彼方からの旋律に耳すます夜は

青猫

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 彼女はその最中ほとんど声をあげなかった。フランツが聞いたのは、彼女の呼吸の乱れと、かすかに漏れ出た細い啼き声だけだ。なのにそれはひどく雄弁で、細い肢体が熱を上げ、しなやかに捩れ、強張って脱力する様は、普段こういったことには淡白なフランツを荒々しい衝動に追いやった。
 そして今、彼女はこの腕の中で眠っている。異質な存在であるはずなのに、フランツのごく個人的な空間である寝室に、不思議とよく馴染んでいるように思えた。
 身体をわずかに丸めて横になる彼女は、寝息さえ徹底したように静かだ。暗闇に慣れた目で、フランツはその寝顔を観察した。
 誰しも、眠っている最中の表情というのは、無防備なものだろう。けれどリサの伏せられた瞼、軽く引き結んだ唇、縮こまるような細い肩は全て、「独り」を背負いこんでいるように見えた。
——こんなことを思うなんて、どうかしている。
 だが、その「どうかしている」状態が、この歳で陥ってしまったものに違いなかった。
 枕の上に渦巻く柔らかい彼女の髪にそっと鼻を埋めると、甘い眠気に誘われ、そのまま眠りの淵に落ちた。


 ふと、かすかな気配を感じて、フランツは目を覚ました。
 反射的にベッド横にある時計を確認すると、あれから数時間ほどしか経っていない。身体の中には、快楽の後の心地よさと、誰かと眠るわずかな緊張感が、奇妙に混ざり合っている。
 フランツが暗闇の中で目をこらすと、リサが慎重にベッドから抜け出そうとしていた。
「リサ?」
 細い手首を捕まえる。
「あ……ごめんなさい。起こさないようにしようと思ったのに」
 なぜか、交わす言葉はささやき声になる。
 リサはするりとフランツから手を抜いて、手早く下着や服を身につけている。
「寝間着になるようなシャツ、貸そうか」
「あ、いえ。帰るので」
 フランツは眉を寄せて、肘をついて起き上がった。
「帰る?」
「はい。すみません、寝こけてしまって」
 いや、何を謝っているのだ? しかもこれから帰る? フランツは眠気を振り払って、突然のこの展開に必死について行こうとした。
 彼女はもう帰ろうとしている。確かに同じアパートで、夜道を歩くわけでもないし、なんの不都合もないが。
「僕は、君と朝まで一緒に寝るんだと思ってた」
「……」
 彼女の表情にあるのは、わずかな驚きだ。その発想はなかった、というような。
「えっと……でも、長居したら、迷惑じゃ」
「迷惑なんかじゃないよ。こんなあからさまな行為した後に、なんでそんな遠慮するの?」
 あからさまな、と彼女はフランツの言葉を繰り返して、頬を押さえた。先ほどの情事を思い出したのだろうか。彼女は困ったように髪をいじり、また「でも」と言う。
「私の部屋、すぐ下だし。誰かと眠るのって……慣れてないし」
 確かに、普段はフランツだって独り寝の方が慣れていて、熟睡はできるだろう。だがそういう合理性の話なのだろうか。先ほどまでの幸福感を台無しにして、彼女は何のつもりなのか。
 少し腹が立ってきた。
「僕は、そういう慣れないことも含めて、楽しいと思ってたんだけどね」
 彼女は途方にくれたていた。だがフランツもこの状況に困惑している。そして少々、自棄になっていた。
「でも、君がそうしたいなら止めないよ。帰るなら、玄関まで送る」
「……はい」
 二人で立ち上がって、寝室を出る。先ほどまであった温もりや安らぎは、どこかに消え失せてしまった。
 もう少し強引に引き止めるべきだろうか。明日は日曜日だ。また一緒にどこかに行こうと誘って、約束を取り付けようか。
 そんなフランツの葛藤にさえ気がついていないのか、彼女はするりと玄関の扉をくぐり、あっさり離れて行った。
「じゃあ……おやすみなさい」
「……おやすみ」
 足音も密やかに、リサはアパートの階段を下りていく。
 フランツは扉を閉めてから、深々とため息をついた。

 翌朝。フランツは珍しくだらだらとベッドから出られずにいた。
 本格的に起きてしまうと、昨夜のことを悩まなくてはならない。だが結局、無理に眠りにもしがみつけず、ある時点でのっそりと身体を起こした。
 寝室の小さな窓に雨粒がぱらぱらと落ちている。外を見ると、街路樹の枝が大きく揺れていて、今日の天気は春の嵐のようだ。
 ざっとシャワーを浴びてから、キッチンに行く。お湯を沸かしてコーヒーにしようかと思ってると、その時、ピアノの音が聞こえてきた。
——やはり、強引にでも引き止めるんだった。
 ピアノの音で遠く彼女の気配を感じ、ここにその存在がないことがますます不自然に思える。あんな何度もキスを交わし、肌を重ね合わせた後だからこそ、なおさらだ。
 それにしても、彼女のあのアンバランスさは一体何なのだろうと、フランツは頭を悩ませる。
 手を差し出すと素直に喜ぶのに、一人で完結しているような雰囲気もある。物怖じしないで人の懐に飛び込んでくるかと思えば、次の瞬間にはするりと距離をとる。
 ふと、昨夜の情事の中で、彼女がなんの躊躇もなく口でしようとしたことや、その際に彼女が言った「頭を押さえないで欲しい」という言葉がよみがえった。そして事後に、一緒に朝まで眠るという発想がなかったことも。
 そこに、彼女が今まで異性からどんな扱いを受けてきたか、透けて見えるのは気のせいだろうか。
 下の階から漏れ聞こえてくるピアノの音は、断続的に途切れたり、唐突に曲を変えたりと、いつもと様子が違う。彼女もあれこれ心が散らかっているようだ。
 フランツはその様子に耳を傾けながら、冷蔵庫を開けて卵とミルクを取り出した。

 同じアパートの、しかも一つしか階が違わないというのは、便利なものだ。できたてのフレンチトーストを皿に乗せ、フランツは彼女の部屋の呼び鈴を鳴らした。
 ピアノの音はピタリと鳴り止み、扉越しにドタバタとした気配が伝わってくる。
「僕だけど。これ、また押し売り。朝ごはん」
 ドアスコープに皿を掲げてみせると、すぐに内側から扉が開いた。
 リサはぱちくりと目を見開いている。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
「ピアノ弾いてる最中にごめんね。でも聞いてると、あまり集中してる感じもしなかったから」
「……よく分かりましね」
「まあ、なんとなくね」
 そしてフランツは、バターたっぷりのフレンチトーストの皿を彼女に差し出した。
「一緒に食べない?」
 こくりとリサの喉が動く。
「食べたい、です」
 そしてフランツは半ば強引に、リサの部屋に足を踏み入れた。

「インスタントコーヒーしかなくて」
「大丈夫だよ。最近のインスタント、ちゃんと美味しいよね」
 リサの部屋では、キッチンと居間には仕切りがなく、間にある小さなテーブルの上では空のグラスや板チョコ、楽譜がそのテリトリーを主張し合っている。それらを一気に別の場所に除けて、彼女はフレンチトーストとコーヒーの場所を空けた。
「ごめんね。押しかけたみたいにして」
 フランツは一応そう謝った。
「あの……私も、すみません。昨日、あの後……」
 リサはフレンチトーストを切り分けながら、言葉を探していた。フランツは助け舟を出す。
「誰かと眠るの、苦手?」
 彼女は俯いてしまう。
「苦手というか、誰かのベッドに一晩居座るのって、いけない気がして。男の人って、いつまでもベタベタするのとか、嫌がるじゃないですか」
「……その「男の人」って、誰か知らないけど。その男が君に教えたことは、忘れた方がいいよ」
 オーラルでの行為で、女性の頭を抑え込む。やることやったら、さっさと帰ってほしいと、冷めた態度をとる。
 そうやって彼女が扱われたのかと思うと、フランツの心に怒りともつかない黒いものが滲んだ。
「怒ってるんですか?」
 怯えたような彼女の声に、はっと我にかえった。
「いや。ただ僕としては、素敵な女性とああいうことをする醍醐味っていうのは、翌朝の……」
 自分が何を口走っているのか自覚して、フランツは手に持っていたナイフとフォークを投げ出して、手のひらで目を覆った。調子が狂いっぱなしだ。
「何言っているんだ、まったく……。僕、こんな恥ずかしい男だったかな。なんか君といると、いろいろ露呈してしまう」
 しばらく二人はどうしようもなく黙り込んで、窓に当たる強い風の音を聞いていた。リサはのろのろとトーストを口に運び、フランツは苦し紛れにコーヒーを飲み干したりする。
 最初に口を開いたのは彼女だった。
「私、人との距離感がよく分からなくて。長年通ってるカウンセリングでは、苦しいからって、異性と軽率に関係もったり、依存してはいけないって言われてて」
「僕たちのこの関係って、軽率なの?」
 彼女が首を振ったのを見て、少し安堵した。
「それに、依存ってのは難しい言葉だね。僕は単純に、君が好きで、もっと一緒にいれたらいいなと思ってるけど。君は違うの?」
 彼女はふと顔を上げて、見開いた目でこちらを見返してきた。単純な解に気がつかなかったとでも言うように、ぽかんとしてる。
「私も、そう思います」
「ならよかった」
 二人の間にあった拗れたものが一気に ほどけた。後に残ったのは、お互いの照れ隠しのようなぎこちない微笑みだ。
 フランツは今まで耐えていた、彼女の寝癖を撫で付けたいという衝動をやっと自分に許した。
「あ……。あの、いつもそうなっちゃうんです。変にうねって」
「手触りが柔らかくて好きだな」
「……」
 逃げるように、リサは残りのフレンチトーストを切り分けてもぐもぐ咀嚼する。
 その時、いっそう強い風が外で吹き荒れ、二人は揃って意識をそちらに向けた。風に飛ばされた小枝が窓に当たって、雨粒が断続的にざあざあと音を立てる。
「今日は、外には出かけられないですね」
「前倒しなんて言ってたけど、昨日のうちに一緒に出かけられてよかった」
 今日は一緒に何をしようか。そんな疑問が二人の間に浮かんでくる。
「そういえば、君のピアノ、ちゃんと聞いてみたいな。漏れ聞こえてくるのしか知らないから」
 そう言いながらフランツは席を立って、この部屋を改めて見渡してみた。彼女のアンバランスさが、そのまま部屋の様子にも表れている気がする。家具は不揃いで、物は少なく、ピアノの周りには本や楽譜やノートが積み重なっている。
「私のピアノでよければいくらでも弾きますけど、どんなのがいいですか? バッハとか、ベートーヴェンとか、あんまり難しいのは練習しないと」
「君の曲は?」
 フランツが尋ねると、リサは楽譜を漁る手をふと止めた。彼女の視線は、ある段ボール箱に向けられている。それを覗き込むと、大量の手書きの楽譜が入っていた。
「これ、全部自作?」
「駄作ばかりなんです」
 フランツにはよく分からないが、見るとオーケストラ編成で演奏されるような厚みのある総譜や、ピアノソロの楽譜もある。
「この中から何か聴きたいな」
「じゃあ適当に……」
 彼女はひょいとその中から一冊の五線紙ノートを取り出し、譜面台に広げた。ピアノの椅子に座り、鍵盤に指を走らせ、前触れもなく唐突に演奏し始める。
 フランツはすぐに、その曲が聞き覚えのあるものだと気が付いた。つい最近、彼女が試行錯誤して何度も奏でていたメロディーだ。しかし下の階からくぐもった漏れ出る音と耳にするのと、実際目の前で演奏されるのを聴くのでは、全く次元が違った。
 耳に心地いい旋律が、現代的で少々奇抜な和音の中で繰り返し鳴り響く。また椅子に腰を下ろしたフランツは、いつの間にか圧倒されて背もたれに背中を押し付けていた。
 リサは次第に音の世界に集中を深くしていき、フランツの存在さえ忘れてしまったように、ピアノを弾き鳴らしていく。メロディーは多声的に重なり合い、変容して、急流のようにうねり渦巻いて、まるで魔術か何かのようだ。
 どれだけの時間だったのか、曲が終わり、くるりとリサがこちらに振り向いた。
「お口に合いましたか?」
 供した料理が気に入ったか尋ねるように、リサはそう言った。さっきまでの、魂までをも全て音に注いでいたような表情は消え、こちらの反応を伺っている。
 フランツは何か気の利いた感想を言おうとしたが、彼女の音楽に触れたこの心境を、とっさに言葉には変換できない。
 彼女の、力強くピアノの鍵盤を行き来していた手を捕まえて、フランツはその指先に接吻した。

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