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第一章
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突然のプロポーズから三日後のことだったと、セリーナは記憶を辿っていた。
軍の駐屯地から北の国境へと幾つかの部隊が旅立つという情報が、街を駆け巡った。女中が浮き立った様子で「来ましたよ」と声をあげたので、セリーナも通りに面した窓から外を覗いた。ちょうど、騎馬や歩兵の行進が整然と大通りを進み、人々から声援を受けて行進しているところだった。
その中でも特に若い兵士たちが集まった隊があり、その先頭を馬で行くのは、あのレオン・フェアクロフだった。窓から顔を出したセリーナを、彼はすぐに見つけた。セリーナは手を振りもしなかったし、レオンはひたすらこちらを見上げるだけだった。
けれどその時すでに、セリーナの心は動かされていた。
今、セリーナは真新しい家具が並ぶ新居の寝室で、白いドレスを脱ぎ、麻の夜着だけでベッドの上に座っている。
結婚式をあげた教会から直接この家に戻ってきて、レオンはぎこちなく「何か食べますか?」と訊いてきたが、セリーナは覚悟が揺らぎそうで「私は寝室でお待ちしてます」とだけ答え、棒立ちになっている新しい夫を居間に残したまま、二階の部屋に入ったのだ。
この歳で、初夜。手に滲む汗を夜着に擦り付けて拭って、暴れる心臓をなだめようとする。そして散らばる思考を、また過去へと馳せた。
軍の部隊が駐屯地から北に旅立って一週間後。セリーナのもとに一通の手紙が届いた。
消印はこの国の最北の宿場町だった。所々泥に汚れ、何のシミか分からないものもある。
それは北の国境から届いた、レオン・フェアクロフからの手紙だった。
セリーナ・ブランソン様
俺は今、北の要塞へ配属され、山岳地帯の巡回の任に就いています。この手紙は、要塞へ物資を運ぶ商人に託すつもりです。
先日、突然の申し出で貴女を驚かせたことを思い出す度に、何かもっと礼節を弁えたやり方があったはずだったと後悔しています。その時の俺には、伯父の仲介を思いつくだけがせいぜいだったのです。
けれど今も、貴女を妻にという望みは変わっていません。
雪が降る前に、何としても何か功績をあげて駐屯地に戻るつもりです。どうか、世俗を捨てるなどという道の他に、軍人の妻という安定もあると考えてください。
岩山に小さな花を見つけたので、同封します。同僚が言うには、珍しい種類だそうです。
お身体に気をつけて。
真心とともに
レオン・フェアクロフ
たった一枚の便箋に収まる言葉の連なりは、簡潔さの中にある種の真摯なものが見え隠れしていた。残念ながら、封筒に一緒に入っていた小さな白い花は押し花の処理もされていなく、萎びて原型が分からないほど潰れていたが。
セリーナは、その手紙への返事を出そうとした。しかし思いつく全ての言葉が上滑りし、何度も書き直し、思い悩んでいるとあっという間に一週間が経ってしまっていた。
そしてまた、北の地から手紙が届いた。
セリーナ・ブランソン様
俺が配属された要塞からは高い山々が見えますが、先日ついにその頂上が白く冠雪しているのが見えました。そちらは、まだ夏の気配が残っている頃でしょうが、この地はもう冬の足音が聞こえます。
先日花を同封しましたが、後になって、そんなやり方では貴女に届く頃には花は惨めな姿になっているだろうと、同僚に指摘されました。無粋な軍人の失態です。どうか笑ってください。
任務のことはここで詳しく書けません。しかし隊の仲間と、山賊捕縛の計画を立てています。この作戦が成功すれば、勲章や昇格に手が届きます。隊舎住まいから抜け出し、家を持つことも許されますし、給金は家庭を持つ男にふさわしいものになります。
今の所、俺がお約束できるのはそれだけです。あとは、貴女に向ける誠実さですが、それをどう証明すればいいのか、分かりません。
どうぞお身体をお大事にしてください。
真心を込めて
レオン・フェアクロフ
セリーナは徹夜で返事を書いた。たった一枚の便箋に、言葉を埋めるのがとてつもなく難しかった。内容は恥ずかしくなるくらいつまらない当たり障りのないものになってしまったが、庭で摘んだ青い花を押し花にして栞を作り、それを同封した。
何日で北の地まで手紙が届くのかは分からなかったが、間もなくまた手紙が来た。
セリーナ・ブランソン様
貴女からお手紙がもらえると思っていませんでした。何度も読み返し、こうしてその夜のうちにペンをとっています。
貴女がくださった花は、きれいなまま届きました。俺もああして送ればよかったと、岩肌の影や川辺をもう一度探したのですが、この寒さが厳しい地では、花の季節は終わってしまったようです。
明日から、山に分け入ってしばらく要塞には戻りません。手紙をこうして書くのも、しばらく後になるでしょう。
執拗な男とお思いでしょうが、今一度、ここで乞うことをお許しください。
どうか、この求婚に是と答えて欲しいのです。貴女のフランク殿との過去は、どうぞ美しい思い出のまま抱えていてください。ただ俺にも、貴女に静かな暮らしを供することができると思うのです。
真心と感謝を
レオン・フェアクロフ
その手紙になんと返事を書いたかは、今はもうよく思い出せない。とにかく、しばらく日が経った頃にまた、彼から手紙が来た。
そうやって、約三ヶ月の間に何度文をやり取りしただろう。
街路樹の紅葉が散り始めたある日、北の要塞に派遣されていた兵士たちが戻ってきた。レオン・フェアクロフの率いる隊は険しく道もない山間をまわりこみ、山賊たちにのねぐらを見つけ奇襲をかけて一掃したらしいと、噂が聞こえてきた。
夏に見送った時と比べると、レオンは明らかに痩せて、怪我をして、疲れ切っていた。道に飛び出したセリーナを見つけると、彼は馬を降りて、泥に汚れるのも構わず地面に膝を折って跪いた。
彼は何も言わず、ただ真っ直ぐな眼差しでセリーナを見上げ、答えを待っていた。セリーナは、傷と泥で汚れた彼の手をとって、「レオン・フェアクロフ。あなたの妻になります」と答えた。
寝室のドアがギイと音を立てて開かれ、セリーナはハッと意識をこの瞬間に引き戻した。
いつの間にか窓の外はすっかり暗くなり、この小さな寝室には一本の蝋燭の光しかない。その弱々しいオレンジ色の光に、怖いくらい真剣な男の顔が照らされていた。
「レオン……と、呼んでも?」
彼の目が見開かれた。
「ええ……。俺は、貴女のことを……レディー・セリーナ?」
思わず、緊張が苦笑いになって漏れ出てしまった。
「あなたの妻なのだから、普通に名で呼べばいいのよ」
セリーナはベッドの上から、背の高い彼を見上げた。まるで幻獣でも見るかのように、彼の表情には未だに新鮮な驚愕がある。そんなに寝巻き一枚の女が珍しいのだろうか。兵士なら、今まで花街の経験もあるだろうに。
それとも今さら、何か躊躇があるのだろうか。
「わかっていると思うけど……私、処女ではないわ」
彼の身じろぎが空気を揺らした。
「貴女はそんな価値を超越している」
どこか少年のような声がそう言った。一瞬、その言葉の意味を理解するまでに時間がかかる。
「……え?」
戸惑って問い返そうと思った時、彼がベッドに近づいてきた。
「さあ、身体を冷やします。ベッドに入って」
上掛けをめくり上げて、そう促される。セリーナは素直に従った。彼も後に続くだろうと、右側のスペースを空ける。
しかし予想に反して、彼は淡々とセリーナに上掛けを丁寧にかけて肩まで包み込み、空気を抜くように布団を手で撫でつけた。
「え……っと。レオン?」
「おやすみなさい」
状況がつかめなくて目を白黒させていると、彼がさらに身を折って、セリーナの額に唇で触れた。接吻ともいえない触れ合いだ。
そしてレオンは、そのままセリーナをベッドに残して寝室を出て行った。
軍の駐屯地から北の国境へと幾つかの部隊が旅立つという情報が、街を駆け巡った。女中が浮き立った様子で「来ましたよ」と声をあげたので、セリーナも通りに面した窓から外を覗いた。ちょうど、騎馬や歩兵の行進が整然と大通りを進み、人々から声援を受けて行進しているところだった。
その中でも特に若い兵士たちが集まった隊があり、その先頭を馬で行くのは、あのレオン・フェアクロフだった。窓から顔を出したセリーナを、彼はすぐに見つけた。セリーナは手を振りもしなかったし、レオンはひたすらこちらを見上げるだけだった。
けれどその時すでに、セリーナの心は動かされていた。
今、セリーナは真新しい家具が並ぶ新居の寝室で、白いドレスを脱ぎ、麻の夜着だけでベッドの上に座っている。
結婚式をあげた教会から直接この家に戻ってきて、レオンはぎこちなく「何か食べますか?」と訊いてきたが、セリーナは覚悟が揺らぎそうで「私は寝室でお待ちしてます」とだけ答え、棒立ちになっている新しい夫を居間に残したまま、二階の部屋に入ったのだ。
この歳で、初夜。手に滲む汗を夜着に擦り付けて拭って、暴れる心臓をなだめようとする。そして散らばる思考を、また過去へと馳せた。
軍の部隊が駐屯地から北に旅立って一週間後。セリーナのもとに一通の手紙が届いた。
消印はこの国の最北の宿場町だった。所々泥に汚れ、何のシミか分からないものもある。
それは北の国境から届いた、レオン・フェアクロフからの手紙だった。
セリーナ・ブランソン様
俺は今、北の要塞へ配属され、山岳地帯の巡回の任に就いています。この手紙は、要塞へ物資を運ぶ商人に託すつもりです。
先日、突然の申し出で貴女を驚かせたことを思い出す度に、何かもっと礼節を弁えたやり方があったはずだったと後悔しています。その時の俺には、伯父の仲介を思いつくだけがせいぜいだったのです。
けれど今も、貴女を妻にという望みは変わっていません。
雪が降る前に、何としても何か功績をあげて駐屯地に戻るつもりです。どうか、世俗を捨てるなどという道の他に、軍人の妻という安定もあると考えてください。
岩山に小さな花を見つけたので、同封します。同僚が言うには、珍しい種類だそうです。
お身体に気をつけて。
真心とともに
レオン・フェアクロフ
たった一枚の便箋に収まる言葉の連なりは、簡潔さの中にある種の真摯なものが見え隠れしていた。残念ながら、封筒に一緒に入っていた小さな白い花は押し花の処理もされていなく、萎びて原型が分からないほど潰れていたが。
セリーナは、その手紙への返事を出そうとした。しかし思いつく全ての言葉が上滑りし、何度も書き直し、思い悩んでいるとあっという間に一週間が経ってしまっていた。
そしてまた、北の地から手紙が届いた。
セリーナ・ブランソン様
俺が配属された要塞からは高い山々が見えますが、先日ついにその頂上が白く冠雪しているのが見えました。そちらは、まだ夏の気配が残っている頃でしょうが、この地はもう冬の足音が聞こえます。
先日花を同封しましたが、後になって、そんなやり方では貴女に届く頃には花は惨めな姿になっているだろうと、同僚に指摘されました。無粋な軍人の失態です。どうか笑ってください。
任務のことはここで詳しく書けません。しかし隊の仲間と、山賊捕縛の計画を立てています。この作戦が成功すれば、勲章や昇格に手が届きます。隊舎住まいから抜け出し、家を持つことも許されますし、給金は家庭を持つ男にふさわしいものになります。
今の所、俺がお約束できるのはそれだけです。あとは、貴女に向ける誠実さですが、それをどう証明すればいいのか、分かりません。
どうぞお身体をお大事にしてください。
真心を込めて
レオン・フェアクロフ
セリーナは徹夜で返事を書いた。たった一枚の便箋に、言葉を埋めるのがとてつもなく難しかった。内容は恥ずかしくなるくらいつまらない当たり障りのないものになってしまったが、庭で摘んだ青い花を押し花にして栞を作り、それを同封した。
何日で北の地まで手紙が届くのかは分からなかったが、間もなくまた手紙が来た。
セリーナ・ブランソン様
貴女からお手紙がもらえると思っていませんでした。何度も読み返し、こうしてその夜のうちにペンをとっています。
貴女がくださった花は、きれいなまま届きました。俺もああして送ればよかったと、岩肌の影や川辺をもう一度探したのですが、この寒さが厳しい地では、花の季節は終わってしまったようです。
明日から、山に分け入ってしばらく要塞には戻りません。手紙をこうして書くのも、しばらく後になるでしょう。
執拗な男とお思いでしょうが、今一度、ここで乞うことをお許しください。
どうか、この求婚に是と答えて欲しいのです。貴女のフランク殿との過去は、どうぞ美しい思い出のまま抱えていてください。ただ俺にも、貴女に静かな暮らしを供することができると思うのです。
真心と感謝を
レオン・フェアクロフ
その手紙になんと返事を書いたかは、今はもうよく思い出せない。とにかく、しばらく日が経った頃にまた、彼から手紙が来た。
そうやって、約三ヶ月の間に何度文をやり取りしただろう。
街路樹の紅葉が散り始めたある日、北の要塞に派遣されていた兵士たちが戻ってきた。レオン・フェアクロフの率いる隊は険しく道もない山間をまわりこみ、山賊たちにのねぐらを見つけ奇襲をかけて一掃したらしいと、噂が聞こえてきた。
夏に見送った時と比べると、レオンは明らかに痩せて、怪我をして、疲れ切っていた。道に飛び出したセリーナを見つけると、彼は馬を降りて、泥に汚れるのも構わず地面に膝を折って跪いた。
彼は何も言わず、ただ真っ直ぐな眼差しでセリーナを見上げ、答えを待っていた。セリーナは、傷と泥で汚れた彼の手をとって、「レオン・フェアクロフ。あなたの妻になります」と答えた。
寝室のドアがギイと音を立てて開かれ、セリーナはハッと意識をこの瞬間に引き戻した。
いつの間にか窓の外はすっかり暗くなり、この小さな寝室には一本の蝋燭の光しかない。その弱々しいオレンジ色の光に、怖いくらい真剣な男の顔が照らされていた。
「レオン……と、呼んでも?」
彼の目が見開かれた。
「ええ……。俺は、貴女のことを……レディー・セリーナ?」
思わず、緊張が苦笑いになって漏れ出てしまった。
「あなたの妻なのだから、普通に名で呼べばいいのよ」
セリーナはベッドの上から、背の高い彼を見上げた。まるで幻獣でも見るかのように、彼の表情には未だに新鮮な驚愕がある。そんなに寝巻き一枚の女が珍しいのだろうか。兵士なら、今まで花街の経験もあるだろうに。
それとも今さら、何か躊躇があるのだろうか。
「わかっていると思うけど……私、処女ではないわ」
彼の身じろぎが空気を揺らした。
「貴女はそんな価値を超越している」
どこか少年のような声がそう言った。一瞬、その言葉の意味を理解するまでに時間がかかる。
「……え?」
戸惑って問い返そうと思った時、彼がベッドに近づいてきた。
「さあ、身体を冷やします。ベッドに入って」
上掛けをめくり上げて、そう促される。セリーナは素直に従った。彼も後に続くだろうと、右側のスペースを空ける。
しかし予想に反して、彼は淡々とセリーナに上掛けを丁寧にかけて肩まで包み込み、空気を抜くように布団を手で撫でつけた。
「え……っと。レオン?」
「おやすみなさい」
状況がつかめなくて目を白黒させていると、彼がさらに身を折って、セリーナの額に唇で触れた。接吻ともいえない触れ合いだ。
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