彼方からの旋律に耳すます夜は

青猫

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 困ったな。と思う。
 フランツは大学の自室で、手の中にある鍵をぼんやりと眺めながら椅子の背もたれをぎいと鳴らした。
 困っている。下の階に越してきた、リサという女の子について。いや、女の子というのは失礼か。でもまだ二十代なのだろう。などと思考が散らばる。
 方々にうねっている長めの髪。触れればほろりと崩れてしまいそうな、華奢な肩。少し切れ長の目尻。
 そんな彼女を見ていると、透明度が高すぎる清瀬の中、流れがうねるふちに立っているような心地になる。あと半歩でも足を踏み出せば、見えない急流に逆らえなくなるような予感だ。
——何を考えてるんだ。
 フランツはその合鍵をぐいとポケットに突っ込んだ。
 結局、彼女にバスルームを貸したのは、せいぜい十日ほどだっただろうか。様々な業者が出入りした末に、彼女の部屋の給湯器がついに新品に交換された。煙突の修理やガス管の点検は、予定よりも手早く済んだらしい。
 とにかく、同じアパートの住人という関係から少し逸脱したようなやりとりは、これで終わってしまった。昨日、フランツが自宅を出ようとした時に、彼女が部屋にやってきたのだ。「お返ししなきゃいけないものが沢山あるんです」と言って、鍵とカーディガンと本を差し出してきた。
「今度お礼に、何かご馳走させてください。あの、よければ、またランチとか……」
 何かを振り絞るように、彼女はそう言った。淡い緊張感が隠しきれていなくて、なんだかそれすら危うい感じにフランツを揺さぶった。
 急流はそこにある。ジリジリとそこに押しやられてしまっているのも、よくわかっている。
 フランツは机に積み重なっている学生のレポートに手を伸ばし、一番ましなのはどれだろう、とパラパラめくってみた。この他にも、新聞に頼まれた書評を書かなくてはならないし、講演会も来週に待ち受けている。
 それらの仕事を目の前にして、どうして自分はまた彼女のことを考えているのか。
——いや「どうして」という思考は、単なる回り道だ。
 この感情の意味がまるでわからないと自分を偽るのも馬鹿らしい。そういう青い煩悶ができるほど若くないのだ。
——まったく、この歳でこんな……。
 その時、軽いノックの音が部屋に響き、フランツの意識を現実に引き戻した。「どうぞ」と答えると、開いた扉の隙間から小柄な女性が頭だけひょこりと入れて、こちらを覗き込んできた。
「こんにちは、フランツ。今お時間あるかしら?」
「……エレン・リンドル学長」
 彼女は「すぐ済むわ」と部屋に入ってきた。
 フランツと旧知の仲のエレンは、思想文化の研究で輝かしい功績を持つ学者で、五十代になって昨年から大学長に就任した。この小柄な身体にエネルギーを漲らせ、こうして自ら各教授の部屋を訪れて、あれこれ相談したり指示したりする。
「来月にある、大学図書館の新館のオープニング式。さっき秘書からパーティーの出席者リストをもらったんだけど、なぜフランツ・ヴェングラー教授は欠席になってるのかしらと思って」
 真っ白なボブカットの髪をちょっといじって、彼女はツンと顎を上げた。フランツはやれやれと肩を落とす。
「そういう催しものは苦手なんだって、何回言ったっけ。僕がいてもいなくても同じだろう」
「何言ってるのよ。あなた自分の学術分野わかってるの? 図書館が大きくなって、収蔵が増やせる恩恵に預かる、ドイツ文学じゃない!」
「それはありがたいと思っているし、これから蔵書の収集などには尽力するつもりだよ。でもオープニング式では、僕にできることはない。だいたいの出席者の話題といったら、連れの紹介から始まって、マイホームの購入とか、休暇の旅行先とかじゃないか。いつも僕は浮いてしまって、居心地の悪い思いをするんだ」
 エレンは「呆れた」とでも言うように目をぐるりと回して見せた。
「ならあなたも同伴者くらい連れてきなさい」
「だから、僕にそういうことを期待しないでくれって言ってるんだ」
 フランツが簡単には折れないと見たのか、エレンは勝手にそこらへんの椅子を引き寄せて、向かい合わせに腰を下ろした。すぐ済むんじゃなかったのか、とフランツは胸の中で独りごちる。
「そうねそうね。確かにつまらない催しよ。私もニコニコしながらテープカットして、お決まりの定型文だらけのスピーチを読み上げて。パーティーでは各方面にお礼を述べて回って、きっと食事をゆっくり味わう暇もないわ。でもね、夫と一緒にドレスアップしてこういう場に出るっていうのは、楽しい部分もあるのよ」
「そういう社交が楽しめるから、君は学長職に向いてるんだよ」
「フランツ。あなた本当に、こういう機会を一緒に楽しめる誰か、いないの?」
 エレンの押しの強さはいつものことだが、この不意を突く質問にはフランツも一瞬固まってしまった。
 彼女は手をいじりながら「こういう質問もセクハラになるのかしらね」とこぼす。
「長年の友として、ちょっと心配してるのよ。生徒に手を出して教職を剥奪された某講師とか、不倫現場の写真を生徒に撮られて恐喝され私に泣きついてくる某准教授なんかよりは、ずっと独り身で研究室に閉じこもってるあなたの方が好感がもてる学者だけど」
「エレン……」
 思わず、頭痛の予感を抑えるようにこめかみに手を当てて、フランツは低く呻いた。
「古い恋の詩を読むばかりで満足してしまってるのかしらね。あなた若い頃より、むしろ年取ってかっこよくなったのに。もったない。さっきだって食堂で女子生徒たちがあなたのこと噂してたわよ」
 本当に頭痛がしてきたかもしれない。
「噂って、どうせこの前の試験への不満だろう。半分ほど不合格にしたから」
「……あなた本当に自覚ないのね」
 自覚? とフランツは目で問い返す。
「あなたの研究室に『教えて欲しいことがある』とか言って来る子、学期に二、三人はいるでしょ。授業で質問すればいいのに、個人で来る生徒」
「ああ」
「スカートの短い女の子だったり、なんだかじっと目を見てるく男子生徒だったりしない?」
 フランツは眉を寄せた。「そんなの見ていない」と答えると、エレンは「自覚どころか、認識すらしてないのね」苦笑している。
「まあ学長としては、健全鉄壁なヴェングラー教授にはそっち方面の心配はないと、安心できるけど」
「なんの心配もいらないよ。そういう大学内での醜聞めいたものどころか、普段の生活すら化石の一歩手前だ」
「だから、それじゃダメよって言いたいの。大学と自宅を往復して、本に囲まれていれば満足なんでしょうけど、たまには別の世界も見てごらんなさいな」
 というわけで、図書館のオープニングパーティーには出席すること。とエレンは強引に結論付けて立ち上がった。もうこうなるとフランツも「はいはい」と頷くだけになる。
 嵐のように来訪した学長は、嵐のように去って行った。
 フランツはほっとしながらまた深く椅子に腰掛け、ギイギイと背もたれを鳴らす。
——別の世界、ね。
 確かに、自分はこの文学の世界しか知らない。様々な叙事詩にある冒険や恋を文字で追って、それを知った気になっているのかもしれない。
 二十年以上前にこの大学で学生生活を送り、院はベルリンで学位をとった。そのままアシスタントを経て非常勤講師となり、准教授としてまたこの街に戻ってきて、今や大学に個室を持つ教授。
 そんな経歴を積み重ねる途中、それなりに女性と付き合ったこともあったが、結局ずっと本にうずまって、気がついたら、読んだり書いたりすることだけが取り柄の男になってしまっていた。
 ふと、机の上にあった一冊の本を手に取った。
 十八世紀のドイツ詩人、クロプシュトックの詩集だ。リサから返されたものを、そのまま大学に持ってきてしまっていた。
 ページを開き、「An Sie(彼女に)」の詩を探すと、すぐに見つかった。
 フランツはそれを一読し、なぜよりによってこの詩を、発作に苦しむ女性に読んだりしたのだろうと、自分に呆れてしまう。パニック発作で過呼困難に陥っている場合は、会話などで声を出すことが一時的に効果がある、というのは本で読んだ知識だったのだが。
——なぜこんな詩を選んだか? とっさに頭に浮かんだだけだ。予感なんて、大抵はただの後付けで……。
 ふと「まただ」と、フランツは己の思考を自覚する。
 こんな時間は無駄だ。自己防衛のように悩んでいるふりをしているだけで、結局行き着く先の答えは明白なのだから。
 フランツはラップトップを開いて、街の市民劇場のホームページを検索した。すぐに公演予定の情報が見つかり、そこにオペラ「フィガロの結婚」の日程を見つける。
 別の世界へのチケットは、思っていたより安かった。五回公演があるうちの最終日、オーケストラピットがよく見えるバルコニー席を選び、クレジットカードでチケットを購入する。
——よし。行くと決めたんだから、少なくともこの日までは、似合わないことであれこれ頭を悩ませなくて済む。
 ここまでくると、半ば諦めにも近い。
 好奇心にも似た御し難い感情が、フランツの中で小さく渦巻いていた。
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