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第4章 生きることは、守られること

第18話 加奈を捜せ

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「加奈が帰ってこないの」

 母さんの声は首筋に刃物をあてられているかのように張りつめていた。

「科学部の研究発表会があるから、部長の家に集まっているって、言ってなかったっけ?」

 オレは母さんの緊張をほぐすため、送話口にわざとのんびりとした声を吹き込んだ。しかし、母さんは興奮を息に乗せたまま、早口でまくし立てる。

「それが、部長さんのお家に電話をしたら、とっくに帰ったって言うのよ」

「父さんの迎えは? 車で行ってるはずだよね」

 加奈の迎えは父さんの役割だったはずだ。母さんとばあちゃんは運転免許を持っていない。

「お父さんは急に残業になったから今日は迎えに行けないって夕方に連絡があって。加奈も部活の友達と一緒に帰るから大丈夫って言うし、お母さんも安心していたんだけど」

 その後、加奈は帰り道、友達と別行動を取ったとのことらしい。

「加奈に何度も電話をかけているんだけど、繋がらないの。今おばあちゃんと近所を探しているんだけど」

「オレも探してみるよ。急いで帰るから」

 部長の家の場所を聞いて、電話を切ると、心配顔の真之助と出くわした。今の話を聞いていたらしい。

「大丈夫なの?」

「ああ、加奈なら大丈夫だろう。どっかで道草食ってるだけかもしれないし。父さんもこれから仕事を抜けて合流するらしいんだ」

「そうじゃなくて真がだよ。紙のように真っ白だ。孝志君のことと重ねているんじゃないの?」

 まさに真之助の言う通りだった。

 脳裏にはじいちゃんが死んだ日のことが断片的に再生されていた。

 オレの吐いたひどい暴言によって、傷つき、悲しげに顔を歪めたじいちゃん。

 雨が降る中、傘を片手にオレを迎えに家を出たものの、いつまで経っても帰宅しないじいちゃん。

 物言わぬ遺体となって戻ってきたじいちゃん――。

 あの、悪夢の日と、今の加奈の状況が非常に酷似しているように感じるのだ。

 昨夜のひどい兄妹喧嘩からの突然の行方知れず。

 もちろん、加奈は行き先を告げず外出したり、家出したりするようなタイプではない。

 いなくなったとすれば、自ら姿を消すよりも、何か事故か事件に巻き込まれたと考える方が自然で、加奈もじいちゃんと同じように帰らぬ人になってしまうのではないか、とたくましい想像力が不吉な未来を予感させる。

 不仲ではあっても、妹は妹。心配するなというのが難しい。

「加奈は孝志君のようにはならないよ」

「ああ」

 真之助の励ましを受けて、オレは両手で頬を叩き、気合を投入すると、部長の家へと駆け出した。

 脚力には自信があるはずなのに気持ちばかりがはやるせいで、緩慢な身体の動作が恨めしかった。

 幽霊坂を過ぎると、民家の明かりがポツポツと増えてきた。温かい光の下では家族の団らんが始まっているのだろう。今日はこんなことがあった、あんなことがあった、他愛のない平穏で幸せな一日の報告をしながら、食卓を囲んでいるのだ。三年前までは自分もあの世界にいたというのに随分遠い場所まで来てしまった気がする。

 鬱々とした気持ちを振り切るように、大きく腕を振り、地面を蹴ったところで真之助に呼び止められた。

 振り返ると、歩道脇の草むらを指差している。

「借りよう」

「借りようって――」

 雑草が生い茂る中、自転車が沈んでいるのが見えた。

「見るからに盗難自転車じゃねえか」 

 後輪部分のカギが破壊されている。

「自転車を使えば、走るよりも断然速く移動できるよ」

 真之助は手際よくハンドルを掴み、サドルを引っ張り、スタンドを立てた。さあ、後ろに乗ってよ。そんな爽快感を与える笑顔で、自転車に顎を向けた。

「わかった。安全運転を心がけろよ。慎重にな」

 錆が浮き出てザラついた荷台に腰をかけようとしたところで、オレは弾き飛ばされた。真之助の尻が先に滑り込んだのだ。道ですれ違った見ず知らずの人物にいきなり殴られるような困惑だ。訳がわからない。

「椅子取りゲームをして遊んでいる暇はねえんだよ!」

「私が自転車に乗れるわけないじゃないか」

 真之助はほとほと呆れ果てた風に首を振った。

「考えてもみてよ、江戸時代生まれの私が自転車の運転なんて、そんなスキルを持っているわけがないじゃないか。運転するのは真の方だよ」

「オレだってチャリに乗れないっつうの!」

 オレは六歳の頃に自転車の練習中にトラックに撥ねられて以降、自転車恐怖症なのだ。守護霊がそれを忘れてしまっては使命感に欠けるというものではないか。

 しかし、真之助はオレの言い分を無視し、しれっとした顔で言う。

「おいねちゃんだって乗り物恐怖症を克服したんだ。真は自転車で命を落としたわけじゃないんだから、乗れないはずがないよ。大丈夫、私が後で支えるから」

 そう言われてしまっては返す言葉が見つからない。こんなところで真之助と一戦を交える口喧嘩をする時間はないのだから。

「絶対に離すんじゃねえぞ!」

「はいはーい」

 気乗りしない誘いに「行けたら行く」と答えるのと同じ軽薄な返事は、信用できそうもなかったが、「もう、どうにでもなれ!」と、自暴自棄を唯一の原動力にして、オレは覚束おぼつかない足でペダルを漕いだ。

 空気の薄い層をひたいで破っては、また次の層も破って、そんなことを何度も繰り返して自転車は風を切る。

 真之助が霊力を使っているお陰だろう。

 自転車で転びもしなければ、トラックに撥ねられるような危険もなく、さらには「オレは自転車に乗れているんだ」、そんな感動に浸る余裕もなかった。

 空き家が目立つ閑静な住宅街に辿り着いた。

 間もなく部長の家だった。幸いにもこの辺りは崎山家の菩提寺ぼだいじがあるため、土地勘があるのだ。入り組んだ路地を右へ左へ折れながら、加奈の姿を探す。

 妹はまだこの近辺にいるかもしれない。何も確証はなかったが、兄の勘がそう告げていた。

「かーなー!」 

 耳を澄ますが返事はない。もう一度、名前を呼んだところで、かすかな動物の鳴き声を聞いた気がした。

「今、何か聞こえなかったか?」

「お兄ちゃんって聞こえた気がする」

「どこから?」

 一瞬だけ後ろを振り返ると、真之助がいつの間にか荷台に立ち上がっているのが確認できた。

 手のひらを水平にして額に添え、遠くを見渡し、「次の通りを右だ。人影が見える!」見張り台から敵兵の動向を覗う兵士のように短く指示を出した。

 自転車はある程度のスピードが出ていたため、危うく路地を直進しそうになり、オレは急ハンドルを切った。

 すると、暗闇の中にうごめく影が飛び込んできた。巨大なフライパンの上、熱に驚いたウィンナーが飛び跳ねているのかと思ったが違った。

 人が人に覆い被さり、下敷きになった方が抵抗するために必死で四肢を動かしているのだとわかった。さらに口を押さえられているのか、呻くようなこもった声がする。

 自転車のライトがもつれ合う二人の人間に届いた。

 上にいるのはフードを頭からすっぽりかぶった男。

 下で動きを封じられているのが――加奈だった。

 男の手には鈍色に光る刃物が握られている。



 通り魔!!!



「妹に何してんだよ!」

 体内に眠っていたマグマが口から噴出するかのような強い口調になった。

 驚いた男は闇の中に姿を消そうとして一目散に駆け出した。闇と同系色の黒い服装だ、逃げられては面倒なことになる。

 オレは逃がすまいとして、サドルから立ち上がり、深くペダルを踏み込んだ。

 ひどく慌てたためだろう、男は自分の足に片足を絡ませ、お笑いコントだったら称賛されるほどの盛大な転び方をした。

 そこで、正義のヒーロー然としたオレが颯爽と自転車から飛び降り、男を捕まえる予定だったが、ぎゅっとハンドルを握りしめたまま、自転車の加速に身を任せなければならなかった。

 ブレーキが壊れていたのだ。



 ※ ※ ※



「バカじゃないの。助けに来るのが遅すぎなんですけど!」

 加奈はまず、世界一辛い唐辛子ハバネロを彷彿させる辛辣な物言いで悪態をついた。それから、吊り上げていた目と口と眉を、谷底にバンジージャンプするかのようにブワッと一気に下げて、オレの腕の中に飛び込んできた。

 敵が味方になるような見事な身の翻しに狼狽うろたえて、オレも初めのうちはあたふたと両腕の行き場を探していたが、結局は赤ん坊をあやすように加奈の背中をポンポンと擦ることで落ち着いた。

 加奈は幸いにして掠り傷程度ですんだのだが、やっぱり恐ろしかったようだ。号泣は止まなかった。

「よしよし」

「ダサッ、その慰め方。子供扱いしないでくれる?」

「人がせっかく慰めてやってんのに偉そうなやつだな」

「お兄ちゃんは大袈裟なの。全然、怖くなかったのに」

「よく言うぜ。ピーピー泣いているくせに」

「うるさいな」

「うわ、オレの制服で鼻をかむんじゃねえよ!」

 加奈を襲ったフード男は道路の真ん中で大の字になって伸びていた。まるで、脱ぎっぱなしの靴下のようにだらしなく意識を失っている。

 初心者が運転するコントロール不能の自転車で撥ねられたのだから、当然と言えば当然だ。

 目深にかぶっていたフードがめくれて、細面があらわになっているが、見たこともない二十代前半の若い男だった。

「グッジョブ!」

 それまで男をツンツンと指で突いていた真之助がおもむろに振り返り、オレに向かって親指を立てた。オレの健闘を称えてるというより、暴走自転車を止めた自分の活躍を褒めて欲しい、そんな得意顔だ。

「なにがグッジョブだよ。ブレーキが壊れてるなんて聞いてねえよ」

 加奈に気づかれないよう声を潜めて、オレは渋々と親指を突き返す。

 文句は言っても真之助には感謝していた。

 いくらオレが脚力に自信があると言っても、自転車のスピードには敵わない。真之助の助けがなければ、今頃、加奈はナイフで傷つけられていたのだ。いや、下手をすれば、命を落としていたかもしれない。じいちゃんや莉帆りほと同じように。

 オレはもう一度、男を一瞥した。

 この男が通り魔だったのか――。

 加奈を失わずにすんだ安堵感と、通り魔がやっと逮捕される達成感が頭のてっぺんから爪先まで充満していた。

 じいちゃん、莉帆、おいねもきっと報われることだろう。
 
 複数のサイレンの唸りが近づいてきた。パトカーと救急車の赤色灯で夜が真っ赤に染まるのではないかと疑うほど騒々しい。そこに見覚えのある黒のセダンが現れた。

 三田村さんと安藤さんの覆面パトカーだった。

「警察が来たからもう大丈夫だぞ」

 明るく告げると、春の気配を察知したリスが巣穴から顔を覗かせるように加奈はそっと顔を上げた。迷惑なのか、はたまた照れているのか、複雑な表情で笑っている。こんな顔を見たのは三年ぶりだった。

 オレは加奈の柔らかい髪をそっと撫でつけた。通り魔と揉み合ったせいで、ツインテールがボサボサに乱れている。

 そこで三田村さんの言葉が思い起こされた。

『通り魔は長い髪の女性を狙っている』

 加奈はどこからどう見てもロングヘアのカテゴリーには入らない。肩より上の長さであるから、せいぜいボブヘアと言ったところだろう。

 それが小骨のように引っかかっていた。
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