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第3章 守護霊界の掟
第1話 リア充爆発
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【真之助視点】
今、私の隣には梅見原高校のセーラー服を着た三十代の女性がいる。
きっちりと結い上げた島田髷に、螺鈿細工を施した櫛と簪で艶やかに飾った彼女は、にこにこと穏やかに微笑み、私に腕を絡ませては無防備に体を押しつけてくる。
仮に私が生者、つまり生きている人間で、生身の肉体を持っていたとすれば、心臓が派手に爆発でもして、理性の境界線が吹き飛んでしまうのだろうけれど、生憎、私は当の昔に死んでいるため、煩悩もとっくに手放している。
彼女の甘い匂いや柔らかな二の腕は、まるで無味無臭の空気のような存在で、トキメキなんてものは起こりやしない。
しかし、まあ、三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。
朝の学校の図書館には特有の空気が満ちている。
例えるならば、薄氷を割らないよう注意深く歩く緊張感と、樹齢千年を越えるご神木を前にした神聖で荘厳な雰囲気だ。
この空気にあたると無意識に背筋を伸ばしてしまうのは、生前の癖が未だに抜けないからだろう。
どことなく道場を彷彿させる図書館の空気感に、私はこっそり苦笑すると、
「ニヤニヤしてんじゃねえよ」
真向かいに座る真が押し殺した声で言った。
女性に興味を持つ思春期の少年ならではの嫉妬と羞恥、苛立ちを含んだドングリ眼が、私と私に身を寄せる彼女の胸元を躊躇いがちに右往左往する。
口に出さなくても「羨ましい」との声が聞こえてくるようだ。
しかし、私は好きでこの場所に座っているわけではない。昨夜の真の行動がそもそもの原因な訳だから、責任を取って今すぐ交代して欲しいほどなのに、真は私の気持ちを露ほども知らず一方的に物事を解釈して非難してくる。
まだまだ了見の狭いお子様めっ。
度量の広い年長者である私は真の若さ故の未熟さを、許してあげなければならない。
私は真の妬みと羨望の眼差しを受け流して、今朝の出来事を話題にすることにした。
「ねえ、無料の占いサイトは知ってる?」
「スマホのお話でございますか?」
彼女は小さく首を傾けて、興味深そうに目を輝かせた。
私は頷く。
「真が眠っている間、暇で暇で仕方がなかったから、ちょっとだけスマホを拝借して、無料の占いサイトに登録してみたんだ。ただ登録しただけなんだよ。それなのに真は『お前のせいで、今朝から大量の迷惑メールがたくさん来るようになった。どうしてくれるんだ』って文句を言うんだ。ゲームの課金をしたわけでも、睡眠の邪魔をしたわけでもないのに。一体、誰のお陰で今朝も遅刻しなかったと思っているんだろう。その恩を仇で返すだなんて、真は短気だと思わない? ねえ、寿々ちゃん?」
「真之助様ったら、本当にお茶目なイタズラでございますね。いつまでも少年のようでス・テ・キ」
この女性、寿々子さんは口元を押さえ、ホホホと笑った。笑うと緩やかな山を描く眉がますます角度を失い、平地のようになる。
「何度も言わせんなよ。あんたが登録した占いサイトが出会い系と繋がっている悪質なやつだったんだよ」
声のボリュームを最小まで絞って話す真をよそに、私は通常通りの音量で返す。
「でも、スマホを使ってもいいって言ったのは真だよ」
「オレは占いサイトに登録してもいいと言ったのか? あんたが可愛い犬猫の動画を見たいって言ったからスマホを貸してやったんだよ」
「まあまあ、お二人とも落ち着いてくださいませ」
寿々子さんがゆっくりとした口調で仲裁に入る。
すっきりとした奥二重の、わずかに下がった目尻はのんびりとした彼女の人柄と育ちのよさを表しているようだ。
「真さんも真之助様のお気持ちを汲んでさし上げればよろしいのに。生者は眠っておりますからご存じないのでしょうけれど、わたくしたちにとって、夜の空き時間は想像以上に退屈で苦痛が伴うものですのよ。ね、真之助様?」
寿々子さんが私の肩に頭を寄せると、真の顔が引きつった。
ここが図書館ではなかったら、間違いなく「リア充、爆発しろ」と呪いの呪文を唱えていたのだろうけれど、私も寿々子さんもリアルな生活が充実していたのは、生前、つまり大昔のことだから、嫉妬されるのはお門違いなのだ。私たちがイチャイチャしているのだって、真をからかうためにやっているだけだ。
「あーあ、やってられっかよ!」
呪いの呪文を唱える代わりに乱暴な言葉を放つと、真はすぐに両手で口を塞いだ。周囲の視線を独り占めしていることに気がついたからだ。
机に顔を伏せ、悔しさで体を震わせる真に心底同情したが、私の口は心にもないことを喋り出した。
「元はと言えば、真がこの状況を招いたんじゃないか。自業自得だよ。私はちっとも悪くないもーん」
「真さん、殿方が公衆の面前でお泣きになるのはおやめくださいませ」
私や寿々子さんがどんな大声を出そうとも、幽霊の声は防音室に封じ込めた演奏のように生者に聞こえることはない。
その証拠に私たちがどんなに騒がしかろうと、周りの生徒たちは読書に励んでいるし、隣の自習室では友人A君が勉強しているのが見える。
生徒たちの守護霊たちは時折、好奇の視線を向けてくるけれど、彼らが私たちに話しかけてくることなど、まず百パーセントないだろうし、真には姿が見えてはいない。
つまり、私たちは図書館だろうが、映画館だろうが、試験の真っ最中だろうが、お構いなしなのだ。
真は何か言い返そうして、わずかに顔を上げたけれど、やがて悔しげに舌打ちを洩らし、小さな子供のように「べえっ」と舌を出した。
「まあ、ふて腐れてしまわれましたわ。真之助様も早くお謝りくださいませ」
こんなときまで真のご機嫌取りをしなければならないなんて、守護霊は気苦労が絶えない仕事だと実感しながら、昨夜のことを思い出す。
今、私の隣には梅見原高校のセーラー服を着た三十代の女性がいる。
きっちりと結い上げた島田髷に、螺鈿細工を施した櫛と簪で艶やかに飾った彼女は、にこにこと穏やかに微笑み、私に腕を絡ませては無防備に体を押しつけてくる。
仮に私が生者、つまり生きている人間で、生身の肉体を持っていたとすれば、心臓が派手に爆発でもして、理性の境界線が吹き飛んでしまうのだろうけれど、生憎、私は当の昔に死んでいるため、煩悩もとっくに手放している。
彼女の甘い匂いや柔らかな二の腕は、まるで無味無臭の空気のような存在で、トキメキなんてものは起こりやしない。
しかし、まあ、三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。
朝の学校の図書館には特有の空気が満ちている。
例えるならば、薄氷を割らないよう注意深く歩く緊張感と、樹齢千年を越えるご神木を前にした神聖で荘厳な雰囲気だ。
この空気にあたると無意識に背筋を伸ばしてしまうのは、生前の癖が未だに抜けないからだろう。
どことなく道場を彷彿させる図書館の空気感に、私はこっそり苦笑すると、
「ニヤニヤしてんじゃねえよ」
真向かいに座る真が押し殺した声で言った。
女性に興味を持つ思春期の少年ならではの嫉妬と羞恥、苛立ちを含んだドングリ眼が、私と私に身を寄せる彼女の胸元を躊躇いがちに右往左往する。
口に出さなくても「羨ましい」との声が聞こえてくるようだ。
しかし、私は好きでこの場所に座っているわけではない。昨夜の真の行動がそもそもの原因な訳だから、責任を取って今すぐ交代して欲しいほどなのに、真は私の気持ちを露ほども知らず一方的に物事を解釈して非難してくる。
まだまだ了見の狭いお子様めっ。
度量の広い年長者である私は真の若さ故の未熟さを、許してあげなければならない。
私は真の妬みと羨望の眼差しを受け流して、今朝の出来事を話題にすることにした。
「ねえ、無料の占いサイトは知ってる?」
「スマホのお話でございますか?」
彼女は小さく首を傾けて、興味深そうに目を輝かせた。
私は頷く。
「真が眠っている間、暇で暇で仕方がなかったから、ちょっとだけスマホを拝借して、無料の占いサイトに登録してみたんだ。ただ登録しただけなんだよ。それなのに真は『お前のせいで、今朝から大量の迷惑メールがたくさん来るようになった。どうしてくれるんだ』って文句を言うんだ。ゲームの課金をしたわけでも、睡眠の邪魔をしたわけでもないのに。一体、誰のお陰で今朝も遅刻しなかったと思っているんだろう。その恩を仇で返すだなんて、真は短気だと思わない? ねえ、寿々ちゃん?」
「真之助様ったら、本当にお茶目なイタズラでございますね。いつまでも少年のようでス・テ・キ」
この女性、寿々子さんは口元を押さえ、ホホホと笑った。笑うと緩やかな山を描く眉がますます角度を失い、平地のようになる。
「何度も言わせんなよ。あんたが登録した占いサイトが出会い系と繋がっている悪質なやつだったんだよ」
声のボリュームを最小まで絞って話す真をよそに、私は通常通りの音量で返す。
「でも、スマホを使ってもいいって言ったのは真だよ」
「オレは占いサイトに登録してもいいと言ったのか? あんたが可愛い犬猫の動画を見たいって言ったからスマホを貸してやったんだよ」
「まあまあ、お二人とも落ち着いてくださいませ」
寿々子さんがゆっくりとした口調で仲裁に入る。
すっきりとした奥二重の、わずかに下がった目尻はのんびりとした彼女の人柄と育ちのよさを表しているようだ。
「真さんも真之助様のお気持ちを汲んでさし上げればよろしいのに。生者は眠っておりますからご存じないのでしょうけれど、わたくしたちにとって、夜の空き時間は想像以上に退屈で苦痛が伴うものですのよ。ね、真之助様?」
寿々子さんが私の肩に頭を寄せると、真の顔が引きつった。
ここが図書館ではなかったら、間違いなく「リア充、爆発しろ」と呪いの呪文を唱えていたのだろうけれど、私も寿々子さんもリアルな生活が充実していたのは、生前、つまり大昔のことだから、嫉妬されるのはお門違いなのだ。私たちがイチャイチャしているのだって、真をからかうためにやっているだけだ。
「あーあ、やってられっかよ!」
呪いの呪文を唱える代わりに乱暴な言葉を放つと、真はすぐに両手で口を塞いだ。周囲の視線を独り占めしていることに気がついたからだ。
机に顔を伏せ、悔しさで体を震わせる真に心底同情したが、私の口は心にもないことを喋り出した。
「元はと言えば、真がこの状況を招いたんじゃないか。自業自得だよ。私はちっとも悪くないもーん」
「真さん、殿方が公衆の面前でお泣きになるのはおやめくださいませ」
私や寿々子さんがどんな大声を出そうとも、幽霊の声は防音室に封じ込めた演奏のように生者に聞こえることはない。
その証拠に私たちがどんなに騒がしかろうと、周りの生徒たちは読書に励んでいるし、隣の自習室では友人A君が勉強しているのが見える。
生徒たちの守護霊たちは時折、好奇の視線を向けてくるけれど、彼らが私たちに話しかけてくることなど、まず百パーセントないだろうし、真には姿が見えてはいない。
つまり、私たちは図書館だろうが、映画館だろうが、試験の真っ最中だろうが、お構いなしなのだ。
真は何か言い返そうして、わずかに顔を上げたけれど、やがて悔しげに舌打ちを洩らし、小さな子供のように「べえっ」と舌を出した。
「まあ、ふて腐れてしまわれましたわ。真之助様も早くお謝りくださいませ」
こんなときまで真のご機嫌取りをしなければならないなんて、守護霊は気苦労が絶えない仕事だと実感しながら、昨夜のことを思い出す。
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