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2章 Q.女の子になったら? A.引きこもる
16話 女の子の体とお風呂
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「……やっぱ、入らないとダメだよなぁ……」
――僕は、今、風呂場に来ている。
脱衣所。
服を脱ぐところ。
そうだ。
ここは、服を脱がなきゃいけない空間だ。
そう、僕自身に言い聞かせる。
罪悪感とか羞恥心とかのいろいろを、「これは必要なことだから」って大人の論理 で封じ込める。
大人は都合が良いんだ。
小賢しいから生き残れるんだ。
「鍵は……閉めた。スマホもOK。さすがの優花も、風呂とトイレまでは鍵NGとは言ってない……」
『ヒートショックは危険なんです』って前にぼそっと言ってたことがあるから、冬場は分からないけども……今は大丈夫なはずだ。
どきどき、ばくばく。
心臓が喉から出そう――そんな表現はマンガのものかと思っていたけども、実際になってみると本当にうっかり出てしまいそうだ。
ただでさえ吹けば飛ぶような心臓でも、肉体ほどには縮んでいないはずなのにね。
――脱衣所の洗面台、その上の鏡には上気してこわばった顔をした女の子が映っている。
ただし背が低すぎるために、首から上だけだけども。
「……今日くらい風呂は入らなくても……いやいや、1日でも風呂キャンとか僕的にはないし……体力さえあるんなら1日2回でも3回でも入りたいくらいだし……」
僕は、男のくせにお風呂が好きだ。
引きこもりニートを――部屋からなるべく出ない生活をしていても、お風呂だけは毎日掃除して入ってきた。
とにかく体が汚れているのがとてつもなく嫌なんだ。
一時期はトイレに行くたびにお風呂へ直行していたほどだ。
けども洗いすぎるのも良くないらしいから、しょうがなく我慢しているだけ。
例外は熱を出した――いや、そんなときでも湯船に浸かってきた。
それくらい好きなんだ。
そんな僕だからこそ、「たかが女の子になって恥ずかしい」くらいでお風呂に入らないとかいう選択肢は存在しない。
「……大丈夫、やらしい気持ちじゃない……それにほら、さっき漏らして腰から下が濡れちゃったし……」
僕は――服の下の女体を思い浮かべつつ、同時にかすかに上ってくる、甘いし香ばしいけどもそれでも排泄物には変わりのない臭いを吸い、諦める。
「漏らしさえしなければ。いや、どうせ髪の毛だって……こんなに長いんだし……」
そうだ、優花が――兄離れできなかった優花が、中学に入ってもしばらくは僕の風呂にすっぱだかで突撃してきてたからしょうがなく髪の毛と背中を洗ってやってた、あのころを思い浮かべるんだ。
「……ここに長く居すぎると、具合が悪くなって倒れてるかと勘違いして、優花がドアを壊してでも。時間的には寝てるはずだけど、優花、妙なところで勘が鋭いから……えいっ」
僕は、男だ。
男はこういうときにぐじぐじしない。
引きこもりニートはぐじぐじの極致だけど、それはしょうがないことだから脇にのけといて。
――たかが人間関係で何回かやらかして引きこもって勉強と労働を放棄しているのはともかく、今はちっぽけなプライドこそが原動力。
そうして僕は、勢いよくシャツを――がばっと剥ぎ取った。
「………………………………」
ふぅ――と、ひと息。
そして視線を戻す。
――鏡には、髪の毛がぼさぼさになったものの、変わらずに美少女な女の子の顔。
そして下には――胸が、
「………………………………………………………………」
足先からふとももまでは白くてすべすべで細くて、そのくせに腰は気持ち横に広がっていて。
股から下にはぶらぶらとしていた邪魔な物体も、部屋に増殖するのを嫌って定期的に剃っていた黒々としたもの――全身脱毛へ行くのは他人とコミュニケーションをする上全裸を見られるからNG――も存在せず、白くて丸い感じのかすかな膨らみ。
その上にもかすかに膨らんだ下腹とおへそ――そして、左右にわずかに、けれども確実に「男」のものではなく「女の子」の胸と、桜色の先端があって。
――男だった昨日まではまったく意識していなかったけども、たぶん色は焦げ茶色だったのが肌と同じく色素の薄いピンク色に変化していて、男だったときとは明らかに違って。
薄い薄いお椀状の脂肪がふよんと、確かに膨らんでいて――――
僕は無理やりに、意思で目を閉じる。
男としてのスケベ心は、意思でかなりコントロールできるんだ。
男だから生殖本能として脳みそまで女体を求めるのは仕方ないけど、優花相手と同じく興奮しちゃいけない対象には興奮しないように努めるんだ。
「……いやいや、視界に入るのは仕方ないけども、まじまじと見るのは犯罪……そう、これは子供だった優花のお世話、あるいは緊急事態で仕方なくするだけの、見知らぬ少女の介護……うん、落ち着こう……そもそも興奮すべきブツは天に召されているし……」
無くなった悲しいブツのことを想いながらぶつぶつと、沸騰しそうな頭を無理やりに誘導。
シャツを置いてタオルを手に取り――体を、決していやらしくならないように気をつけながら流して湯船へ。
……どうしても股周りをちゃんと流さないといけなかったのが、なんだか無性に恥ずかしいのを根性で抑えて。
「……ふぅ」
――ちゃぷり。
普段よりもすっごく高くなった浴槽を――恥じらいもなく脚をおっぴろげでまたぎ、そのままおしりまで沈もうとしたら口元まで来ちゃったお湯に慌て、腰を浮かせて腕でなんとか肩までで抑えてから……ため息。
「体……やっぱり、小さくなってるな」
首まで浸かるのが好きだからと、お風呂を入れるときに湯量を増やしていたら「節約してください」と優花に怒られて、泣く泣く戻した記憶。
……あれはたぶん、単純に――男の中で平均くらいの僕の座高で首まで浸かるお湯の高さにすると、きっと優花の背丈じゃ高すぎたんだろうな。
今の僕で溺れそうだったんだ、優花だって困ってたんだろう。
毎回お風呂のたびにお湯を少し抜く手間もあったんだろう。
ああ、他人への配慮が足りない。
自分のことしか考えていなかった。
普通の男として生まれて普通の男として生きてきて――その「普通の男」ってのがどれだけ恵まれてるかなんて考えたこともなかったから、今になってようやく知ったんだ。
「普通の男」すら、失ってから。
……そんなことも分からなかった僕と、そんな僕へ恥をかかせないようにって別の言い訳で改善させた優花とは、もう女神となめくじくらいの差ができあがっている。
「優花の方が、よっぽどしっかりしてるよな。当然か、大学だって模試の結果も、僕の入ってたところも余裕な成績だって言うし……そもそもの出来が違うからしょうがないけどさ」
ドア越しの、ささいな会話。
――ささいだけど、その日その日の報告を聞いていたら妹がどんな生活をしているのかってのが分かるんだ。
そうだよな、会話は大切なんだ。
家族だから、なおのこと――なのに、僕は。
お湯の中でクラゲみたいに広がってゆらゆらと揺れる薄紫色の毛先を眺めながら――その下の、水面以下の光の屈折で見えにくくなって安心する股と脚を眺めながら、僕は思う。
――当時の僕は若かったから、大学でゼミに入らないなんて選択肢は取れなかった。
後から思えば、うちの大学のうちの学科には……ゼミに入らないと卒業できないって決まりはなかったんだ。
ただただゼミ――大学生なら誰でも入るものだって思い込んでいたゼミナールに入り、教授に気に入られ、卒業論文を書かなきゃいけないんだって思い込んでいただけ。
だから、いざ入ろうと思っていろいろ探しても――良いなって思ったところほど人気で、面接にはたくさん人が居すぎてどこもお断りで。
そんな中、面接でがくがくしてた僕でもなんとか滑り込めたゼミでやらかして。
ゼミへ、そして大学自体へ――気まずいからと行かなくなった日々。
数ヶ月の引きこもり。
単位が足りなくて留年。
そして退学。
ニート。
引きこもり。
「……絶対に無理ってわけじゃ、なかったんだ。僕の失敗も、気にしないで良いって教授も先輩たちも……同級生も、言ってくれてた。成績は充分だし、がんばってくれればそれで良いんだってさ。数合わせだったとしても、こんな僕でも居て良いって言ってくれて。専攻分野も全然違うから、ゼミでの勉強に着いてけなくっても別に良いからって……そもそも僕なんかを、たとえ人数合わせでも入れてくれた聖人のごとき人たちだったもんな」
それは、デビューに失敗した高校も同じ。
無理をして無理な学校へ入って、無理な性格設定で無理なコミュニケーションを取ろうとしてできあがったのが、対応に困る人間。
「ただのコミュ障」。
「害はないけど変なやつ」。
恐らくはその程度の認識だったはずだ。
同級生たちは、一応普通に接してくれてはいた。
それを気まずく思い、学校へ行く途中に吐くまでになったのは、ただ僕の自意識過剰。
他人は、そもそも僕が存在したことすら忘れている。
分かってはいた。
分かっては、いたんだ。
「……でも」
そうだ。
自意識が強すぎて、引っ込みがつかない。
僕自身がかわいすぎて、周囲の人のことを誰1人認識していなかった。
ただ、それだけ。
ただそれだけの理由で、僕は高校3年間と大学の後半2年を――ついでで前半の2年も無駄に投げ捨て、ほんの少し気を強く持って「なんとか卒業させてください」ってがんばって――がんばりきったら「こんなドジしちゃってさぁ」って笑い飛ばせていたら。
そうしたら、今ごろは。
「……今も、だもんな。今も、こうして……父さんと母さんにも、優花にも迷惑と心配をかけて」
ちゃぷ。
小さな女の子になってしまっている、僕の白い肢体が嫌でも目に入ってくる。
「……とうとう、息子でも兄でも、男でもなくなった。……いや、家族でも……か」
もし、世界が正常で。
もし、この肉体も正常で。
ただ僕っていう個人の肉体だけが――今認識している事実の通りに、原因不明の理由で変わっただけだとしたら。
「TSしただけ」だと、したら。
「……優花と顔を合わせちゃったら、最後か……」
大学中退引きこもりニートの部屋――世間一般的には犯罪者予備軍どころか実質犯罪者と断定される身分の男、その部屋の中で発見された少女。
――たとえその子がどんな擁護をしようとも、その部屋の主は犯罪者として糾弾される。
それは――その男の家族だったからこそ、そんな男を養うほどの優しい人たちだからこそ責任を感じるはずの、僕の家族――妹の優花もだ。
失望、贖罪、絶望――軽蔑。
この2年のあいだ、とうとうに1回も――家族のグループチャットで送ってくる3人の写真以外では見ることのなかった顔が、それに染まる。
「……分かってる。これもまた、後延ばしにしてるだけだ。発覚を遅らせたいってだけの、僕の弱さだ」
ちゃぷり。
片脚を水面から出してみる。
――どう見ても普段の靴では歩けない、小さすぎる足先。
「……分かってても、できないんだよ。元から、人付き合いは苦手で……友達だって、冬休みくらいになってようやく何人か仲良くなれるくらいだったんだ」
僕たち手遅れな存在は、夢を見る。
ある日突然に世界が滅びるとか、そうでなくても家が木っ端みじんになって追い出されるとか、それとも暴走したトラックの犠牲になって異世界に飛ばされるとか。
どんな理由でもいいんだ。
どんな理由でもいいから――僕たちの、つまらなすぎるプライドが通用しない事態に放り出され、仕方なく動き始めなきゃいけないっていう、理由が。
そうすれば――僕だって、何かはできる。
今からでも、たとえ遅すぎてもやり直せる。
そう、思いたいんだ。
「……女の子になっても、中身は変わらない。そんなもんかなぁ」
ぽつりと呟いた声は、むかつくくらいにかわいくって――落ち込んだ気持ちを、ちょっとだけ慰めてくれた。
――僕は、今、風呂場に来ている。
脱衣所。
服を脱ぐところ。
そうだ。
ここは、服を脱がなきゃいけない空間だ。
そう、僕自身に言い聞かせる。
罪悪感とか羞恥心とかのいろいろを、「これは必要なことだから」って大人の論理 で封じ込める。
大人は都合が良いんだ。
小賢しいから生き残れるんだ。
「鍵は……閉めた。スマホもOK。さすがの優花も、風呂とトイレまでは鍵NGとは言ってない……」
『ヒートショックは危険なんです』って前にぼそっと言ってたことがあるから、冬場は分からないけども……今は大丈夫なはずだ。
どきどき、ばくばく。
心臓が喉から出そう――そんな表現はマンガのものかと思っていたけども、実際になってみると本当にうっかり出てしまいそうだ。
ただでさえ吹けば飛ぶような心臓でも、肉体ほどには縮んでいないはずなのにね。
――脱衣所の洗面台、その上の鏡には上気してこわばった顔をした女の子が映っている。
ただし背が低すぎるために、首から上だけだけども。
「……今日くらい風呂は入らなくても……いやいや、1日でも風呂キャンとか僕的にはないし……体力さえあるんなら1日2回でも3回でも入りたいくらいだし……」
僕は、男のくせにお風呂が好きだ。
引きこもりニートを――部屋からなるべく出ない生活をしていても、お風呂だけは毎日掃除して入ってきた。
とにかく体が汚れているのがとてつもなく嫌なんだ。
一時期はトイレに行くたびにお風呂へ直行していたほどだ。
けども洗いすぎるのも良くないらしいから、しょうがなく我慢しているだけ。
例外は熱を出した――いや、そんなときでも湯船に浸かってきた。
それくらい好きなんだ。
そんな僕だからこそ、「たかが女の子になって恥ずかしい」くらいでお風呂に入らないとかいう選択肢は存在しない。
「……大丈夫、やらしい気持ちじゃない……それにほら、さっき漏らして腰から下が濡れちゃったし……」
僕は――服の下の女体を思い浮かべつつ、同時にかすかに上ってくる、甘いし香ばしいけどもそれでも排泄物には変わりのない臭いを吸い、諦める。
「漏らしさえしなければ。いや、どうせ髪の毛だって……こんなに長いんだし……」
そうだ、優花が――兄離れできなかった優花が、中学に入ってもしばらくは僕の風呂にすっぱだかで突撃してきてたからしょうがなく髪の毛と背中を洗ってやってた、あのころを思い浮かべるんだ。
「……ここに長く居すぎると、具合が悪くなって倒れてるかと勘違いして、優花がドアを壊してでも。時間的には寝てるはずだけど、優花、妙なところで勘が鋭いから……えいっ」
僕は、男だ。
男はこういうときにぐじぐじしない。
引きこもりニートはぐじぐじの極致だけど、それはしょうがないことだから脇にのけといて。
――たかが人間関係で何回かやらかして引きこもって勉強と労働を放棄しているのはともかく、今はちっぽけなプライドこそが原動力。
そうして僕は、勢いよくシャツを――がばっと剥ぎ取った。
「………………………………」
ふぅ――と、ひと息。
そして視線を戻す。
――鏡には、髪の毛がぼさぼさになったものの、変わらずに美少女な女の子の顔。
そして下には――胸が、
「………………………………………………………………」
足先からふとももまでは白くてすべすべで細くて、そのくせに腰は気持ち横に広がっていて。
股から下にはぶらぶらとしていた邪魔な物体も、部屋に増殖するのを嫌って定期的に剃っていた黒々としたもの――全身脱毛へ行くのは他人とコミュニケーションをする上全裸を見られるからNG――も存在せず、白くて丸い感じのかすかな膨らみ。
その上にもかすかに膨らんだ下腹とおへそ――そして、左右にわずかに、けれども確実に「男」のものではなく「女の子」の胸と、桜色の先端があって。
――男だった昨日まではまったく意識していなかったけども、たぶん色は焦げ茶色だったのが肌と同じく色素の薄いピンク色に変化していて、男だったときとは明らかに違って。
薄い薄いお椀状の脂肪がふよんと、確かに膨らんでいて――――
僕は無理やりに、意思で目を閉じる。
男としてのスケベ心は、意思でかなりコントロールできるんだ。
男だから生殖本能として脳みそまで女体を求めるのは仕方ないけど、優花相手と同じく興奮しちゃいけない対象には興奮しないように努めるんだ。
「……いやいや、視界に入るのは仕方ないけども、まじまじと見るのは犯罪……そう、これは子供だった優花のお世話、あるいは緊急事態で仕方なくするだけの、見知らぬ少女の介護……うん、落ち着こう……そもそも興奮すべきブツは天に召されているし……」
無くなった悲しいブツのことを想いながらぶつぶつと、沸騰しそうな頭を無理やりに誘導。
シャツを置いてタオルを手に取り――体を、決していやらしくならないように気をつけながら流して湯船へ。
……どうしても股周りをちゃんと流さないといけなかったのが、なんだか無性に恥ずかしいのを根性で抑えて。
「……ふぅ」
――ちゃぷり。
普段よりもすっごく高くなった浴槽を――恥じらいもなく脚をおっぴろげでまたぎ、そのままおしりまで沈もうとしたら口元まで来ちゃったお湯に慌て、腰を浮かせて腕でなんとか肩までで抑えてから……ため息。
「体……やっぱり、小さくなってるな」
首まで浸かるのが好きだからと、お風呂を入れるときに湯量を増やしていたら「節約してください」と優花に怒られて、泣く泣く戻した記憶。
……あれはたぶん、単純に――男の中で平均くらいの僕の座高で首まで浸かるお湯の高さにすると、きっと優花の背丈じゃ高すぎたんだろうな。
今の僕で溺れそうだったんだ、優花だって困ってたんだろう。
毎回お風呂のたびにお湯を少し抜く手間もあったんだろう。
ああ、他人への配慮が足りない。
自分のことしか考えていなかった。
普通の男として生まれて普通の男として生きてきて――その「普通の男」ってのがどれだけ恵まれてるかなんて考えたこともなかったから、今になってようやく知ったんだ。
「普通の男」すら、失ってから。
……そんなことも分からなかった僕と、そんな僕へ恥をかかせないようにって別の言い訳で改善させた優花とは、もう女神となめくじくらいの差ができあがっている。
「優花の方が、よっぽどしっかりしてるよな。当然か、大学だって模試の結果も、僕の入ってたところも余裕な成績だって言うし……そもそもの出来が違うからしょうがないけどさ」
ドア越しの、ささいな会話。
――ささいだけど、その日その日の報告を聞いていたら妹がどんな生活をしているのかってのが分かるんだ。
そうだよな、会話は大切なんだ。
家族だから、なおのこと――なのに、僕は。
お湯の中でクラゲみたいに広がってゆらゆらと揺れる薄紫色の毛先を眺めながら――その下の、水面以下の光の屈折で見えにくくなって安心する股と脚を眺めながら、僕は思う。
――当時の僕は若かったから、大学でゼミに入らないなんて選択肢は取れなかった。
後から思えば、うちの大学のうちの学科には……ゼミに入らないと卒業できないって決まりはなかったんだ。
ただただゼミ――大学生なら誰でも入るものだって思い込んでいたゼミナールに入り、教授に気に入られ、卒業論文を書かなきゃいけないんだって思い込んでいただけ。
だから、いざ入ろうと思っていろいろ探しても――良いなって思ったところほど人気で、面接にはたくさん人が居すぎてどこもお断りで。
そんな中、面接でがくがくしてた僕でもなんとか滑り込めたゼミでやらかして。
ゼミへ、そして大学自体へ――気まずいからと行かなくなった日々。
数ヶ月の引きこもり。
単位が足りなくて留年。
そして退学。
ニート。
引きこもり。
「……絶対に無理ってわけじゃ、なかったんだ。僕の失敗も、気にしないで良いって教授も先輩たちも……同級生も、言ってくれてた。成績は充分だし、がんばってくれればそれで良いんだってさ。数合わせだったとしても、こんな僕でも居て良いって言ってくれて。専攻分野も全然違うから、ゼミでの勉強に着いてけなくっても別に良いからって……そもそも僕なんかを、たとえ人数合わせでも入れてくれた聖人のごとき人たちだったもんな」
それは、デビューに失敗した高校も同じ。
無理をして無理な学校へ入って、無理な性格設定で無理なコミュニケーションを取ろうとしてできあがったのが、対応に困る人間。
「ただのコミュ障」。
「害はないけど変なやつ」。
恐らくはその程度の認識だったはずだ。
同級生たちは、一応普通に接してくれてはいた。
それを気まずく思い、学校へ行く途中に吐くまでになったのは、ただ僕の自意識過剰。
他人は、そもそも僕が存在したことすら忘れている。
分かってはいた。
分かっては、いたんだ。
「……でも」
そうだ。
自意識が強すぎて、引っ込みがつかない。
僕自身がかわいすぎて、周囲の人のことを誰1人認識していなかった。
ただ、それだけ。
ただそれだけの理由で、僕は高校3年間と大学の後半2年を――ついでで前半の2年も無駄に投げ捨て、ほんの少し気を強く持って「なんとか卒業させてください」ってがんばって――がんばりきったら「こんなドジしちゃってさぁ」って笑い飛ばせていたら。
そうしたら、今ごろは。
「……今も、だもんな。今も、こうして……父さんと母さんにも、優花にも迷惑と心配をかけて」
ちゃぷ。
小さな女の子になってしまっている、僕の白い肢体が嫌でも目に入ってくる。
「……とうとう、息子でも兄でも、男でもなくなった。……いや、家族でも……か」
もし、世界が正常で。
もし、この肉体も正常で。
ただ僕っていう個人の肉体だけが――今認識している事実の通りに、原因不明の理由で変わっただけだとしたら。
「TSしただけ」だと、したら。
「……優花と顔を合わせちゃったら、最後か……」
大学中退引きこもりニートの部屋――世間一般的には犯罪者予備軍どころか実質犯罪者と断定される身分の男、その部屋の中で発見された少女。
――たとえその子がどんな擁護をしようとも、その部屋の主は犯罪者として糾弾される。
それは――その男の家族だったからこそ、そんな男を養うほどの優しい人たちだからこそ責任を感じるはずの、僕の家族――妹の優花もだ。
失望、贖罪、絶望――軽蔑。
この2年のあいだ、とうとうに1回も――家族のグループチャットで送ってくる3人の写真以外では見ることのなかった顔が、それに染まる。
「……分かってる。これもまた、後延ばしにしてるだけだ。発覚を遅らせたいってだけの、僕の弱さだ」
ちゃぷり。
片脚を水面から出してみる。
――どう見ても普段の靴では歩けない、小さすぎる足先。
「……分かってても、できないんだよ。元から、人付き合いは苦手で……友達だって、冬休みくらいになってようやく何人か仲良くなれるくらいだったんだ」
僕たち手遅れな存在は、夢を見る。
ある日突然に世界が滅びるとか、そうでなくても家が木っ端みじんになって追い出されるとか、それとも暴走したトラックの犠牲になって異世界に飛ばされるとか。
どんな理由でもいいんだ。
どんな理由でもいいから――僕たちの、つまらなすぎるプライドが通用しない事態に放り出され、仕方なく動き始めなきゃいけないっていう、理由が。
そうすれば――僕だって、何かはできる。
今からでも、たとえ遅すぎてもやり直せる。
そう、思いたいんだ。
「……女の子になっても、中身は変わらない。そんなもんかなぁ」
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