「あれは、貴女様にと羽倉崎が」
「ま、あんな物、受けとる訳がありません」
「あんな物とは?」
「あんな物とは、あんな物です」
笑みを浮かべ答える表情は、端からは機嫌良く談笑しているように見えるだろう。
「では、あれは 何処に……」
「さあ? お聞きになったら? 引き出しにしまってあるのか? それとも別の女に渡したのか。貴女の為に言っているのですよ、折角 男爵家の娘という肩書きを与えられたのです。大いに活用なさいな」
咲は、未だに視線を合わせない姉を見つめた。立場に泣き、諦めた物が 晃子にとってはあんな物とは。
「ふ、ふふふ……申し訳ありません。笑いが込み上げて……お姉様の申される通りですわね。私は、男爵令嬢として羽倉崎の妻になるのですもの。言いたいことはいう……そういたします。ただ、鼈甲櫛は 私も不要なのです。今は、気に入った物を持っておりますので」
「そう」
「何と仰ったかしら? 光沢のある黒が、上品で深みがあり、螺鈿細工が見事だと。私に、よく似合うと選んで下さいました」
「ま、羽倉崎さんったら 初めから鼈甲をお渡しになればいいのに」
「いいえ、これを選んで下さったのは光留様です」
伏せられた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。長い睫毛に縁取られた瞳が、映しているのは咲というより、黒髪を飾る品だろう。
「あら、本当に良い品ですこと」
「……と、言っても光留様が私に下さった物ではありません。羽倉崎が見繕った幾つかの品から、選んで下さったのです」
咲は、そっと結綿に挿す、飾り櫛に触れると、染々とした声音を放つ。
「とても素敵な方ですね」と。
「そうね」
真っ直ぐに見つめてくる双眸は、毅然とした強い眼差しを咲に向ける。
初めて会った日本橋よりも、顔合わせで見せた美しい微笑みよりも、今が1番 綺麗だと感じるのは、鍍金が剝げたのか、微かな憤りのような感情の欠片を、綺麗な顔に覗かせたからだろう。
それが、妾と嫌悪する女が 夫君の名を軽々しく呼んだからか、意志に反して視線を合わせたからか? もしかしたら、光留が選んだという部分が、気に入らなかったのかもしれない。
気分を害してしまった可能性もあるが、咲はおあいこだと思う。これまでは、お互い気分を害していた筈だが、立場上、引くしかなかった。
でも、今は違う。
「あんなケチがついた物、欲しくはありません。今度は、違うものをねだってみます」
儚げに呟く声に、黒髪を撫でる指先。
その髪には螺鈿見事な呂色の飾り櫛が、幸先の良い 咲の人生を感じさせるように、キラキラと輝いていた。
0
あなたにおすすめの小説
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
不器用な大富豪社長は、闇オクで買った花嫁を寵愛する
獅月@体調不良
恋愛
「 御前を幸せにする為に、俺は買ったんだ 」
〜 闇オク花嫁 〜
毒親である母親の為だけに生きてきた彼女は、
借金を得た母の言葉を聞き、
闇オークションへ売られる事になった。
どんな形にしろ借金は返済出来るし、
母の今後の生活面も確保出来る。
そう、彼女自身が生きていなくとも…。
生きる希望を無くし、
闇オークションに出品された彼女は
100億で落札された。
人食を好む大富豪か、
それとも肉体を求めてか…。
どちらにしろ、借金返済に、
安堵した彼女だが…。
いざ、落札した大富豪に引き渡されると、
その容姿端麗の美しい男は、
タワマンの最上階から5階部分、全てが自宅であり、
毎日30万のお小遣いですら渡し、
一流シェフによる三食デザート付きの食事、
なにより、彼のいない時間は好きにしていいという自由時間を言い渡した。
何一つ手を出して来ない男に疑問と不満を抱く日々……だが……?
表紙 ニジジャーニーから作成
エブリスタ同時公開
魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました
iru
恋愛
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。
両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。
両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。
しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。
そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか?
両片思いのすれ違いのお話です。
Pomegranate I
Uta Katagi
恋愛
婚約者の彼が突然この世を去った。絶望のどん底にいた詩に届いた彼からの謎のメッセージ。クラウド上に残されたファイルのパスワードと貸金庫の暗証番号のミステリーを解いた後に、詩が手に入れたものは?世代を超えて永遠の愛を誓った彼が遺したこの世界の驚愕の真理とは?詩は本当に彼と再会できるのか?
古代から伝承されたこの世界の秘密が遂に解き明かされる。最新の量子力学という現代科学の視点で古代ミステリーを暴いた長編ラブロマンス。これはもはや、ファンタジーの域を越えた究極の愛の物語。恋愛に憧れ愛の本質に悩み戸惑う人々に真実の愛とは何かを伝える作者渾身の超大作。
*本作品は「小説家になろう」にも掲載しています。
訳あり冷徹社長はただの優男でした
あさの紅茶
恋愛
独身喪女の私に、突然お姉ちゃんが子供(2歳)を押し付けてきた
いや、待て
育児放棄にも程があるでしょう
音信不通の姉
泣き出す子供
父親は誰だよ
怒り心頭の中、なしくずし的に子育てをすることになった私、橋本美咲(23歳)
これはもう、人生詰んだと思った
**********
この作品は他のサイトにも掲載しています
本日は桜・恋日和 ーツアーコンダクター 紫都の慕情の旅
光月海愛(こうつきみあ)
恋愛
旅は好きですか?
派遣添乗員(ツアーコンダクター)の桑崎紫都32歳。
もう、仕事がらみの恋愛はしないと思っていたのに…ーー
切ない過去を持つ男女四人の二泊三日の恋慕情。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる