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誓約
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世間様を騒がせる噂など、流れては消えを繰り返すいわば泡のようなもの。
子爵家従五位が、宮家の縁談を蹴飛ばして婚約者のいる男爵令嬢を掠め取った噂は消え去り、ここ本駒込の屋敷では、筆を片手に唸る夫に少し腹が膨らむ妻が声をかけていた。
「何を書かれているのです? 」
「誓約書、念書と言いますか……」
「誰にです?」
「貴女に」
一体、何を約束すると言うのか。晃子は、数度瞬きを繰り返すと、結論が出ないことを目で訴えた。
「言葉を尽くせば、必要ないと思っていたのですが貴女は、僕のことを信用していないようなので」
少し突き出た腹を撫でる光留は、拗ねたような口調で漏らす。
「困った おたあ様で、あらしゃいますなぁ」語りかける言い回しは、津多子夫人の真似だが、嫌味は混じっていない。
「……あら、何のことでしょう」
ツイッと、そっぽを向く横顔に「まぁ、良いですよ」と、静かに笑いかける顔は、何でもお見通しだと言わんばかりだ。些か、ばつが悪い。
芸者遊びなどは、嗜むものだと理解しているし、紳士が芸妓を俥に同乗させていることも良くあることだろう。
尾井坂男爵家においても、そういった俥は幾度も見かけたのだから。
得たいの知れない女が、屋敷の門をくぐることに眉根を寄せる晃子に、羽倉崎が耳打ちしたのは、何てことない諸事情だった。
「送ることで、芸者は早めに座敷を抜けられる。勿論、金は握らせます。理由はそれぞれでしょうがね」と。
他の座敷で見聞きしたことを、聞き出す為の袖の下だったり、逆に他言無用の意味だったり。
それでは、宮内省の役人である光留には、同乗する意味がないと思ったのだが――
「念書には、何を書かれているのです? 」
「何と書くべきか……一言で全てを備える言葉なんてありますか? 本気で貴女の憂いを払拭する文言を書こうとしたら、何条になるのか恐ろしくなりました」
本音なのか、冗談なのかわからないのは、晃子自身も近頃、嫉妬深いと自負しているからだ。母である容子の苦しみが、我が身のものになると考えると、ゾッとする。
「子を孕むと、そうなってしまうのでしょうか?嘘と思われるかも知れませんが私、羽倉崎さんが芸者を伴ったと聞いても、気にしませんでしたのよ?」
「嘘と思うわけありません。そして、孕むのとも関係ないでしょう」
「嫌だわ。私も、物に当たり散らしたりするのでしょうか……」
「まさか。男爵のなさりようと、僕のなすことが同じとお思いですか?」
そんなことは思わないと、首を横に振った。若奥様らしく、結い上げた黒髪には赤珊瑚が、一際 目を引く。
咲に見立てた櫛で、ヘソを曲げた晃子に光留が悩み抜いて贈ったものだった。飾り櫛と比べると赤珊瑚しか目につかないことから、地味に見えるかもしれないが、素材が珍しいベークライトということで、職人に依頼をした時点で大層、話題になった代物だ。
洋行から帰って来たかと思えば、突然婚約を発表したというのが世間の感覚であり、値が張る簪を作らせるとなれば、噂になっていた晃子への懸想が、本当だったと知らしめるのに十分な事柄となった。
「貴女は、僕を愛しているんですよ」
「嫌だわ……」
「嫌だわって……」
「そういう意味ではありません」
「何で、そんなに自信がないのでしょう。宵さんから聞きました。同乗した芸者を気にしておいでだったと。二重橋の向こうに出仕する僕が、芸者から聞き出す話なんてないだろうって? 口止めですよ」
料亭などに出向く相手は、清浦や近衛だ。だが この2人、聞かれて不味いことを芸者の前で口走る程、間抜けではない。
「間抜けは僕。清浦さんの話に乗せられてしまいました。初恋の相手を妻にしたと、大層冷やかされましてね。あんな話を、他の座敷でされては堪らないと……そんな具合です」
「あら、その程度ダメなのですか?」
「当たり前でしょう? 噂とは、尾ひれがつくものです。蓋を開けたら、何てことない話でもね。はい、こちらへ」
文机を引き、晃子の前に据えると背後に回り込んだ光留は、筆を握らせた。まるで手習いの練習のようだ。
「若だったら子爵と夫人ですが、姫だったら……」
軽く添える晃子の指先を、自身の指で強く握り滑らせる筆は、真っ白い紙に濃い跡をつける。書かれた文字は、璋子。
「どうです? 」
「しょうこ? 」
「ええ、当家の宝です。玉の意味を込めて」
「良い名ですわ」
「僕、兄弟が欲しかったんですよ。近衛さんが羨ましくて……なので、授かり物と申しますが、10人くらいどうでしょう?」
冗談だろう。言い終わらないうちに、明るく響く光留の声に晃子も、クスリと微笑むのは、同じ事を津多子にも言われたからだ。
『あの子、兄弟が欲しそうだったの。授かり物ですが……そうね、10人もいれば楽しいかも……』と。
この2人は、よく似ている。
「光留様は、お母上に良く似ておいでで……」
「津多子夫人ですか!? 止めてくださいよ、あんなに変な人間じゃありませんよ」
困惑した表情と、仄かに紅が差した頬が、本心を表しているようにも見え、晃子は口を開いた。
「光留様、覚えておいでですか? 帰国してすぐ、私に夫人の話をされました。幼少の頃、母上とお呼びしたら、不機嫌になられたと、お寂しそうに。今では、理由がわかります」
「そうですね。夫人なりに、宵さんへ配慮していたのでしょう。僕も、知ってはいましたよ」
光留は、母屋へ顎をしゃくる。ぽかぽかとした陽気に、開け放たれた屋内には人影がない。誰もいない一室に、視線を向け、ぼんやりと語る。
「あの日、学友は言ったのです。子爵は、異人に世継ぎを産ませたのかと。夫人は、毛唐に負けたと。僕は、怒りで声もでなかったのです。この言葉は、子爵や夫人、そして宵さんまで嘲るものです。今、言われたら撃ち殺しています」
子爵家従五位が、宮家の縁談を蹴飛ばして婚約者のいる男爵令嬢を掠め取った噂は消え去り、ここ本駒込の屋敷では、筆を片手に唸る夫に少し腹が膨らむ妻が声をかけていた。
「何を書かれているのです? 」
「誓約書、念書と言いますか……」
「誰にです?」
「貴女に」
一体、何を約束すると言うのか。晃子は、数度瞬きを繰り返すと、結論が出ないことを目で訴えた。
「言葉を尽くせば、必要ないと思っていたのですが貴女は、僕のことを信用していないようなので」
少し突き出た腹を撫でる光留は、拗ねたような口調で漏らす。
「困った おたあ様で、あらしゃいますなぁ」語りかける言い回しは、津多子夫人の真似だが、嫌味は混じっていない。
「……あら、何のことでしょう」
ツイッと、そっぽを向く横顔に「まぁ、良いですよ」と、静かに笑いかける顔は、何でもお見通しだと言わんばかりだ。些か、ばつが悪い。
芸者遊びなどは、嗜むものだと理解しているし、紳士が芸妓を俥に同乗させていることも良くあることだろう。
尾井坂男爵家においても、そういった俥は幾度も見かけたのだから。
得たいの知れない女が、屋敷の門をくぐることに眉根を寄せる晃子に、羽倉崎が耳打ちしたのは、何てことない諸事情だった。
「送ることで、芸者は早めに座敷を抜けられる。勿論、金は握らせます。理由はそれぞれでしょうがね」と。
他の座敷で見聞きしたことを、聞き出す為の袖の下だったり、逆に他言無用の意味だったり。
それでは、宮内省の役人である光留には、同乗する意味がないと思ったのだが――
「念書には、何を書かれているのです? 」
「何と書くべきか……一言で全てを備える言葉なんてありますか? 本気で貴女の憂いを払拭する文言を書こうとしたら、何条になるのか恐ろしくなりました」
本音なのか、冗談なのかわからないのは、晃子自身も近頃、嫉妬深いと自負しているからだ。母である容子の苦しみが、我が身のものになると考えると、ゾッとする。
「子を孕むと、そうなってしまうのでしょうか?嘘と思われるかも知れませんが私、羽倉崎さんが芸者を伴ったと聞いても、気にしませんでしたのよ?」
「嘘と思うわけありません。そして、孕むのとも関係ないでしょう」
「嫌だわ。私も、物に当たり散らしたりするのでしょうか……」
「まさか。男爵のなさりようと、僕のなすことが同じとお思いですか?」
そんなことは思わないと、首を横に振った。若奥様らしく、結い上げた黒髪には赤珊瑚が、一際 目を引く。
咲に見立てた櫛で、ヘソを曲げた晃子に光留が悩み抜いて贈ったものだった。飾り櫛と比べると赤珊瑚しか目につかないことから、地味に見えるかもしれないが、素材が珍しいベークライトということで、職人に依頼をした時点で大層、話題になった代物だ。
洋行から帰って来たかと思えば、突然婚約を発表したというのが世間の感覚であり、値が張る簪を作らせるとなれば、噂になっていた晃子への懸想が、本当だったと知らしめるのに十分な事柄となった。
「貴女は、僕を愛しているんですよ」
「嫌だわ……」
「嫌だわって……」
「そういう意味ではありません」
「何で、そんなに自信がないのでしょう。宵さんから聞きました。同乗した芸者を気にしておいでだったと。二重橋の向こうに出仕する僕が、芸者から聞き出す話なんてないだろうって? 口止めですよ」
料亭などに出向く相手は、清浦や近衛だ。だが この2人、聞かれて不味いことを芸者の前で口走る程、間抜けではない。
「間抜けは僕。清浦さんの話に乗せられてしまいました。初恋の相手を妻にしたと、大層冷やかされましてね。あんな話を、他の座敷でされては堪らないと……そんな具合です」
「あら、その程度ダメなのですか?」
「当たり前でしょう? 噂とは、尾ひれがつくものです。蓋を開けたら、何てことない話でもね。はい、こちらへ」
文机を引き、晃子の前に据えると背後に回り込んだ光留は、筆を握らせた。まるで手習いの練習のようだ。
「若だったら子爵と夫人ですが、姫だったら……」
軽く添える晃子の指先を、自身の指で強く握り滑らせる筆は、真っ白い紙に濃い跡をつける。書かれた文字は、璋子。
「どうです? 」
「しょうこ? 」
「ええ、当家の宝です。玉の意味を込めて」
「良い名ですわ」
「僕、兄弟が欲しかったんですよ。近衛さんが羨ましくて……なので、授かり物と申しますが、10人くらいどうでしょう?」
冗談だろう。言い終わらないうちに、明るく響く光留の声に晃子も、クスリと微笑むのは、同じ事を津多子にも言われたからだ。
『あの子、兄弟が欲しそうだったの。授かり物ですが……そうね、10人もいれば楽しいかも……』と。
この2人は、よく似ている。
「光留様は、お母上に良く似ておいでで……」
「津多子夫人ですか!? 止めてくださいよ、あんなに変な人間じゃありませんよ」
困惑した表情と、仄かに紅が差した頬が、本心を表しているようにも見え、晃子は口を開いた。
「光留様、覚えておいでですか? 帰国してすぐ、私に夫人の話をされました。幼少の頃、母上とお呼びしたら、不機嫌になられたと、お寂しそうに。今では、理由がわかります」
「そうですね。夫人なりに、宵さんへ配慮していたのでしょう。僕も、知ってはいましたよ」
光留は、母屋へ顎をしゃくる。ぽかぽかとした陽気に、開け放たれた屋内には人影がない。誰もいない一室に、視線を向け、ぼんやりと語る。
「あの日、学友は言ったのです。子爵は、異人に世継ぎを産ませたのかと。夫人は、毛唐に負けたと。僕は、怒りで声もでなかったのです。この言葉は、子爵や夫人、そして宵さんまで嘲るものです。今、言われたら撃ち殺しています」
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