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第3章 守護霊界の掟

第8話 その刃が向かう先

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【真之助視点】
 
 教室に戻る途中の真はぼんやりしていた。

「でさ、オレが思うにクラス全員でLINEグループを作ろうと聖子ちゃんが言ったのは恋の駆け引きなんだよ。ってなるとオレは今試されている状態なわけ。そう思うだろ?」

 ポジティブ選手権が開催されたら優勝候補間違いなしの友人A君の発言をよそに、真は「ナイフの芦屋」がよほどショックだったのか、心ここにあらずの状態で、「そうだな」といい加減な相槌を打つばかりだった。
 
 三年一組の教室の前で女子生徒の悲鳴が聞こえた。

 走る二人のあとに続いて教室に入ると、顔面蒼白の女子生徒がカバンの中身を机に広げ、「財布がない!」と叫んだところだった。

 その声が引き金となり、みんな各自の荷物を確認する。次々と声が上がった。
 
「オレもない!」
 
「私のもないわ!」

 長いことガサガサとバッグの中を探っていた真が私を見上げて、「オレのもない」と昭和時代の漫画のように頭上から葦簀よしずを垂らした真っ青な顔で唇を震わせた。

「だから、友人A君を見習って聖子先生に財布を預けようと言ったじゃないか。私のアドバイスを無下むげにするからだよ」

 被害にあった生徒は真を含め四人。その中には成瀬さんもいた。寿々子さんは成瀬さんの傍らで悔しげに爪を噛んでいる。

 私は泣き言を洩らす真をからかい半分とがめつつ、果たしてこれはどういうことだろうかと腕を組んだ。

 これまで犯人は慎重さを見受けられるほど、ある程度時間をおいてひとりずつ狙いを定めていたのに、今日は四件もの大仕事を成し遂げてしまった。

 普通の営業マンが四件の契約を取ってくれば、大手柄だと褒められるところだが、盗ったのは財布だ。

 犯人にどんな心境の変化があったのか、ずいぶんと大胆不敵になったものだと感心してしまう。

「聖子先生に知らせなきゃ」
 
 教室を飛び出そうとした女子生徒の前に立ち塞がった人がいた。学級委員長の宮下君と風紀委員の坂本君だ。

「聖子先生にこれ以上の心配をかけるのはやめにしないか」

「どういうこと?」

 訝しげに訊ねる彼女から視線を外し、宮下君は声を張り上げた。

「みんな聞いてくれ! オレたちは子供じゃない。聖子先生のためにも、オレたちの問題は自分たちで問題を解決するべきだ。それにはみんなの協力が必要になる。今から全員で持ち物検査をしよう!」

 丸い形には「丸く収める」という意味がある。その平和の象徴である丸い眼鏡をかけた宮下君だが、角のある物言いと穏やかさを欠く提案でクラスメイトを驚かせた。動揺が駆け抜ける。

「持ち物検査はやり過ぎじゃないのか」

 そう上がった疑問の声を制したのは坂本君だ。

「オレたちはただ三年一組に犯人がいないことを証明したいだけなんだよ。持ち物検査をして盗まれた財布が出てこなければ、オレたち全員の疑いが晴れる。そうすれば――」

「そうすれば、聖子先生を安心させることができる!」

 坂本君の言葉を引き継ぎ、宮下君が自信と確信に満ち溢れた言葉でクラスの空気を一変させると、みんなは次々と二人に賛同し、「犯人がいない証明」をするため持ち物検査が開始された。

 ひとりずつ机の中から、カバン、個人用のロッカーまで、荷物を机の上に広げ、宮下君と坂本君が確認をする。盗難の被害にあった生徒の参加も決まったのは公平さを保つためだ。

 この強硬策ともとれる持ち物検査がすんなり受け入れられたのは、クラスメイトを疑うことにみんなが疲れていたからだと思う。

 疑うことに後ろめたさを感じ、真もそうだったように疑心暗鬼になる自分自身に嫌気が差していた。罪の意識に気づき始めたのだ。

 すでに問題が解決したかのようなみんなの晴れやかな表情がそれを物語っている。

「崎山、問題なし。次は芦屋君だ」

 真の持ち物検査が滞りなく終わると、確認役の宮下君と坂本君が友人A君の横に立った。

 友人A君はハンカチやポケットティッシュ、のど飴などのカバンの中身を几帳面に並べる。

 取り分け、「これで落ちる! 年上女性の口説き方テクニック編」と銘打った洗剤のキャッチコピーのような謎のハウツー本が目を引いたけれど、今は気にしている場合ではない。

 友人A君の手が止まったのだ。
 
「どうした?」
 
 最初に異変に気がついたのは真だった。

「いや」
 
 何でもない、とでも言うように一度は否定した友人A君だけど、貝の中に閉じこもるような重く不自然な沈黙を身にまとった。
 
 宮下君と坂本君が顔を見合わせる。先に手を伸ばしたのは宮下君だ。

「芦屋君、中を見せてくれ」

 友人A君から強引に奪い取ったカバンを確認すると宮下君はフリーズしたパソコンのように一瞬硬直した。それから、カバンを逆さまにして乱暴に振った。中身がバラバラと落とされる。
 
「わお!」
 
 私は思わず興奮して、手を叩いた。

 宮下君はマジシャンかもしれない。歓声を上げたときは本当にそんな錯覚に陥りそうになった。
 
 聖子先生に財布を預けているはずの友人A君のカバンから突如として財布が出てきたからだ。

 それも全部で四つ。盗まれた財布と同じ数だ。真の財布もその中にある。

「これはどういうことか説明してくれるか?」
 
 宮下君が机にドンッと両手をついて、詰問口調で責め立てたが、友人A君は椅子の背もたれに体を預けたまま、俯いている。

「待てよ、こんなの誤解だって!」

 みんなの冷ややかな視線が友人A君に集まっているのを見て、真が椅子を弾いた。今にも噛みつきそうな宮下君と、だんまりを決め込む友人A君の間に体を割り入れる。

「友人Aが財布を盗むはずないって。何かの間違いだ」

 真は宮下君の神経を逆立てないように用心深くなだめるように言った。立てこもり犯を逆上させないように説得する交渉人のようだ。

「オレたちは今まで体育の授業だったんだぜ? 財布を盗む暇なんてこれっぽっちもなかっただろ」

「だったら、芦屋君のカバンから財布が出てきたことはどう説明するつもりだ? 彼が犯人だという証拠じゃないか」

「外部の人間がやったんだよ」

「財布を盗まれた君がよく呑気なことを言えたな」

「崎山」

 真を見つめる坂本君の顔に同情の色が浮かんでいた。思わず耳を傾けてしまうほど低く落ち着いた声が教室に広がる。

「崎山が芦屋君をかばいたい気持ちはわかるよ、オレだって信じたくない。でも、外部の人間がわざわざ芦屋君のカバンに財布を入れるかな。彼は体育の授業を抜けているんだ」

 そして、平沢君に水を向けた。

「平沢は芦屋君と一緒に保健室に行ったはずなのに、どうしてひとりで体育館へ戻ってきたんだ?」

 平沢君はモンスターでも見るかのように友人A君の顔色を窺いながら、躊躇ためらいがちに応えた。

「保健室に着いた途端、芦屋さんがひとりでいなくなちゃったんだ」

 それはつまりアリバイがないということだ。

 保健室は三年一組の真下に位置しているから、そこから階段を使って教室まで直行すれば一分とかからない。

 状況的に友人A君が不利なのは動かしがたい事実で、さらには財布がカバンから見つかっていることが致命的だ。

「友人Aはトイレに行っただけだって、みんなで聞いただろ? だから遅れて授業に参加したんだ!」

 真っ赤な顔をして反論する真に、私は鉄扇で涼やかな風を送った。

「そんな嘘を信じるなんて本物の馬鹿なのか君は。彼はナイフの芦屋なんだぞ!」

「何だと!」

 軽蔑のこもった口調で息荒いた宮下君の胸ぐらへ、真の左手が真っ直ぐに伸びた。宮下君を殴るために右手が引かれる。残念ながら私の親切心は功を奏さなかったみたいだ。

 女子生徒の悲鳴が洩れたとき、

「やってらんねえ」

 友人A君が静かに席を立った。自分の荷物をカバンへ戻し、そのまま教室を出ていこうとする。
  
「どこに行くんだ。まだ話は途中だぞ」
 
 できの悪い生徒を怒鳴り散らす学年主任の先生のように宮下君が声を投げつけると、友人A君は振り返った。
 
 すると――。

 クラスメイトたちは息を呑む。
 
 友人A君の優しげに下がった目尻が、剣呑で殺気だった目つきに変貌していたのだ。
 
 それはまるで鈍色に光る冷たい鋭利なナイフ。

 噂に聞くナイフの芦屋の降臨だ。
 
 先ほどまで友人A君へ向けられていた冷ややかな視線は、彼のナイフを前に跳ね返されてしまった。
 
「家に帰ってメシ食って寝るんだよ」
 
 そう言い放ち、彼は教室をあとにした。
 
「友人A!」

 私は、友人A君の広い背中を追いかける真の小さな背中を追った。

 階段を下り、昇降口へ差し掛かったところで、友人A君はぴたりと足を止めた。

 息を切らした真が訊ねる。

「どうして、やっていないと否定しないんだよ?」

「職員トイレでウンコしていたと正直に話せって? 冗談じゃねえ」

 友人A君は背中で真と話し続ける。

「ウンコくらいで恥ずかしがるんじゃねえよ。一緒に教室に戻って、ちゃんとみんなに説明しようぜ」

「恥ずかしがってねえよ。あいつらの顔を見ただろ、例えオレが否定したところで誰も信じやしねえ。オレはそういうことをしてきたどうしようもないやつだからな」

「沈黙は肯定だって言うだろう? ここまま家に帰ったら、全部お前のせいになっちまうぞ」

 押し黙る友人A君に、真が返事を催促して、「なあ!」と苛立たしげに叫んだけれど、友人A君は構わず歩き出した。

 真は逃がすまいとあとを追う。
 
「帰るなよ」 

「うざいんだよ、付いてくんじゃねえよ!」

 昇降口に窓ガラスを震わす怒号が響いた。パタパタと複数の足音が近づいてくる。目と鼻の先の保健室と同じ並びには職員室があるから、不審に思った先生たちに違いない。

「お子様は早く教室に戻りな」

 友人A君は掠れ声を残して、逃げるように立ち去った。

「子供扱いすんじゃねえよ」

 憤慨する余裕もなく、真は呆然と立ち尽くしたまま、友人A君の背中を見送った。

 人は心にナイフを隠し持っている。

 一見、幸せそうに微笑んでいても、本当は泣き出したいのに無理やり笑顔を取り繕っているだけかもしれないし、居丈高いたけだかに怒っていても、本当は自分の弱さに絶望して、他人に当たり散らしているだけかもしれない。
 
 そんなとき、人は心の奥に隠し持ったナイフを握りしめるのだ。
 
 それは単なる護身用なのかもしれないし、他人を傷つけるための道具なのかもしれない。
 
 使い方は人それぞれだけれど、本当の気持ちを押し殺すことは素手でやいばを握りしめているのと同じこと。ナイフは諸刃もろはの剣であり、他人も自分も傷つける凶器となりえる。
 
 ナイフの芦屋が心に隠したナイフは誰に向けられたものなのか。それは彼にしかわからない。
 
 ただ、友人A君の前に回り込んだ私だけは知っている。
 
 彼が真以上にひどく傷ついた顔をしていたことを。

「今のは友人A君の本心じゃないよ。青春に喧嘩はつきもの。ああ、若さが羨ましいな。私はおじいさんだから」

 私は飄々と笑ってみせてから、また鉄扇で扇ぐ振りをした。

 真に吸い寄せられるように集まってくる元凶たちを追い払うために。生まれて間もない元凶は個々のエネルギーも弱く、風を起こせば、雲のように散らせるのだ。

 私のナイフは真を守るためにある――。



 ところが、友人A君の向けたナイフが思わぬ結果を生むことになった。
 
 生徒の独断で実行した持ち物検査の報告を受けた聖子先生は、生徒たち全員を叱責したあと、怒髪天どはつてんを衝く勢いで「警察を呼んで、指紋を調べてもらいましょう」と公言した。

 すると、ぽっちゃり背中が小刻みに揺れ出した。

 平沢君が震えている――。
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