紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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霞網

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 光留は、宵に見つかることなく、自室に滑り込むと、着ている物を脱ぎ捨てた。
 「何故、晃子さんが?」
  奈緒に理由を尋ねたが、聞かされていないと言う。
 容子の心労を慮り、婚礼の日まで尾井坂家で過ごすことを勧めたのは、光留だ。
「そう致します」と、二つ返事だったことを思えば、子爵家へ戻っているのは、些か不自然――。
 そんなことを考えながら、乱れ箱に用意されている指貫に足を通そうとし、普段とは違うソレを凝視した。

「馬上袴? 何で?」

 広げて見ても普段の指貫ではない。よく分からないが、手早く腰紐を結ぶと、白粉の匂いが、ぷんぷんとするという一式を、空いた乱れ箱に投げ入れた。
 まだ外は薄暗く、宵が挨拶に来るには、間があったが待っていても埒が明かない。

「あ~気が進まない……」

 深い息を吐き出すと、廊下へ出る障子を滑らせた。

「お帰りなさいませ」
「うわ!あ、晃子さん、どうされたのです?」

 いつから居たのか、部屋の前に立つ晃子に上擦る声を上げてしまった。我ながら落ち着きがない、いや、慌てているような印象を与え兼ねない態度に不味いと、口元に拳を寄せるが晃子は、何とも思っていないのか、静かに唇を開く。

「少しお話をと思いまして、ダメでしょうか?」
「貴女の頼みを、無下に断るわけありません。しかし、見たところ志賀さんにも内緒でしょう?朝食後に如何ですか?」

 髪は乱れていないことから、寝起きでやって来たとは思えない。身支度は整えているが、着替える暇がなかったのだろう。白小袖に綿入れを羽織った姿だ。
 おそらく帰りを待ちわび、様子を窺っていたのかもしれない。そう考えれば、余計に何があったのかと気を揉むのは当然で、先に宵から話を聞きたいと何とか、時間を稼ごうと試みる。

「いいえ、今が」
「ですよね、どうぞ」

 スルッと、横を通り抜ける姿に用件を見出だせないかと視線を当てるが、その背に怒りのような感情も、悲しみも見ることは出来ない。
 しかし、尾井坂家で問題があったことは確実だろう。それも自分が関わっているはずだと確信する。
 光留は、後ろ手に障子を閉めると、歩み寄ることなく尋ねた。

「どうしたのです?」
「立ち話では終わりません」

「そうですか。しかし、この部屋は一の間と言いまして、僕が腰を下ろすことが出来ないのです。使用人が御用聞きをしたり、このように着替える場所でして」

 部屋の隅にある、乱れ箱に指をさす。

「あとにします?」
「いえ、今」

 意思が固い!笑みを浮かべる頬が引きりそうな錯覚を覚えたが、仕方がない。晃子に下がれ、など言えないのだから。

「それでは朝食は、こちらで取ることになりそうですね」
「何をされているのです?」

「時間に間に合わないのなら、朝食よりも寝たいのです」

 袴を脱ぐと、乱れ箱の側まで蹴りやった。

「ちょっと、失礼」

 晃子の肩に手を伸ばし、綿入れの袖から丁寧に腕を抜くと、そのまま畳に落とす。何をするんだと言わんばかりの視線が痛いが、構わず手を握り、次の間の襖を開けた。

「ここは、次の間……まあ、二の間です。見ての通り、僕の自室にあたります。どうぞ」

 机や本棚が置かれており、書斎のような作りになっていた。晃子は、ぐるりと見渡す。

「私が、初めて離れに足を踏み入れた時、お話をした部屋は?」
「あれは自室と言っても、人と会ったりする部屋になります」

「応接室のような?」
「まあ、そう思って構いません。そして1番奥」

 繋いだ手を放し、一の間と二の間を仕切っていた物とは格段に違う、立派な金物引手に指を掛けると、力を込めて開け放った。

「ここが僕の寝室です。どうぞ」
「どうぞ!? 寝室でお話をするのですか!?」

「ええ、寝たいので。それに火鉢に炭も入っていません。寒いではないですか」

 乱れもない布団は、昨夜 主が暖めることなく夜が明けた状態だ。光留は、踏み出し三の間に立つ。

「どうぞ」
「いえ……私は」

「捕って喰いやしませんよ。そんな格好では風邪をひいてしまいます」
「あ!綿入れを取って参ります」

「ダメです!!」

 呼び止める声は、今までに聞いたことのない乱暴な物言いで晃子は、驚愕した。

「あれは、一の間の畳に落ちた物ではないですか。不浄なものです。僕が普段、何故手袋をしているのか、ご存知ないのですね」
「え!潔癖であられたのですか!?」

「物によります。ただ、直面した時に手袋をはめるのも変でしょう?用心です。それより、お話は昼でも良いのですよ?」
「……何やら今、お話したくないご様子」

「まさか!逆に、場所を選らばれると言うことは、今じゃなくても良いのでは?」
「急ぎではありません。ただ早くハッキリさせたいのです」

「ハッキリ……」

 ハッキリとは何だ? 考えを巡らせる。
 嫌な予感が的中しそうだと、内心 眉を寄せた。状況的に考えられるのは泰臣だ。
 腹いせに、何か口走ったのではないか?と。そうなると、玄人遊びを匂わせた可能性が高い。しかし、帰国してこの方、付き合いでお座敷遊びはしたが、入れ揚げるような真似はしていない。

 ――  おそらく、この程度で晃子さんの怒りを買うようなことはない……はず。

 少々、自信がないのは、泰臣の言い回し次第だからだ。

「そうですか……わかりました。貴女の知りたいことならば僕は、調べてでも教えて差し上げます」

 困惑とは裏腹に、動揺を微塵も感じさせないのは、十八番だ。
 もの柔らかな面立ち、甘美な笑みを浮かべる唇は、静かに言った。

「さぁ、お手をどうぞ」

 白銀の糸で獲物を捕まえるクモは、蝶が躊躇したら、どうやって誘うのか?
 きっと、下手な小細工などしないだろう。蝶と見紛みまごう程の美しいクモなら、尚更。光留は、繊細な指先を差しのべた。
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