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第四章 軍師の鳩
第18話 旨い魚
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すでに述べたように、速吸之門は九州佐賀関と四国佐田岬によって挟まれた幅三里余(約十三キロ)の狭い海峡である。
北からは瀬戸内海の波、南からは太平洋の波が押し寄せ、古来多くの海難事故があったことで知られる。
前方のうねりに気を取られていると、突然背丈ほどもある白波が後ろから襲ってくる。
『日本書紀』の一書に、「伊弉諾尊が妻の伊弉冉尊を追って黄泉の国を訪れたあと、穢れを濯ごうとして阿波の水門(鳴門海峡)と速水名門を見た。ところが流れが余りにも速いので橘の小門(博多湾と考えられる)で濯ぎをした」と記されている。
速吸之門が海の難所と呼ばれる理由は波だけではない。
大きな渦もまた非常に危険である。
水深の浅い海底に馬の背のような海底山脈がうねうねと走り、そのうねりに海流がぶつかって複雑に変化し、大きな渦を発生させるのである。
ひとたび渦に巻き込まれたら、逃れる術はない。
こうして古から多くの舟乗りたちが海の藻屑と消えていった。
磐余彦たちが乗る舟が海峡の中ほどに差し掛かったころ、にわかに厚い灰色の雲に覆われ、ほどなく大粒の雨が降ってきた。
「早く水をかき出せ。沈むぞ!」
「そっちこそしっかり漕げ!」
怒号が飛び交う中、皆が必死で櫂を漕ぐが、雨足は強くなる一方である。
船頭の隼手は顔面蒼白で顔をしかめるばかりだ。
隼手は眉を寄せると一本の太い筋のようになり、ぎょろりとした目を覆い隠す。古くから日本列島に住み暮らした人々特有の顔立ちである。
隼手は自ら水先案内人を買って出るくらいだから、操船にはそれなりの自信があった筈だ。
ところがこの海峡は、慣れ親しんだ日向の海とはまるで勝手が違った。
聞きしにまさる舟の墓場である。
隼手はこのまま水道を突き切るのは危険だと判断し、いったん岸に寄せた。
岸辺からせいぜい十尺(約三十メートル)ほど沖に出る程度なら、万一舟が転覆しても泳いで岸に辿り着くことはできる。
だがこれでは波に干渉され、なかなか前には進めない。
見知らぬ海に漕ぎ出すことが如何に危険かは、経験した者でなければ分からない。
「大丈夫か」
「しっかり頼むぜ」
皆が異口同音に不安を口にしたが、隼手は無言で海を睨みつけるばかりだった。
その日の朝、珍彦はまだ夜も明けきらないうちに漁に出た。目を付けていた漁場で釣り糸を垂れると、アジやサバが十数匹も釣れた。
昼近くに浜に戻ったとき、珍彦は上空にかすかな羽ばたきを聞いた。
見上げると南のほうから一羽の鳥がまっすぐに飛んでくる。鳩である。
鳩は珍彦の上空をかすめ、森のほうへ飛んでいった。珍彦の住まいがある方角である。
「ようやく来たか」
目を輝かせた珍彦は駆け出した。
鳥小屋に入っていた白い首筋の鳩に見覚えがあった。
三月ほど前にヤマトに向かう旅の男に預けた鳩である。男は近畿から中国、九州にわたって物々交換して歩く山の民だった。
珍彦はヤマトに住む渡来系の住民と、鳩を使って情報交換をしている。
このやり方なら少なくとも数か月に一度はヤマトの情勢が手に入る。
珍彦は長旅で疲れた鳩に水をやり、おとなしくなったところで足に結わえられている文をほどいた。
餌を与えてたらふく食わせたあと、鳩小屋を出た。
明るい光の中で小さく畳まれた紙に書かれた短い文を読んだ珍彦はにやりとした。
「やはり、ヤマトは危ういことになっているようだな」
珍彦がつぶやくと同時に背後から足音がした。
読むのに集中して気づくのが遅れたようだ。数人いる。
珍彦はてっきり狛をはじめ悪党どもが仕返しに来たのかと思った。
用心深く振り返ると、見知らぬ男たちが木立を抜けて立っていた。
浜の方角から来たようだが、いずれも見知らぬ男ばかりだ。
旅装束が埃にまみれている。
珍彦は鳥小屋に立てかけた長剣に目をやった。
このあたりは宇佐王の支配下にある。
それでも時々流民のような集団がやってきてひと暴れする。
はっきりした素性は分からないが、ヤマトとの軍事的衝突に巻き込まれた出雲や吉備の敗残兵が、野盗と化して乱暴狼藉を働いているようだ。
珍彦はその都度、佐賀関の漁師たちを率いて野盗を撃退してきた。
だが今後も勝ち続けるとは限らない。
鳩の文が伝えるように、ヤマトを巡る混乱は容易には収まりそうもない。
その結果ふたたび倭国全体を揺るがす凄惨な戦いが起きるかもしれない、という惧れは多くの者が抱いていた。
「珍彦どのですか」
一人の若者が進み出て珍彦に問うた。
身なりこそ汚れてはいるが、その口ぶりや仕草には品の良さを感じさせる。
金の首飾りや腕に巻いたゴホウラの貝輪などを見ると、案外高貴な身分なのかもしれない。
「いかにも珍彦です。失礼ですがどちらからおいでですか」
礼節をもって珍彦が答えると、男は白い歯を見せて言った。
「吾は磐余彦と申します。日向のウガヤフキアエズの子です。塩土老翁に汝を訪ねよと言われました」
珍彦は納得した。珍彦がまだ幼いころ、蜀の塩職人だった塩土老翁が、亡父を訪ねて佐賀関に来た折に会ったことがある。
呉と蜀はかつて魏に対抗して共に戦ったこともあり、魏の曹操をあわやというところまで追いつめた「赤壁の戦い」で知られる。
その時の武勇譚は、呉の軍師だった父にせがんで何度も聞かせてもらった。
塩土老翁と父は、おなじ漢人同士、倭の地で助け合って生きていこうと話していた。
珍彦が塩土老翁と会ったのはその一度きりだが、その後も文を使って誼を通じてきた。
「老翁はお元気ですか?」
「はい。残念ながら同行が叶いませんでしたが、珍彦どのによろしくお伝えいただきたいと申しておりました」
珍彦は釣ったばかりの魚を焼いて一行をもてなしてくれた。
焼きたての魚に塩をかけて頬張るとすこぶる美味だった。
「これは素晴らしく旨い魚ですね」
磐余彦が誉めると珍彦は「塩土老翁さま直伝の塩ゆえでしょう」と答えた。あくまで控えめな態度に、礼節を身につけていることが伺える。
「いや、そればかりではない。日向の魚も旨かったが、ここのはけた違いに旨い」
「そうじゃ。一段と身が締まっておる」
稲飯命と三毛入野命が身振り手振りを交えて誉めたたえた。
サンも新鮮な小魚をたらふく食べて、すやすやと葛籠で眠っている。
「このあたりは潮の流れがきついのです。そのため魚の身も締まるのでしょう」
今日でも関アジ、関サバなど豊後水道で採れる魚は高値で取り引きされる。
「ところで、皆さま方はこれからどちらへ向かうおつもりですか?」
珍彦が磐余彦に訊ねた。
「ヤマトです」
「ほう、何のために?」わずかに珍彦の目が光った。
「決まっておる。ヤマトを平定し、新しき国を造るためよ!」
五瀬命が横から口を挟んだ。濁酒をふるまわれたせいで酔いが回っている。
「なんと、勇ましい」
珍彦がやや大げさに驚いてみせた。
そこにわずかに嘲りが潜んでいることに五瀬命は気づかない。
勢いに乗った五瀬命はさらに吼えた。
「そうとも、我らは日向の強兵。ヤマトの弱兵など、この剣で打ち破ってくれるわ!」と勢い余って剣を抜いた。
「まあまあ兄者。あまり酔っては珍彦どのがお困りです」
磐余彦が必死でなだめる。日頃は感情を表わさない日臣ですら、苦笑を禁じえない。
「たしかに、いまのヤマトならばそれも叶うかもしれません。先ほど届いた文にも、王の命に従わずヤマトを離れた豪族がいると書いてありました」
珍彦の言葉に飛び着いたのは、磐余彦である。
「その話、ぜひ詳しくお聞かせ願いたい!」
身を乗り出し、目を輝かせて続きをせがんだ。
その姿に、珍彦は童のような無垢な心を見た。
北からは瀬戸内海の波、南からは太平洋の波が押し寄せ、古来多くの海難事故があったことで知られる。
前方のうねりに気を取られていると、突然背丈ほどもある白波が後ろから襲ってくる。
『日本書紀』の一書に、「伊弉諾尊が妻の伊弉冉尊を追って黄泉の国を訪れたあと、穢れを濯ごうとして阿波の水門(鳴門海峡)と速水名門を見た。ところが流れが余りにも速いので橘の小門(博多湾と考えられる)で濯ぎをした」と記されている。
速吸之門が海の難所と呼ばれる理由は波だけではない。
大きな渦もまた非常に危険である。
水深の浅い海底に馬の背のような海底山脈がうねうねと走り、そのうねりに海流がぶつかって複雑に変化し、大きな渦を発生させるのである。
ひとたび渦に巻き込まれたら、逃れる術はない。
こうして古から多くの舟乗りたちが海の藻屑と消えていった。
磐余彦たちが乗る舟が海峡の中ほどに差し掛かったころ、にわかに厚い灰色の雲に覆われ、ほどなく大粒の雨が降ってきた。
「早く水をかき出せ。沈むぞ!」
「そっちこそしっかり漕げ!」
怒号が飛び交う中、皆が必死で櫂を漕ぐが、雨足は強くなる一方である。
船頭の隼手は顔面蒼白で顔をしかめるばかりだ。
隼手は眉を寄せると一本の太い筋のようになり、ぎょろりとした目を覆い隠す。古くから日本列島に住み暮らした人々特有の顔立ちである。
隼手は自ら水先案内人を買って出るくらいだから、操船にはそれなりの自信があった筈だ。
ところがこの海峡は、慣れ親しんだ日向の海とはまるで勝手が違った。
聞きしにまさる舟の墓場である。
隼手はこのまま水道を突き切るのは危険だと判断し、いったん岸に寄せた。
岸辺からせいぜい十尺(約三十メートル)ほど沖に出る程度なら、万一舟が転覆しても泳いで岸に辿り着くことはできる。
だがこれでは波に干渉され、なかなか前には進めない。
見知らぬ海に漕ぎ出すことが如何に危険かは、経験した者でなければ分からない。
「大丈夫か」
「しっかり頼むぜ」
皆が異口同音に不安を口にしたが、隼手は無言で海を睨みつけるばかりだった。
その日の朝、珍彦はまだ夜も明けきらないうちに漁に出た。目を付けていた漁場で釣り糸を垂れると、アジやサバが十数匹も釣れた。
昼近くに浜に戻ったとき、珍彦は上空にかすかな羽ばたきを聞いた。
見上げると南のほうから一羽の鳥がまっすぐに飛んでくる。鳩である。
鳩は珍彦の上空をかすめ、森のほうへ飛んでいった。珍彦の住まいがある方角である。
「ようやく来たか」
目を輝かせた珍彦は駆け出した。
鳥小屋に入っていた白い首筋の鳩に見覚えがあった。
三月ほど前にヤマトに向かう旅の男に預けた鳩である。男は近畿から中国、九州にわたって物々交換して歩く山の民だった。
珍彦はヤマトに住む渡来系の住民と、鳩を使って情報交換をしている。
このやり方なら少なくとも数か月に一度はヤマトの情勢が手に入る。
珍彦は長旅で疲れた鳩に水をやり、おとなしくなったところで足に結わえられている文をほどいた。
餌を与えてたらふく食わせたあと、鳩小屋を出た。
明るい光の中で小さく畳まれた紙に書かれた短い文を読んだ珍彦はにやりとした。
「やはり、ヤマトは危ういことになっているようだな」
珍彦がつぶやくと同時に背後から足音がした。
読むのに集中して気づくのが遅れたようだ。数人いる。
珍彦はてっきり狛をはじめ悪党どもが仕返しに来たのかと思った。
用心深く振り返ると、見知らぬ男たちが木立を抜けて立っていた。
浜の方角から来たようだが、いずれも見知らぬ男ばかりだ。
旅装束が埃にまみれている。
珍彦は鳥小屋に立てかけた長剣に目をやった。
このあたりは宇佐王の支配下にある。
それでも時々流民のような集団がやってきてひと暴れする。
はっきりした素性は分からないが、ヤマトとの軍事的衝突に巻き込まれた出雲や吉備の敗残兵が、野盗と化して乱暴狼藉を働いているようだ。
珍彦はその都度、佐賀関の漁師たちを率いて野盗を撃退してきた。
だが今後も勝ち続けるとは限らない。
鳩の文が伝えるように、ヤマトを巡る混乱は容易には収まりそうもない。
その結果ふたたび倭国全体を揺るがす凄惨な戦いが起きるかもしれない、という惧れは多くの者が抱いていた。
「珍彦どのですか」
一人の若者が進み出て珍彦に問うた。
身なりこそ汚れてはいるが、その口ぶりや仕草には品の良さを感じさせる。
金の首飾りや腕に巻いたゴホウラの貝輪などを見ると、案外高貴な身分なのかもしれない。
「いかにも珍彦です。失礼ですがどちらからおいでですか」
礼節をもって珍彦が答えると、男は白い歯を見せて言った。
「吾は磐余彦と申します。日向のウガヤフキアエズの子です。塩土老翁に汝を訪ねよと言われました」
珍彦は納得した。珍彦がまだ幼いころ、蜀の塩職人だった塩土老翁が、亡父を訪ねて佐賀関に来た折に会ったことがある。
呉と蜀はかつて魏に対抗して共に戦ったこともあり、魏の曹操をあわやというところまで追いつめた「赤壁の戦い」で知られる。
その時の武勇譚は、呉の軍師だった父にせがんで何度も聞かせてもらった。
塩土老翁と父は、おなじ漢人同士、倭の地で助け合って生きていこうと話していた。
珍彦が塩土老翁と会ったのはその一度きりだが、その後も文を使って誼を通じてきた。
「老翁はお元気ですか?」
「はい。残念ながら同行が叶いませんでしたが、珍彦どのによろしくお伝えいただきたいと申しておりました」
珍彦は釣ったばかりの魚を焼いて一行をもてなしてくれた。
焼きたての魚に塩をかけて頬張るとすこぶる美味だった。
「これは素晴らしく旨い魚ですね」
磐余彦が誉めると珍彦は「塩土老翁さま直伝の塩ゆえでしょう」と答えた。あくまで控えめな態度に、礼節を身につけていることが伺える。
「いや、そればかりではない。日向の魚も旨かったが、ここのはけた違いに旨い」
「そうじゃ。一段と身が締まっておる」
稲飯命と三毛入野命が身振り手振りを交えて誉めたたえた。
サンも新鮮な小魚をたらふく食べて、すやすやと葛籠で眠っている。
「このあたりは潮の流れがきついのです。そのため魚の身も締まるのでしょう」
今日でも関アジ、関サバなど豊後水道で採れる魚は高値で取り引きされる。
「ところで、皆さま方はこれからどちらへ向かうおつもりですか?」
珍彦が磐余彦に訊ねた。
「ヤマトです」
「ほう、何のために?」わずかに珍彦の目が光った。
「決まっておる。ヤマトを平定し、新しき国を造るためよ!」
五瀬命が横から口を挟んだ。濁酒をふるまわれたせいで酔いが回っている。
「なんと、勇ましい」
珍彦がやや大げさに驚いてみせた。
そこにわずかに嘲りが潜んでいることに五瀬命は気づかない。
勢いに乗った五瀬命はさらに吼えた。
「そうとも、我らは日向の強兵。ヤマトの弱兵など、この剣で打ち破ってくれるわ!」と勢い余って剣を抜いた。
「まあまあ兄者。あまり酔っては珍彦どのがお困りです」
磐余彦が必死でなだめる。日頃は感情を表わさない日臣ですら、苦笑を禁じえない。
「たしかに、いまのヤマトならばそれも叶うかもしれません。先ほど届いた文にも、王の命に従わずヤマトを離れた豪族がいると書いてありました」
珍彦の言葉に飛び着いたのは、磐余彦である。
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