あなたが私を手に入れるまで

青猫

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第一章

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「お願いがあるんです」
 次の日の朝、セリーナは軍に出勤する若い夫を見送る時にそう切り出した。
 今朝のレオンの様子は、ここ数日とさして変わりはなかった。朝一番に馬の世話をして、黙々と朝食を詰め込み、自分で身支度を整える彼と、セリーナはほとんど会話はしていない。「いってらっしゃい」と送り出す一言だけの予定を覆したのは、一晩いろいろ思い悩んだ結果だった。
「はい。何なりと」
 レオンは不意をつかれたように、少し少年っぽい面影を瞬きの間だけ表情に浮かび上がらせた。とはいえ、セリーナの目の前にあるのは、立派な成人男性の身体だ。上着の肩の縫い目など、盛り上がった筋肉に押し上げられて張っている。
「花が欲しいんです」
 セリーナは簡潔に伝えた。
「花……ですか? それなら、あの通りの角にいつも花売りが露店を出します。待ってください。俺、今どのくらい小銭があるか……」
「レオン。できれば、あなたが摘んだお花が欲しいんです」
 財布を取り出そうとする夫の手に、自分の手を重ねて止める。面白いくらいに彼はびくりと肩を硬直させた。
「軍からお帰りの時に、一輪だけでもいいので。おねがい。ね?」
 この要求は一体何事かと、不器用な夫は目を白黒させている。セリーナは彼の雑な襟元を整え、玄関の戸を大きく開け放ち、笑顔を向けた。
「いってらっしゃい。お気をつけて」
 外にレオンを押し出し、小さくため息をついた。
 この結婚を成したのはレオンだが、そこから前に進むためには何かテコ入れが必要だ。ちょっとした贈り物をねだるとか、そんなささやかのことでも、男女の仲としての第一歩としてやらないよりマシだろう。
 もうすでに結婚してしまっている自分たちには今さらかもしれないが、せめての信頼関係を築くため、できることはあと何があるだろうと、セリーナはしばし考え込んだ。


 一日の職務と隊の訓練が終わり、レオンは河原に赴いて黙々とコスモスを摘んでいた。辺りには他にも秋の花が咲いているが、この花が一番見栄えがいい気がする。
「なあ。お前がただ花って言うからここに連れてきたけど、奥さんに贈るんだろ? もっと他のがいいかもしれないぞ」
 後ろから声がかけられた。レオンの率いる隊の副隊長のマットだ。
 レオンは精神的、肉体的な強靭さで隊員を率いているが、この副隊長は勘が鋭い頭脳派だ。幅広い知識があり、助言役として頼りになる。秋の花はどこで手に入るのかという相談にも、マットは「なら川辺に行ってみろ」と即答してくれた。
「他に何かあるのか?」
 ちなみに彼女は一輪だけでいいと言っていたが、レオンにとってはその一輪を選ぶのがとてつもなく難しい。目の前に広がる草むらには様々な色のコスモスが咲き乱れていて、どれが彼女を喜ばすか分からない。というわけで、レオンの手にはすでにそれなりの大きさのブーケが出来上がっていた。
「花といっても色々だよ。こうして簡単に手に入るものから、花屋が売る珍しいもの。輸入される球根から育つチューリップは、品種改良されて時々宝石並みの値段のものがある。そうじゃなくても、例えばバラとか、蘭とか、人の手がかかって美しく咲やつ」
 マットは西に沈む太陽を眺めながら、少し肩をすくめて見せた。レオンは呆然となって、花畑の中に立ちすくむ。
「……そう、か」
 手にある花束に目を落とす。
 できるだけ痛んでいない花を、綺麗な色のものを、虫などついていない清らかなものを集めたつもりだった。けれど所詮河原に群れるつまらない野草だと、気がついてしまう。高貴な人々が家の窓辺に飾る南国の珍しい花でもなければ、庭師が丹精込めて世話をしたバラでもない。
「一輪だけっていうリクエストも、試されているのかもな。どんな価値ある花を持って帰ってくるか、お前のセンスが問われてるんだよ」
 マットの言うことはもっともだ。彼は市井でも女性の扱いが上手いし、その助言はレオンに至極真っ当に聞こえた。
「どうすればいい?」
 そろそろ日が暮れる。レオンはマットに詰め寄って、普段にはない焦燥を隠そうともしなかった。ここは目の前の友に頼るしかないのだ。
「うーん。バラなら、貴族の屋敷の庭に咲いているけど、この時間にツテもなく急に訪れて『庭のバラをください』って頼むわけにいかないしなぁ」
 マットの言葉に誘発されたわけではないが、しばらく考え込んだ後、レオンは物騒な結論に行き着いた。
「……仕方ない。忍び込んで、一輪だけ盗んでこよう」
「マジかよ」
 今度はマットが狼狽える番だった。
 しかし結局は二人とも向こう見ずな若い軍人で、バラを一輪だけ盗むのがそう凶悪な犯罪とも思えなかった。少々の悪戯心も働いて、二人は街の高級住宅街に足早に向かいながら、一度ニヤリと笑みを交わした。


 夕暮れの街中を、セリーナは紙袋を一つ抱えて買い物から帰路についていた。
 輝かしい夏は過ぎ去り、夜には木枯らしが街の路地まで枯葉を運ぶ。人々は上着を着込み、冬支度に追われる季節だ。
 セリーナが買ったのは毛糸だった。これで襟巻きを編んで、夫に贈ろうという計画だ。歩きながら紙袋の中をもう一度覗き込み、そこに柔らかな羊毛の糸を確認すると、自然に笑みになる。選んだ色は黒。彼が普段着る軍服の邪魔にならない色だろうと、考えた末にこの色にした。
「あとは、何とか彼と距離を縮めて、せめて普通の夫婦らしくできるようにしないと……」
 昨夜、彼が告白したことは確かに衝撃だった。長年片思いをされていなんて、思いもよらなかった。
 あの後、セリーナはベッドの中で独りあれこれ考えを巡らせた。もういないフランクのこと。何かとてつもない恋情で、こんな暴挙ともいえる婚姻を成してしまったレオンのこと。
 前夫のフランクを突然亡くしたことは、まだ癒えぬ傷となってセリーナの中にあるが、かといって目の前の新しい生活を蔑ろにするつもりもなかった。とにかく、二人目の夫との日常がこんな風にぎこちなくては不健全だ。なんとかレオンと打ち解けられないだろうかと、頭を悩ます。
 考え込みながらも、セリーナはしっかりした足取りで、石畳の小道を進んだ。
 買い物をした区画から自宅に帰るには、貴族の屋敷が一箇所に集まった住宅地を通り抜けるのが近道だ。以前、裁判官の妻として権力者たちの屋敷を訪れることも多かったせいで、セリーナはここの横道やあまり目立たない路地まで知っていた。
 美しい外壁の屋敷が並ぶ道は整然とした静かさがあり、治安がいい場所なので、夕闇が迫る中でもセリーナはのんびりと足を進める。しかし、油断しすぎていたかもしれなかった。
 ある屋敷の裏道に入り、ふと目線を上げると、そこにある鉄製の塀に人影が見えた。声も出せず息を飲み、手にあった紙袋を落としてしまう。石畳に軽い衝撃音が響いた。
 見るからに不法侵入をしようとしている人影は、二人分あった。今にも高い塀を向こう側へ乗り越えようとしている。そして恐ろしいことに、その二人の賊はセリーナに気がついて振り返った。
「きゃ……だ、誰か……っ」
 大声を出そうと思ったが、恐怖に喉が引きつる。そして次に耳に聞こえた声は、もっと思いもよらないものだった。
「セリーナ?!」
「え、まじで?!」
 自分の名を呼んだのは、聞き慣れた声だった。
 賊の一人が塀にしがみついたまま、顔に巻いていた布をずらす。それはセリーナの二番目の夫の顔だった。
 
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