紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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ノスタルジック

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 情けない、馬鹿にされた――と、話していたことから、光留自身を対象にした嘲りと思っていたが、実はを貶されていたという。

「取っ組み合ってでも、言葉を取り消させるべきだったのかもしれません。が、騒動を起こせば、津多子夫人が蔑まれたことを、同席の夫人らにも知られることになります。さらに恥の上塗り……僕は、黙るしかなかったのです」

 筆を持ち直し、滑らせる。曲線が緩やかに伸び、紙面に書かれるのは流麗な文字ではない。

「お陰で僕は、見初められました。学友を撃退していたら、違ったことになっていたかもしれませんが、ひとつだけ間違いないことは、その場に居合わせた海老茶式部に、恋をするということです。どうです? 似ていますか?」
「嫌だわ! これは、私ですか!? 」

 そこには、仁王立ちの人間が描かれていた。腹の前で結ばれた帯紐が長く、目立つことから女袴と思われ、髪は長い。

「そうです。強そうでしょう? 僕を叱りつけた令嬢です。地べたに座り込んでるのが、僕」
「強そう……」

 納得いかないが、悪い意味ではないのだろう。言った本人は、素知らぬ顔で黒盆を引き寄せ「そういえば貴女に夢中で、学友に仕返しをしていませんでした。今からでも遅くないですね」などと、言う。

「刃傷沙汰など、津多子様もお望みではありませんわ」
「まさか、子供じゃあるまいし。僕は、宮内省の人間ですからね? やり方は、もっとえげつないですよ」

 にっこりと微笑んでみせる光留は、黒盆を滑らせた。

「誓約書代わりに差し上げます」
「これを!? 」

「ええ、言ったでしょう? 滔々とうとうと流れる大河のように、人の気持ちも移り変わると。しかし、貴女を想う気持ちは、流れて消えることがなかったって。この時から、今まで。そして、これからも変わることはありません――ということで、モヤモヤした時は、これをご覧ください」

 指し示されたのは、強そうな海老茶式部。晃子は、堪らず声をあげ笑った。確かに、これを見たら負の感情は、消え去りそうだと笑い涙を指で拭う。

「見ようによっては、女学生が土下座をさせているようにも見えますね」
「あ、お気づきで? 今後、貴女がお怒りになられても このように僕は、膝をつきますと、いう意思表示ですよ」

「ま、子爵家の従五位は、妻の尻に引かれていると又もや、馬鹿と噂されるでしょう」
「大変、結構。だって、もうご存じでしょう?」

 光留は、晃子の指先を救い上げ唇を寄せる。昨年の今頃は、畏れ多くて堪らなかったものだ。

「暇さえあれば、泰臣君をダシに男爵邸へ通い詰めました。チラリとでも、お目にかかれないか、一言でも言葉を交わせないかと。帰国後、貴女から出迎えの挨拶をいただいた時には、どうやって手をとろうか……。どうです? 下らないでしょう? でも、僕は真剣なのですよ。これからも、貴女の気を引こうとするんですから、馬鹿な夫です」

 変わらないのだから仕方がない――と、新緑の葉を揺らす風に、くすぐったそうな声をあげる。

「実に、馬鹿な旦那様ですね 」
「嫌ですね、旦那様だなんて。また、宵さんが要らぬことを言ったのでしょう? 」

 想像がつくと、褐色の瞳を呆れたと眇める様子は、不服そうだ。

「嫌ですか? 」
「ええ、嫌です。僕は、貴女から名を呼ばれたい。何十、何百、その可愛らしい唇から紡がれる言葉で1番多かったのが、僕の名であって欲しいのです。ワガママですかね? 」

 死の間際まで名を呼ばれ、最期に耳朶じだに響く音は、晃子の声であって欲しいと継ぐ。そんな光留に、あの時と同じように花弁のような唇を綻ばせ「」と、囁いた。
 溢れる花びらのように、耳に落ちた言の葉は、あの日のように落胆させるものではない。その甘く乞う音に、相応しい言葉は 一つしかないだろう。

「恋に関しては、酸いも甘いも噛み分けているつもりですが 今思えば、酸いがあればこそと思います。これから生涯を通じ、nostalgicに思いを馳せるには、切なさも話の種には、必要でしょうからね」
「ノスタルジック? 」

「ええ、昔を懐かしむことです。心惹かれる、恋慕う、切なさを伴う感情も含めて。僕は、息が止まる瞬間まで、紀尾井坂のご令嬢を懐かしく思い、そして 妻を恋慕っているでしょう」

 紀尾井坂へ向かう馬車の中、金時計を跳ね上げ、鏡を覗き込んだのは、誰の目を気にしていたのか。
 2人の間に掲げた Opheliaを見つめ「とても美しい」と言った言葉は、何を指していたのか。これからの人生において、追憶する場面は ガタガタとなるほろに、苦々しい思いが込み上げた感情も、窓辺の名画とも見紛みまごう令嬢に、求婚した あの日の高揚も共にあるだろう。
 懐かしく、ほろ苦く、そして喜びの記憶を辿っても、必ず存在するのは ただひとり、紀尾井坂の令嬢しかいない。
 光留は、そよぐ風に撫でられる妻の後れ毛を、指ですき「貴女だけです」と、呟いた。


 【完】
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