上 下
10 / 10
第一章 膨らむ疑問と気付かぬ現実

変化

しおりを挟む
《よ ウ コ そ 、 “A Fathead Indelibly Do” へ》

「あ……ふ、あ……ざ、え…………ど?」
 口元を引きつらせて画面を見つめるカケル。たどたどしく発せられるものはお世辞にも言語とは言えなかった。どうやら英語は苦手のようである。
 首を傾げるカケル。習うようにしてナオキや双子も疑問符を飛ばす。
「A Fathead Indelibly Do」
 滑り込んだのは流暢な音。静かに空気を震わせた美しい発音は、何の抵抗もなく耳に入ってくる。
 鼓膜を震わせるマモルの声に心地よささえ感じ、ミユは二度目を期待して耳を傾けた。そうして気付く。いつの間に移動したのか、画面を眺める四人の後ろにマモルが立っていた。
 その距離に驚いた一人が物音を立てるも、マモルの視線は画面から動かない。
「ふ、ふぁせ?」
 めげずに挑戦したカケルへ苦笑いを向け、ミユは思案する。
 得意とはいえない分野に、彼女も脳を必死に働かせる。単語単語の意味は、確か。
「直訳すると“馬鹿者、消えないように行う”って意味になる……のかな」
 Indeliblyには永久という意味もあったはずだと心中で文を入れ替えてみる。
 ――“馬鹿者、永久に行う”。
 否、どちらにせよ意味が分からない。
 造語か。それとも何か別の意味があるのか。
 救いを求めるようにして、ミユの目は首を傾げるカケル。……ではなく、その後ろにいるマモルへ。
 いつものマモルなら何の反応も返さないだろう。向けられたのが視線でも声でも、そんなものは関係ない。腕を組んで視界を閉ざす、それが彼の立ち方だとミユは認識していた。何かを投げつけた本人にも関わらず、もしかしたら何か返ってくるのではと期待してしまうことさえ間違っている。そんな印象を、抱いていた。しかし、予想に反して彼の双眸はちゃんと開いている。
 二つのアイスブルーに映っているのが自身の姿だと気付くと、ミユの目は更に驚きで見開かれた。
 マモルの首が動く。――縦の動きだ。
 僅かな動きに見間違いかと一瞬勘繰ってしまうが、確かに彼の頭は動いた。
 訳は間違ってはいないということだろうか。
 特に指摘がないので、ミユは自身の良いように捕えることにした。
「……で、けっきょくどういういみ?」
 これ、と画面を指し示すナオキの人差し指。彼が最も知りたがっている答えは誰にも応えられない。
 点滅を繰り返していたカーソルはいつの間にか姿を消していた。これ以上文字が打ち出されるような雰囲気ではないが、それが事実ならあまりにも手がかりが少なすぎる。
「“ようこそ”ってかいてあるヨー?」
 双子が声を上げた。
 確かに彼女たちが指摘する通り、画面には歓迎の言葉が並んでいる。一同が揃って思考を走らせた。
「……普通に考えても歓迎の言葉の後に続く“A Fathead Indelibly Do”はこの場所ここの名前と捉えていいはずだ」
 誰よりも先に声を発したのは腕を組んだマモルだった。動じた様子は見せず、冷静さを持った推測。
 忙しなく指の折り曲げを繰り返していたカケルの顔がぱっと上がる。
「マモルが……! マモルが三十字以上喋った……っ!」
「そっちかよ……!」
 静かに震えたのは、ずれた感動。
 傍にいたナオキとミユの耳にだけ届いたそれに、二人の身体がずり落ちる。「カケル兄……」と若干恨めしそうな声を振り絞り、立ち直るナオキ。その目に、画面を見つめ続ける双子の姿が映った。
 ミクの表情が若干強張っていることに誰よりも早く気付いたのは、その片割れだった。
「ミクちゃん、どうしたの?」
 心配の色を含んだ瞳が、同じ緑を覗き込む。
 ミクは恐る恐るといったように息を吐くと、姉の名前を口にした。
「ここって、そんななまえだったんだ、っておもって……」
 心なしか不安げな色を浮かべ、揺れる瞳。
 力ない微笑みに眉をしかめ、ノゾミが伸ばした手がミクの手に触れる。重なった手は、どちらからも力が込められた。
「結局ふぁせ……ふぁせ、なんちゃら? はこの建物の名前ってこと? ただの使われなくなったビルだと思ってたけど、そんな長い名前があったのかぁ」
「いや、そんなビルの名前は聞いたことがない。……それに何か違和感がする」
 のんびりとしたカケルの声に、否定が入れられる。マモルは自身の顎に指をかけると考える姿勢を見せた。その口から出た“違和感”の正体を薄らと感じ取っている人物がもう一人いた。
 違和感の正体を突き止めてしまえば、何かが壊れてしまう気がした。だからミユには何度も胸をよぎったそれを、口にすることができなかった。失うことを恐れて、無理に忘れようと、気付いていないフリを演じていたのかもしれない。
「……皆は、」
 ――けれど、言わなくてはならない。
 きっとそれは今だと、ミユは顔を上げる。その双眸は決意に満ちていた。
「皆は、ここに来るまでの記憶ってある?」
 問いを投げかけ、並んだ顔を見渡す。
 彼女を見返す全員が、面食らったような表情を浮かべていた。何を言っているんだ、という声が今にも聞こえてきそうだ。
 逆の立場だったら、きっとミユも同じ顔をしていただろう。しかし、これはあくまで確認。取り越し苦労で済むなら、それでよかった。
「昨日、私は皆と別れた後、急に意識を失って、目が覚めたらここにいた」
 変な子だと思われるよりも恐ろしい考えが当たってしまうことの方が、きっと怖い。
「ここに来るまでの意識が、ないの」
 ミユは生唾を飲み、口を開く。口腔は緊張で乾ききっていた。
「……ねぇ。ここ、何かおかしくないかな?」
 自分だけであってほしい。そう願う一方で、心の奥ではこの現象を体験したのは自分だけではないはずだとないと謎の確信があった。見開かれる目の数々。ミユを映すそれら全てが戸惑いで揺れ動いていたからだ。
「皆は、ちゃんと自分の意志でここに来てるの?」
 祈るように、見つめる。
 最初に発されたのは、カケルの声だった。
「そう言われてみれば俺、皆と別れてからここに来るまでの記憶……ない、かも」
 子供たちが互いの顔を見合わせた。カケルの声に後押しされるように、小さな手のひらが恐る恐ると姿を現す。
「ノゾミも」
「ミクもー」
「オレも……」
 次々と上げられる賛同の意。
 ――自分たちは、おかしいのだろうか。
 謎の現象と実体を前に、赤髪と帽子の少年二人が頭を抱えた。そして、僅かな希望を乗せてマモルを見やる。しかし、返されたのは否定の意を表す左右の首振りだった。
「え、俺たち全員……」
 記憶がないってこと?
 引きつったカケルの発言に子供たちは言葉を失い、重圧をもった空気が流れる。
 それを取り払うかのように誰かが口を開いた。
「じゃあ、」
 提案を提示する、希望に近い声。
 八つの目が、自信なさげに小さく控えめに挙手してみせた彼女へと集中する。
「こういうのはどうかな」


  × × ×


「みてみて、ミユおねーちゃん!」
 弾んだ声を上げたのはミクだった。駆け寄ってくる姿を視界に入れ、ミユの表情が明るくなる。
 その細い腕には毛布が抱きかかえられていた。
「こんなのみつけたよ!」
「わぁ、毛布だ! ありがとう、ミクちゃん!」
「えへへ、ほめてほめてー!」
「ミクちゃん偉いよ、凄いよ!」
 もしミクに尻尾が生えていたなら、千切れんばかりに振られていただろう。毛布を差出し、次いで褒めてと頭が差し出される。
 頭を撫でてやれば、頬を染めてはにかむ。その姿はとてつもない愛らしさを秘めていた。
 毛布の大半は引きずられて埃まみれになっていたが、ミクは頬ずりしそうな勢いで毛布ごとミクを抱きしめてやる。
 一人っ子だった彼女は、姉妹に強い憧れがあった。だからこそ、余計に目の前の少女が可愛く映る。必要以上に甘やかしてやりたい気持ちに気付き、もしも妹がいたらこんな感じだったのだろうかと口元を緩ませた。その腕の中でミクもまた、少し痛いぐらいの愛情を受けながら破綻していた。
 いつも傍にいてくれる姉とはまた違う、大きくて柔らかな温かさ。布越しに触れる体温に安心感を覚え、すり寄る。
「ミクちゃん、凄いね!」
 賛辞の言葉を唱えて、何かが引っかかった。
 突然、撫でる手つきが静止したことをミクは不思議そうにミユの顔を見上げる。
 ――こんな廃墟のどこに毛布が?
 魚の小骨が喉を傷つけたような、原因はないのに気になって仕方がないような違和感。前にも似たようなものを感じたことがある気がする、とミユは記憶を辿った。いつだったか、ゲームをしている子供たちに問うたことがある。
 何故、こんな場所に電気が通っているのか。
 なんとなく食べたいと浮かんだ駄菓子や飲み物が手に入るのか。
 彼らに聞いても仕方がないだろうと思ったが、意外にも胸を張ったのはナオキだった。小さな少年は口を開き「ここは、おねがいかなえてくれるすっげぇ場所なんだぜ」と告げた。耳にした時はいまいち実感が沸かなかったが、あの時ナオキが言ったのはこういうことだったのだろうか。毛布が欲しいと願ったから、毛布が出てきたのか。
 思考を走らせたまま、何気なく毛布に触れ、その手触りの良さに驚く。
 目を見開いて、驚きの感情に乗せて言葉を紡いだ。
「凄く綺麗だよね、これ」
 ――建物は、こんなにボロボロなのに。
 言い切るのが早いか、不信感が滲むが早いか。それとも驚愕の声が飛んだのが早かったか。
「わっ、」
「え!?」
 つられるようにして、ミユも驚く。
 ミクの腕の中では毛布がボロボロになっていた。
 地肌が丸見えで、辛うじて残った毛は完全に倒れていた。触れればちくちくと攻撃をしてくる。胸肉のような分厚さを持っていたはずの毛布は、しゃぶしゃぶ用の肉のように薄くなっていた。埃とカビが我が物顔で住みつき、布は切り裂けられたように大破している。これではとれる暖もないだろう。
 たまたま通りがかったナオキが、顔をしかめて飛び込んでくる。
「口にしたらかなっちまうって言っただろ!」
 ――聞いていない。
 違えた認識にミユは動揺するが、彼女の思考が追いつくのを待つことなく、帽子のつばの下で「せきにんとってお前が元にもどせよ!?」と眉が吊り上った。それを見て、固まっていた思考が少しずつ動き始める。
『願えば叶う』という認識だったが、それも間違いだったようだ。強く願ったこと、それも良いことだけが実現するわけではないらしい。
 認識を改めなければ、と視線の先にはミクの落ちた肩。これでは迂闊に物事を口にできないと冷や汗をかくミユの脳裏では、ナオキの言葉が繰り返し再生された。
 必死に考えを張り巡らせるミユだが、法則が未だに理解できていない。下手なことは言えなかった。これ以上失敗するわけにはいかない。
「えーっと、」
 怒った眉と、落ち込んだ肩。並んだ二つは『もう後はない』と警告しているようだ。焦りのせいか、いくら必死に考えても簡単に言葉は出てきてくれなかった。
「さっきまで綺麗だったっていっても、流石にこれで寝るのはちょっと……。皆が嫌がる、と思う。し……こ、こまったなー」
 語尾へ向かうにつれ、声が尻つぼんでしまうが仕方がない。これが、精一杯だ。後は、祈るしかできない。
 固く閉ざした視界を、薄く開く。ミクの腕は、少し汚れただけの毛布を抱いていた。
 裂けた跡も、カビも見当たらない。色味は灰がかっていて、撫でると少し埃っぽいが数秒前よりは遥かにマシだ。
 肩の力を抜いたミユの隣で「はじめの、もっときれいだった時のほうがよかった」とナオキが口を尖らせた。しかし、ミユはこれ以上挑戦する度胸を持ち合わせていない。更に酷くなる可能性が消えないまま、説得に説得を重ねてなんとかこれで妥協してもらう。
 素直に「新品同然の綺麗な物がいい」と口にすればよかったのだろうか。そんなことを考えながら、ミユは再び謝罪の言葉を零す。
「っていうか、きたなさはそれでいいとして全ぜん数足りないんじゃねぇの?」
「むこうにもまだまだいっぱいあったからそれでたりるとおもう!」
 ナオキが首を捻ると、ミクの指は正反対の方向を指差す。
 いつからいたのだろうか。「よしきた!」と声を上げ、カケルが袖をあげた。同じく意気込んだナオキが、真似するように腕をまくる。
「カケル兄ちゃん、どっちが多く持ってこれるか勝負な!」
「よし、負けないぞ!」
 そう言うなり、弾丸の如く飛び出す二人。「私も手伝うよ」とミユが声をかける間もなく、少年たちの背はみるみる内に遠ざかっていく。
「ちからしごとはおとこのこにまかせることにしましょ」
 小学生の発言らしくないノゾミの言葉に、ミユは宙に浮かばせたままの手をゆっくり降ろした。
 その心中は穏やかではない。
 突っ込みたいことをぐっと飲み込み、もしかしたら自分が知らないだけで最近の小学生というのは皆こういうものなのだろうか、とミユは苦笑を浮かべるだけに留まった。



 反対されるかと思いきや、心配していたようなことは何も起こらなかった。寧ろ、提示された案を聞き入れ、自主的に準備に取り組んでいる。
 はしゃぎ、駆け回るのはまだ幼さを残す顔たち。何が起こるかも分からないというのに、その横顔は期待に胸を弾ませているようにも見えた。
 しかし提案したミユにしてみれば、緊張と不安しかない。今まで試したことがないものに手を出すということは、今まではなかった危険が降りかかるかもしれないということ。何が起こるかは誰にも分からない。それが成功するのか、失敗するのか。そもそも何を基準として成功失敗と分ければいいのだろう。それすら、彼女には分からない。
 もしかしたら誰かが傷つくかもしれない、自分が――傷つくかも、しれない。
 自分が傷つく恐怖、それから誰かが傷ついた時、その責任を自分が負えるのだろうかという不安。
明るい笑顔を見ても、どれだけ冗談を交わしたとしても軽蔑される可能性は0にはなってくれない。緊張が大きな波となって、ミユを呑み込もうと大口を開けていた。
 やめようか? やめたい。――やめられない。
 重たくなる心と身体に鞭打ち、ミユは、ぐっと顔を上げた。ここで立ち止まってもいられないのだ、と。
「一歩踏み出さないと――始まらないことだってある」
 そう。例え恐怖が胸の内を巣食っていたとしても。
「ミユおねえさーん!」
「よういできたよー!」
 双子が手を振り、呼んでいる。その傍らに積み上げられたのは薄汚れた毛布たち。
 それを視界に入れるとミユは臆病な心に喝を入れ、一歩踏み出した。
「今行きます!」
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...