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第三十三話④『家庭』
しおりを挟む兜悟朗は嶺歌に接触する前に、嶺歌に関する情報を調べていた。
調査の際に嶺歌の家庭環境の事は絶対に知っていた筈だ。しかし彼には家庭環境に関して一度も言及された事はなかった。
調べれば簡単に分かってしまうようなこの情報を、兜悟朗も形南も嶺歌に向けて話題にして触れてきたことはなかったのだ。
それは二人の心遣いがどれほどのもので、二人がよく出来た人間であるのかを表していた。あえて口にしてこなかったのだと、今思うとそう納得する事が出来る。
それはきっと同情心からではなく、兜悟朗と形南自身が触れる必要のない話題として触れてこなかったのだろう。
嶺歌はその事に今更ながら気が付き、じんわりと胸の奥が再び熱くなるのを感じていた。
「和田、加藤。この者を今すぐ敷地の外へ」
兜悟朗のその声で嶺歌はハッと我に返る。
途端に兜悟朗の背後にいたらしい二人の執事が子春の両脇を抱えて彼女を強制的に退場させていく。
子春は焦った様子で「宇島先輩っ! 申し訳ありません! ですが私はっ……!!!」と必死に声を上げていた。
だがその声に彼女を連れていく二人の執事が足を止める事はなく、そのまま子春は雄叫びのような声を発しながら部屋の中から消えていく。
「嶺歌さん」
子春の声が聞こえなくなると兜悟朗は直ぐに嶺歌の方へ足を動かし、こちらの名を呼んだ。
「この度は誠に申し訳御座いません。謹んでお詫び申し上げます」
そう言って彼は丁重に頭を下げてくる。彼が謝る必要などどこにもないと言うのに、兜悟朗は自分の犯した失態のように深い謝罪を嶺歌に向けてきていた。
先程までの彼の様子とは違って今の兜悟朗はいつもの優しくて柔らかな雰囲気を放つ彼へと戻っていた。
それに気が付きながら嶺歌は顔を上げてくださいと言葉を返す。
「あたしは大丈夫です。それより、どうして分かったんですか?」
兜悟朗が偶然にも話を聞いていたとは考えにくい。何故ならこの部屋は完全な防音室となっている筈で、扉は確実にしっかりと閉ざされていたのだ。
扉の目の前に立ち、声を張り上げていれば少しくらい声は聞こえるだろうが、子春は形南の部屋のど真ん中で言葉を発していたため聞こえていたとは考えられないのだ。
その他にも、子春の発していた言葉は決して大きな声ではなかった。ゆえに聞ける訳がないのだ。子春もそれを分かった上であのように人目を気にせず言葉を放てたのだろう。
それに兜悟朗が偶然こちらに来たとしても、礼儀を事欠かない彼なら必ずノックをしてから中に入る筈だ。だが今回兜悟朗はノックもなしに部屋に入ってきていた。
それはまるで中で何が起こっているのかを知っているかのような行動に思える。
すると兜悟朗は薄く笑みをこぼしながら嶺歌の疑問に答え始めた。
「重ね重ね申し訳御座いません。専属メイドの試用期間時には、必ず内密にこのような盗聴器を衣服に忍び込ませております」
そう言って兜悟朗は小さな盗聴器と呼ばれたそれを手に取り嶺歌に見せてきた。
それはあまりにも小さく、万が一床に落としてしまえば探すのが大変そうな程に繊細なものだった。部品の一部だと言われても納得してしまうだろう。
兜悟朗はそれを子春の衣服に入れて彼女が本当に専属メイドとして相応しい人物であるのかを審査していたと言う。
それは子春に限らず、専属メイドを申し出た全てのメイドに仕込んでいたものであるのだと補足の説明もしてくれていた。
「目に見える範囲でしかその人物の把握はできません。心からの忠誠を誓って形南お嬢様にお仕えしているのかを判断するにはこちらが有用なので御座います」
それはメイドに限らず執事の試用期間の際にも行われる事のようで、高円寺院家の従者となる者は皆必ず通る道なのだと兜悟朗は告げる。
つまり専属メイドになるには表上だけでなく、裏面も美しく綺麗な心を持った者のみが初めて高円寺院家の従者として仕える事ができるという事だ。
だからこそ、形南の周りにいる従者達は皆、洗練された丁寧で律儀な人物ばかりなのだろうと嶺歌は一人納得をした。
すると兜悟朗は再び口を開き始める。
「ですから村国の音声から嶺歌さんに攻撃的な発言をしている事態を知る事が出来ました」
子春は盗聴器があるなど思いもしなかっただろう。嶺歌以外誰にも聞かれてはいまいと疑う事なくあのような発言を繰り出したのは間違いないようだった。
そう考えていると兜悟朗はもう一度こちらに頭を下げて謝罪の言葉を口にした。嶺歌は何故もう一度謝ってくるのか分からず困惑の声を上げる。
「村国の言葉だけではなく、嶺歌さんのお声も耳にしてしまいました。聞かれたくないであろう事柄を、僕は聞いてしまったのです。どうか、お詫びさせて下さい」
兜悟朗は嶺歌の先程の発言も全て耳にしていたようだ。それ自体は構わない。
それに彼に聞かれていたとしても困る事などない。だが一つだけ、今回の件に関して嶺歌にも願いたいことがあった。
「兜悟朗さん」
嶺歌が尚も頭を下げ続ける兜悟朗の名前を呼ぶと、彼はゆっくりとこちらに顔を向ける。
そんな彼と視線が合い、嶺歌はそのまま続けて言葉を発した。
「聞かれていた事は全然気にしていません。ただ……」
「あたしは自分の家族の事を恥ずかしいとは思いません。母さんはあたしと妹を育てるために収入の良い仕事を選んで必死で働いてましたし、娘を二人育てるためにお義父さんと再婚した事も凄く賢い生き方だと思います。あたしはそんな親に誇りも持ってますし今の家族が好きです。だからあたしが自分を不幸な人間だと思っていると思わないでいただけると助かるっていうか……」
嶺歌はそう言って地面に視線を移す。
下を向いて会話をするのは初めての事だった。自分はいつだって誰に対しても前を向いて会話をしてきたつもりだ。
だがそれは、今回の騒動のせいなのか気持ちが沈みかけている自分がいるせいなのか、兜悟朗の目をうまく見れないそんな自分がいた。
そのまま言葉に詰まり、沈黙に陥ると数秒の間を置いてから兜悟朗の一声が、嶺歌に向けられた。
「貴女様がご自分を不幸だと思われていると感じた事は御座いません」
next→第三十三話⑤(8月5日更新予定です)
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