彼方からの旋律に耳すます夜は

青猫

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 口の中に砂が入ったような不快感。そこに得体の知れない恐怖も混じっている。
 理由はわからないが、人の多いところに戻った方がいい気がして、リサはパーティー会場にまた足を踏み入れた。そして恐る恐る、後ろを振り返る。
 トーマス・クロイツの姿はなかった。追いかけてこられたらどうしようかと思ったが、一応ほっとする。
——どうしよう……。つい感情的になって、もうカウンセリングに行くのやめるなんて言っちゃった。
 今までもカウンセリングでは葛藤の連続だったが、パニック障害の治療として過去の傷をさらけ出し、それについてじっくり話し合うことについては根気強く取り組んできた。なのに、フランツとの関係についてトーマスに言及されると、リサの中の何かが過敏に反応してしまう。
——『感情的になるということは、ある種の防御反応なんだよ。正論で痛いところを突かれたり、時にはその話題に触れただけで、人間はそういう反応をする。逆に考えれば、そこを冷静に掘り下げて考えると、問題点が見えてくる』
 脳裏によみがえったのは、カウンセリングで何度かトーマスが繰り返した言葉だ。
——この恋愛に何か問題があるってこと……?
 リサは途方に暮れて、会場の真ん中で立ち尽くした。
 その時、人のざわめきの中から聞き慣れた声が耳に届いた。
「あれ、戻ってきてたの?」
「……先生」
 少し離れたところから、フランツがこちらにやってきた。
「もう少し書架のところにいると思ってた」
「そうしようと思ってたんですけど」
 カウンセラーに偶然会って、と説明しようとしたところで、トーマスとの喧嘩別れのような状況をここで説明するのは気が引けた。
 見ると、フランツは今までいた男性数人のグループの方に振り返っている。その壮年の男たちも、物珍しそうにこちらを見ていた。フランツの仕事関係の人たちだろうか。
「彼ら、僕もさっき学長に引き合わされたんだけど、映画関連の人たちなんだ。ドイツ叙事詩を映画化をするらしくて、今、監修を打診されそうな雰囲気で」
「え、すごい。すみません大事な時に。じゃあ私、向こうに行ってます」
「こういう時は同伴者も紹介するのが普通でしょ。おいで」
 手を引かれると、もう逃げられなかった。初対面の男性陣の前に連れてこられる。そこにはそれぞれ三十代から五十代くらいの男が四名いた。彼らから一気に視線を向けられ、リサの緊張感が高まる。
 フランツの「僕の同伴者です」という紹介に続いて、リサは自分でフルネームを名乗った。それぞれの男も自己紹介をして——映画監督、プロデューサー、脚本家、エージェントという、いかにも映画業界らしい小洒落ていてクセのありそうな男たちだ——握手を交わす。
 男たちは交互に話しかけてきた。
「シライ、さん? 珍しい名前だね。移民二世?」
「えっと、母方がアジアのルーツで」
「へえ、エキゾチックだね。ヴェングラー教授にこんな美しいお連れがいたとは」
「君は教授の元生徒か、それともアシスタントとかなの?」
「ま、まさか。私は全くの部外者で、この大学に足を踏み入れたこともほとんどなくて」
「そうなの? さっき教授のことを先生って呼んでたから、てっきり」 
 なんとなく腰が引けてきたリサを支えるように、さりげなくフランツがすぐそばに立ってくれた。
「彼女は市民劇場で作曲家として働いているんですよ」
 フランツのその言葉に、男性陣の目の色が少しだけ変わった。同じ創作分野に携わる人間の親しみのようなものと、ちょっと値踏みするような雰囲気が混ざり合う。
「ああ、あの小さな市民劇場ね。時々街中で公演情報のポスターとか見かけるかな。作曲って、新作劇とかに使われる曲を書いてるの?」
 なんとなく面接みたいだな、と思いながらも、リサはここは丁寧に説明するべきだろうと思った。映画関係者というのは、いつも周りの演劇情報などにアンテナを張っているものだ。それはテレビ局に勤めていた経験からよく知っている。
「私の作曲家としての仕事は、市民劇場で上演されるオペラなどの編曲が主です。古典とされる作品でも、新しい演出で楽器編成を変えたりするので。自作のオリジナル曲は、仲間内での小さなコンサートでしか発表の場がなくて」
「え、そういうコンサート、あるの?」
 そうやって食いついてきたのは、なぜかフランツだった。リサは隣に立つ彼に一つ頷く。
「市民劇場のオーケストラの仲間が定期的に、サロンコンサートを自主企画してて。内容はクラシック音楽がメインですけど、新曲として私の作品も弾いてもらってるんです」
「なんでそういうことはやく言わないの。次のコンサート、いつ?」
 なぜか他の人を置いてけぼりにして、フランツとリサの間で言葉が飛び交う。
「ええっと、一番近いのは再来週です」
「どうしてそういうこと黙ってるかな」
「黙ってたわけでは……。コンサートといっても、喫茶店でやる小さなものですから」
「君の曲が聞けるなら、会場の大きい小さい関係ないよ。まったく、僕が君の大ファンだって知ってるくせに」
「え……。ファン、なんですか?」
 フランツは眉間に皺を寄せる。
「伝わってなかった?」
 そこで他の男性陣が笑い声をあげた。このやり取りが面白かったのだろうか。リサとフランツは我に返って、俯いたり頬をかいたりする。
「ヴェングラー教授、堅そうな方だなと思ってたけど、面白いですね」
 少し太り気味の映画監督が大きな地声で笑いながら言う。いかにも業界人の、押し出しの強そうな男だ。彼はリサにも笑いかけ「よければ俺にもコンサート情報ちょうだいよ」と名刺を差し出してきた。
 もちろん社交辞令だろう。この監督がわざわざ、無名の作曲家の曲を聞きにそこらの自主企画のコンサートに来るとは思えない。けれどリサは丁寧にお礼を言ってその名刺を受け取り、連絡することを約束した。
 それから男性たちは最近の映画の批評や、今から自分たちが作ろうとしてる映画の話題に移った。
 どうやら彼らは、ドイツ叙事詩による古い物語「ニーベルンゲンの歌」を映像化しようとしているらしい。フランツはそれに対し、あまりにも複雑な物語で映画にはむかないのでは、というような姿勢だが、脚本家は「だからこそ教授の力を借りたいのです」と説得しようしている。
「一応、あなた方の企画の趣旨はわかりました。ですがこのパーティー会場ではなんとも言えません。また後日、ご連絡をいただいても?」
 フランツはそう言いながら、リサの腰に軽く手をまわした。そろそろ連れと次の予定があるから、というような空気をやんわり出している。
「ええ、もちろん。またお伺いします。この監修の件、ぜひ前向きに考えてみてください」
 一番ビジネスライクな態度のエージェントが、「お時間を取らせました」とお礼を述べ、この場に区切りがついた。
 フランツとリサは一緒にそこから立ち去り、ケータリングがある場所に向かおうとする。しかしその瞬間、ふと耳にあの監督の声が切れ切れに届いた。野太いようなその声は、きっと本人が自覚する以上に、人ごみでもよく通るものなのだ。
『感触としては案外……でもない……。彼女……トロフィーワイフって……』
 フランツがピタリと足を止め身体を強張らせ、振り向こうとする。リサはとっさに彼の腕にしがみついて、それを止めた。
「せんせ……フランツ。ダメです」
「……あの男」
 怒りを滲ませたフランツの声は、底冷えするように低かった。
 トロフィーワイフとは、社会的地位の高い男性が、若く容姿がいい女性を妻にすることだ。総じて「男は年収、女は若さ器量」という価値観を揶揄する意味合いもある。
 立派な文学教授に、無名の作曲家の小娘の組み合わせ。リサは「パトロンとしての夫を得ようとする女」に見えてしまったのだろう。
 こういう陰口のようなものに反応してはいけないと、リサはよく知っている。「みっともない茶髪」「変な日本語」「いつも独りで寂しい子」「いきなりパニックになるから関わらないほうがいい奴」。それらを聞こえないふりをしてやり過ごしてきた。そこに「トロフィーワイフ」なんて言葉が加わっても、大したことはない。
「行きましょう、大丈夫です」
 リサは頑なに前を向いて、足を進めようとした。
「こういう侮辱をそのままにしちゃいけない」
 リサの制止を振り払って、彼はあの男たちのところに戻ろうとする。自分のせいで、問題が起きてしまう。そんなのダメだ。
「っ……お願いです。行きましょう。こんなこと、なんでもありません。忘れましょう」
 フランツはリサの必死な様子に気がついてハッとなり、やっと怒気を弛めてくれた。
「リサ……」
「外の空気吸いに行きましょう。ちょっと、人ごみに疲れちゃいました」
 リサの肩に彼の手がまわって、その優しい力加減にほっとする。二人は人を縫って歩き、真新しい図書館の外へ出た。

 春から夏への移り変わりの季節。日中は汗ばむこともあるが、夜はすうと寒いような気温になる。新築の図書館の外にある、まだ土に完全に根付いていない芝生や花壇が、その冷たい風に揺れていた。
 その場所にベンチを見つけ、二人は一緒に座り込んだ。
「ごめん」
「ごめんなさい」
 同時に謝罪を口にして、顔を見合わせる。
「君が謝ることなんて何もないでしょう」
 フランツにそう言われて、リサはゆるゆると首を振った。
「私が早く戻ってきちゃったから」
「むしろ助かったよ。ああいう奴らなんだって、君のおかげであっさり透けて見えた」
 また夜風が吹いて、リサは思わずふるりと身体を震わせる。それを見てフランツはスーツのジャケット脱いで、肩にかけてくれた。
 彼の香りに包まれて、やっとほっとする。
 カウンセラーと偶然会って、何かを逆撫でされたような心地になり、感情的にそこから立ち去って。今度はすぐに、おすましして初対面の男たちと会話をし。そして陰口のような言葉に怯んで、こうして喧騒から離れた場所でやっと一息ついている。やはり対人のあれこれは、自分にむいていない。
「やっぱりこういう場は、僕にはむいてないな」
 たった今自分が思ってたこととまったく同じようなことを、ぼそりとフランツが吐き出した。リサは思わず乾いた笑い声をもらしてしまう。
「よし、何か口直ししよう」
 ふいにフランツが立ち上がった。
「口直し?」
「そう。いいレストランがあるから。今、席がとれるか確認する」
 思い立ったらなんとやらなのか、フランツは携帯を取り出してどこかに電話し、二人分の席があるかを尋ねている。
「今ちょうどテーブルが空いたって。行こう」
「え、今からですか?」
「失礼な奴らのことはさっさと忘れたいし。ケータリングの食事もワインもいまいちだったし。それに、綺麗な君をもうちょっと堪能したいから」
 それとも疲れてる? と訊かれ、「大丈夫です」と答えた。リサも、普段とは少し違うこの夜をもう少し楽しみたいという欲がある。
 二人はパーティーから逃げるように大学を出て、道でタクシーをつかまえた。
 
 そこは街中の比較的落ち着いた地区にあるフレンチレストランだった。
 リサも店の名前だけは知っていた。時々地元マガジンなどで話題になるし、この地方では珍しく世界規模の料理評論家からも絶賛され、看板には星がついている。
 つまりこの街の政治家や業界人、ちょっとしたアッパークラスの人々が常連の店なのだ。
「いいんですか、こんな……」
「実はここのシェフとは旧友なんだ。僕の趣味の料理は彼の影響でね」
 つまりフランツがリサにしてくれた料理は、ここのレストランと同じレベルということなのだろうかと、頭がグルグルしだす。
「せっかく今日はおめかししてるんだから、こういう店もいいでしょ」
「あの、でも私、マナーとか」
「普通に食べればいいんだよ」
 そんなことを小声でやり取りしてる間に、テーブルに着いてしまった。
 綺麗な手書きのカリグラフィーのメニューに目を白黒させてしまう。シックな店内の様子や、テーブルの上のキャンドルはなんだか雰囲気満点だし、その光に浮かぶ彼の銀の髪とかに、なんだか宙に浮いたような心地になる。
 悩んだ末にリサは鯛のポワレ、フランツは鴨のコンフィとシャルドネを注文した。そして動きに無駄のないウェイターが、白ワインの瓶とグラスを運んでくる。
「今日、ありがとう」
 ワイングラスをカチンと合わせる時、フランツが簡潔にそう言った。
「ごめんね、つまらないことに引っ張り出して」
「いえ。楽しかったです」
「嘘だね」
「本当ですよ。二人で本を見てまわった時、楽しかったもの」
 何かまぶしいものを見るように、彼は深く椅子に腰掛けたまま薄く笑って目を細めた。
 それから二人は、あの図書館での本棚の合間にあった会話の続きをした。リサは尊敬する作曲家の魅力を話し、フランツはドイツの詩人と歌曲の密接な関係について語る。二人の間で知っていることと知らないことが交換され、それは料理が運ばれてきても中断はされなかった。
 繊細な味の料理とワイン、そして穏やかな会話は相性がいい。リサはほとんど、今日あった嫌なこと——トーマス・クロイツとのやり取りと、耳が拾ってしまった「トロフィーワイフ」という蔑み——を忘れかけていた。それだけ、フランツとの時間は心地よかったのだ。
 なのに今日はそういう楽しい時間に、とことん水を差される日らしかった。
「あら、リサ?」
 その甘ったるい声。リサは振り返る前に、それが義母のダニエラのものだと気がついていた。
 そこにはダニエラだけでなく、父のヘンリーと、半分血の繋がった弟のクラウスもいて、三人ともリサの存在に目を丸くしていた。どうやらこの家族三人は奥の席で食事をし終え、帰るとこでこちらに気がついたらしい。
「リサ、まあ、こんなところで会うなんて! あらなに? すごく素敵なドレス! 着飾ったあなたとこのお店で偶然会うなんて、びっくりだわ」
 ダニエラがまくし立てる。
 普段から特に仲が良いわけではないが、無下にもできない家族の出現。まったく無防備だったところに、思わぬ難題が降ってきたようなものだ。リサとフランツは動揺しつつ、挨拶のために席を立った。
 父も弟も、そして義母も、リサと一緒にテーブルに着いていたフランツに戸惑いの目を向ける。
「あ、の。私の父と、母と、弟です」
 まずリサはぎこちなく家族をフランツに紹介した。そして一度固唾を飲んで、勇気を振り絞る。
「彼は……フランツ・ヴェングラーさん」
「仕事の上司の方かな?」
 その父の問いかけは、リサの言葉に被さるようだった。まるで、すでにある予感がどうしても認めがたいとでも言うように。
 リサは首を振った。
「お付き合いしているの」
 そしてフランツは「こんばんは」と挨拶し、手を差し出した。まずその手をとって握手したのはダニエラだったが、笑顔が固まっている。
 そして完璧に紳士の態度のフランツは、父のヘンリーにもその手を伸ばした。
「はじめまして。ヴェングラーです」
 しかし、その手は握り返されはしなかった。
 リサは父の冷たい表情を見て、彼の怒りを悟る。いつもこうだ。普段は父のことなど何一つわからないのに、彼の怒りだけは常に読み取れる。
「リサ、来なさい」
 突如ヘンリーはリサの手首を掴んで歩き出そうとする。
「っ、待って」
 リサの反対の手がフランツに捉えらえ、引き止められた。
「あの、彼女とどこへ? 僕たちはまだ食事の途中で」
「娘と話すことがあります」
 それだけで説明は十分だという父親と、表情を強張らせたフランツの間で、リサはうなだれる。
「あの、ちょっと待っててください。すぐ戻ってきます」
 大丈夫だから、とフランツに微笑んでみせると、彼は人目のあるところで変な揉め事をするべきではないと判断したらしい。リサの手を放してくれたが、それでも何か諦めきれないような焦燥を滲ませていた。
 そしてリサは父親に、入り口付近のクロークがある物陰まで連れて来られた。
「家族三人での食事だったの?」
 リサが尋ねると、父は「ああ」と無機質に返事をした。
「クラウスの小論文が表彰されたんだ。ダニエラがお祝いはここがいいって言ってな」
「そう」
 完璧な家族。社会的地位のある父、家族愛がある母、優秀な息子。三人で食事していた高級レストランが、父親の連れ子のデート先とかぶるとは、異物が混じったような感覚だろうか。
「あの男は」
「彼の名前はフランツ。さっき紹介したでしょ」
「……どうでもいい。お前、あんな男と、いったいどういうつもりだ」
 ピンヒールをはいた足が小刻みに震える。それを隠すように、リサはふてくされたような態度の姿勢をとって、腕を組んだ。
「どういう、って? それもさっき言ったでしょ。しかも、あんな男って失礼な言い方しないで。フランツは大学の教授で」
「こんな格好して、あんな年齢の男と一緒に高級レストランに来て。いったいどういう交際だ? まわりからどんな目で見られると思う?」
 リサは目を見開いて、あっけにとられて父を見上げた。今までも何度か言い争いはしたが、これほどまでに父の言葉を理解できないのは初めてだった。
「な、なに言ってるの?」
「もうずっと前から、お前とはいろんなことが食い違ってきたし、それは親としての私の責任だ。けど、これはなんだ? あてつけのつもりか?」
「あてつけ?」
 もう何が何だかわからない。しかし父はさらに怒りを募らせていた。
「あんな、父親とほとんど同じような歳の男と付き合って、あてつけじゃなければ何だ? 普段の生活や仕事でもまともじゃないお前が、これじゃますます、」
「まとも? なに言ってるのお父さん?」
 リサの中の何かが、突如限界を迎えた。導火線に火がついて全てが吹き飛んで、衝動のまま言葉が溢れ出す。
「私がまともなわけないじゃない! だって最初っからいらない子供なんだから! お母さんを苦労させて死なせて、お父さんにとっては汚点でしかない私が、どうやってまともでいられるの?」
 父は怯んだように硬直していた。リサは行き場のない拳を握りしめ、頬の涙を拭う。
 その時、その拳がふわりと何かに包み込まれた。
「リサ。もう行こうか。途中だけど、もう会計してしまったし」
 いつの間にかそばに来たフランツが、リサの力の入りすぎた指をほぐしている。
「今日は、ここまでにした方がいいと思います。もし機会があれば、後日また」
 フランツのその言葉に、追いついてやって来たダニエラがおろおろしながら「そうね」と何度も頷いて、クラウスは痛々しげにリサに目を向けていた。父のヘンリーは、その場で立ちつくしている。
「行こう」
 そう言ってフランツはリサの手を引く。とぼとぼと足を進め、リサはその店を後にした。
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