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Ⅲ.転 ──言い換えの実験と、こぼれた本音
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それからというもの、リラは何度か、
古本屋の小さな階段をのぼるようになりました。
外から見れば、それはほんのささやかな寄り道です。
けれど、彼女にとっては、
胸の奥の夜空色の本へ、そっと明かりを持ち込むための、
大切な時間でもありました。
二度目に訪れた日。
窓の外では、細い雨が糸のように降っていましたが、
二階の部屋の中には、ランプの灯りが、やわらかく揺れていました。
「ようこそ」
翻訳屋は、いつものように、静かに頭をさげました。
机の上の黒いノートは、前より少しだけ、
表紙の色がやわらいで見えます。
「その後、なにか変わったことはありましたか」
「そうですわね……」
リラは椅子に腰をおろし、
少し考えるように、視線を天井へあげました。
「孤児院の子どもたちと、パン屋さんに行ったときのことです。
焼きたてのパンを前にして、
わたくし、つい『これはわたしの分?』と口にしてしまって。
そうしたら、いつもなら
必ず誰かの分を優先してしまうはずなのに……
その日はシスターが笑って、『そうよ、お嬢さまの分』と」
そのときのことを思い出したのか、
リラは指先で、自分の頬をそっと押さえました。
「一瞬、“何か起きる”と思って身構えたのですが……
パンはちゃんと、わたくしの手元に来ました。
誰のお皿も割れませんでしたし、
雨も降ってこなくて」
翻訳屋の口元が、ほんのわずかに、ほころびます。
「そうですか」
「ええ。
ただ、パンをひと口かじった瞬間、
胸がぎゅっとして、泣きそうになってしまいましたけれど」
それは、喜びとも安堵ともつかない、
なんとも不思議な痛みだったのです。
翻訳屋はうなずくと、ノートを手に取りました。
「では、きょうもこの一行を、見てみましょうか」
ページを開けば、
あの、書き足されたばかりの一文が現れます。
『わたしだけしあわせになったら、
まわりの人がさみしくなりませんように』
先に書かれていた“罰”の一行は、
すこしだけインクの色が薄くなっていました。
紙魚たちは、その間を行き来しながら、
どちらも同じように、かさかさと噛んでいます。
「前より、紙魚が少し減りましたね」
翻訳屋の言葉に、
リラは、ほっとしたように笑いました。
「では、きょうは……」
彼はペンを持つと、
新しく書き足した一行の、真ん中あたりを指先で軽く叩きました。
「『まわりの人がさみしくなりませんように』――
ここを、少しだけ、広げてみてもよろしいでしょうか」
「広げる……?」
「はい。
これはたしかに、他の人を思いやる、素敵な願いです。
けれど、“さみしくさせないために、自分はどうすればいいのか”が、
まだ書かれていない」
翻訳屋は、窓の方へ視線を向けました。
外の雨音が、とくとく、と、
遠くの心臓のように響いています。
「たとえば、“自分が幸せでいること”を、
誰かのさみしさを薄めるために使うこともできます」
「わたくしのしあわせで……誰かの、さみしさを?」
「そうです」
彼は、まっすぐにリラを見ました。
「以前、あなたがお持ちになった絵本を、
孤児院の子どもたちが取り合いになるように読んでいた、と
シスターが言っていましたね」
「あら、そのお話を?」
「たまたま、古本屋の店主から聞きました」
彼は、ほんの少しだけ目をそらして、咳払いをしました。
どうやら、店主とお茶を飲みながら、
リラの話を聞いたことがあるようです。
「その子どもたちは、
あなたが“楽しく読んでいる姿”を見て、
同じように笑っていたはずです」
リラの胸の中で、
絵本の場面がよみがえります。
自分の声にあわせて、
子どもたちが、目をきらきらさせていたあの時間。
「……そうかもしれません」
小さな声で答えると、
翻訳屋は、羽根ペンの先をインク壺につけました。
「では、こんなふうに言い換えてみるのは、どうでしょう」
彼は、慎重に、けれど迷いなく、
ノートの次の行に文字を落としていきました。
『わたしだけしあわせになったら、
まわりの人がさみしくなりませんように。
できることなら、そのしあわせを、
だれかと、そっと分けあえますように』
リラは、その一文を見つめました。
「……分けあえますように」
声に出して読むと、
胸の奥で、何かがきゅっとつまって、ほどけるような感覚がありました。
ページの上では、
紙魚がもう一匹、羽をひろげて、白い蝶に変わっていきます。
その蝶は、一瞬リラの指先にとまり、
まるで「それでいいのですよ」と囁くように、
羽をふるふると震わせてから、窓のほうへ飛んでいきました。
ある日。
三度目の訪れの日は、
空がよく晴れた午後でした。
「こんにちは」
階段の上から覗き込むリラの声に、
翻訳屋は本から顔を上げました。
「いらっしゃいませ。今日は、よく晴れましたね」
「はい。……あの」
リラは、手に持っていた包みを掲げました。
「途中で、美味しいと評判の焼き菓子を見つけまして。
……お邪魔でなければ、ご一緒に、いかがでしょう」
翻訳屋の目が、ほんのすこしだけ見開かれます。
「お気遣いなく、と言うべきところでしょうが……」
彼は、わずかに口元をゆるめました。
「正直なところ、とても嬉しいです」
その言い方がおかしくて、
リラは思わずくすりと笑ってしまいました。
二人で焼き菓子を分け合いながら、
ランプの灯りの下でノートを開きます。
『わたしだけしあわせになったら、
まわりの人がさみしくなりませんように。
できることなら、そのしあわせを、
だれかと、そっと分けあえますように』
「前よりも、読みやすくなった気がしますわ」
リラの言葉に、翻訳屋は小さくうなずきました。
「言葉も、本も、人の心も、
急に大きく変わるのは苦手ですからね」
彼は、焼き菓子の欠片を指先でつまみながら、
続けます。
「少しずつ、すこしずつ。
一度に一行、一度にひと呼吸ぶんだけ」
リラは、その調子に安心したように、
胸の奥の重さを、そっと確かめました。
――たしかに、いちばん最初の夜よりも、
息がしやすくなった気がする。
けれど、その分だけ、
隠していたものにも、近づいている気がしました。
そして、その日は、とうとう。
リラは、自分から、ノートとは別の話を、
静かに口にしはじめました。
「……わたくし、この一行を書いた日のことを、
ずっと誰にも話しておりませんでした」
翻訳屋の手が止まります。
「話したくなければ、無理に話す必要はありません」
「いいえ。
むしろ、もうそろそろ、
誰かに聞いていただきたいと思っていたのです」
リラは、窓の外を見ました。
空は明るく、
遠くの屋根瓦が、陽の光を跳ね返しています。
「まだ、わたくしが子どもだったころ。
――そう、小さな舞踏会があった日です」
言葉に触れた途端、
胸の奥に沈んでいた景色が、
ゆっくりと浮かび上がってきました。
「その日、わたくしは、どうしても行きたい場所が二つあって。
一つは、孤児院の子どもたちとのお祭り。
もう一つは、大切な人との約束でした」
「大切な人……」
「はい。
幼なじみのような方で、とても真面目なかたでした。
そのかたは、あまり社交が得意ではなくて、
人前に出るのが苦手で。
ですから、わたくしにとって、
その方が舞踏会に誘ってくださったことは、
とても――とても、特別なことだったのです」
リラは、両手を膝の上で組みました。
「けれど、その日は同じ時間に、孤児院での催しがあって。
どちらかを選ばなければいけないとき、
わたくしは……“人の役に立つほう”を選びました」
孤児院の子どもたちの、
はしゃいだ声や、紙の飾りが揺れる音がよみがえります。
「子どもたちは、とても喜んでくれました。
それは、本当にしあわせな時間でした。
だからこそ、舞踏会の時間になっても戻れなかった自分を、
どこかで、正しいと信じていたのだと思います」
手のひらに、汗がにじみます。
「ですが……あとで聞いたのです。
わたくしが行かなかった舞踏会で、
そのかたがひとりで立っていたこと。
そして、人混みに押されて、少し怪我をされたこと。
そのとき、誰かが言ったのです。
『あの令嬢は、自分の楽しみのほうを選んだのだろう』と」
翻訳屋の眉が、きゅっと寄りました。
「実際には、違ったのでしょう?」
「はい。
けれど、そのときのわたくしにとっては、
“結果としてそう見えた”ということが、
とても、とても怖かったのです」
リラの声が、すこし震えました。
「もし、わたくしがしあわせそうに笑っていたせいで、
誰かが傷ついたのだとしたら。
もし、わたくしだけが楽しいほうを選んだと見なされるのだとしたら。
――その罰は、当然だと思ってしまったのです」
彼女は、胸の奥にある黒い本を、
ぎゅうっと抱きしめるように、目を閉じました。
「だから、その夜。
泣きながら、この本の一枚目に書いたのです。
『わたしだけしあわせになったら、罰が当たりますように』と」
部屋の空気が、静かに重くなりました。
翻訳屋は、しばらく何も言いませんでした。
ただ、机の上のノートと、
目の前の彼女の姿とを、交互に見つめていました。
ようやく、彼は息を吸いました。
「……わたしは、舞踏会にいませんでしたから」
静かな始まりでした。
「その場で、誰がどんなふうに笑っていたのかも、知りません。
けれど、ひとつだけ、はっきりと言えることがあります」
リラは、顔を上げました。
「なん、でしょうか」
翻訳屋は、まっすぐに彼女を見ました。
その瞳は鋭いのに、不思議と、まったく怖くありません。
「あなたがその夜、誰かのために時間を使ったことと、
誰かが人混みで怪我をしたこととは、
本来、別々の出来事だ、ということです」
「でも……」
反射的に、言い返そうとして、
リラは言葉を飲み込みました。
翻訳屋は、目を伏せ、ノートの上に視線を落とします。
「あなたは、“結果”をすべて自分のせいだと結びつけて、
そのぶんだけ、自分を罰する一行を書いた」
彼は、胸の奥の何かをかみしめるように、言葉を続けました。
「けれど――」
ここで、少しだけ、言葉がつかえました。
翻訳屋の指先が、ノートの端を、きゅっと握ります。
「けれど、あなたを罰する文なんて、
どの辞書を開いても、ぼくは見つけることができませんでした」
それは、思わずこぼれてしまった本音でした。
プロとしての距離を保とうとする彼の口から、
ぽろりと零れ落ちた、小さな一文。
リラは、目を見開きました。
「……翻訳屋さま」
「本来の言葉の世界には、“罰の辞書”などありません」
翻訳屋は、少し顔をそむけるようにしながら、
それでも、しっかりと言いました。
「あるのはただ、
事実を記すための言葉と、
願いを紡ぐための言葉だけです。
あなたが自分を罰しようとしたその夜、
どちらの言葉を、もっと多く使うべきだったと思いますか」
リラの胸の中で、
黒いノートが、ふるふると震えました。
――罰の言葉ではなくて。
――願いの言葉を。
彼女の喉に、あつい何かがこみ上げてきます。
「……本当は」
唇からもれた声は、
自分でも驚くほど小さなものでした。
「本当は、その方に、
無事でいてほしかっただけなのです。
わたくしがどこにいたかに関わらず、
どうか、怪我などしませんように、と」
涙が一粒、ぽとりとノートの上に落ちました。
その雫が触れた文字が、
じわり、とにじみます。
紙魚たちがいっせいに顔を上げ、
その滴を、もの珍しそうに見つめました。
翻訳屋は、羽根ペンを手に取ると、
とても、とても慎重に、
新しい行をひらきました。
「では、その“本当は”を、
少しだけ、ここに足してみてもよろしいでしょうか」
リラは、涙を拭いながら、うなずきました。
ペン先が、紙の上を滑ります。
『わたしだけしあわせになったら、罰が当たりますように。』
そのすぐ下に、
新しい一行が生まれていきました。
『本当は、だれも罰せられませんように。
どうか、あのひとが無事でいてくれますように。』
それはまだ、ぎこちない形のままです。
けれど、そこにはもう、
少し前まであった“自分ばかり責める音”は、薄れていました。
紙魚がまた一匹、白い蝶に変わり、
ノートの上をふわりと一周してから、
ランプの光の中へ消えていきました。
翻訳屋は、息を吐きました。
「……こうして見ると、
もともとの一行も、
ただの“罰の呪い”ではなかったように思えてきますね」
「そう、でしょうか」
「ええ」
彼は、ほんの少しだけ微笑みました。
「あなたはずっと、“誰かが傷つかないように”と願ってきた。
自分を罰することでさえ、
結局は誰かを守ろうとするための、
不器用な願いだったのだと思います」
リラは、その言葉に、
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じました。
――それなら、もしかしたら。
――もう少しだけ、自分を許しても、いいのでしょうか。
ノートのページには、
まだ黒い文字も、紙魚の影も残っています。
けれど、その隙間のどこかで、
小さな白い芽のようなものが、
ひっそりと顔を出しているようでした。
こうして、「罰が当たる令嬢」の自己呪詛は、
すこしずつ、すこしずつ、
本当の願いの言葉へと近づいていきました。
そして、その変化は、
やがて思いがけないかたちで、
リラの日常にも姿を現すことになるのです。
それはまた、別の晴れた日のこと――。
古本屋の小さな階段をのぼるようになりました。
外から見れば、それはほんのささやかな寄り道です。
けれど、彼女にとっては、
胸の奥の夜空色の本へ、そっと明かりを持ち込むための、
大切な時間でもありました。
二度目に訪れた日。
窓の外では、細い雨が糸のように降っていましたが、
二階の部屋の中には、ランプの灯りが、やわらかく揺れていました。
「ようこそ」
翻訳屋は、いつものように、静かに頭をさげました。
机の上の黒いノートは、前より少しだけ、
表紙の色がやわらいで見えます。
「その後、なにか変わったことはありましたか」
「そうですわね……」
リラは椅子に腰をおろし、
少し考えるように、視線を天井へあげました。
「孤児院の子どもたちと、パン屋さんに行ったときのことです。
焼きたてのパンを前にして、
わたくし、つい『これはわたしの分?』と口にしてしまって。
そうしたら、いつもなら
必ず誰かの分を優先してしまうはずなのに……
その日はシスターが笑って、『そうよ、お嬢さまの分』と」
そのときのことを思い出したのか、
リラは指先で、自分の頬をそっと押さえました。
「一瞬、“何か起きる”と思って身構えたのですが……
パンはちゃんと、わたくしの手元に来ました。
誰のお皿も割れませんでしたし、
雨も降ってこなくて」
翻訳屋の口元が、ほんのわずかに、ほころびます。
「そうですか」
「ええ。
ただ、パンをひと口かじった瞬間、
胸がぎゅっとして、泣きそうになってしまいましたけれど」
それは、喜びとも安堵ともつかない、
なんとも不思議な痛みだったのです。
翻訳屋はうなずくと、ノートを手に取りました。
「では、きょうもこの一行を、見てみましょうか」
ページを開けば、
あの、書き足されたばかりの一文が現れます。
『わたしだけしあわせになったら、
まわりの人がさみしくなりませんように』
先に書かれていた“罰”の一行は、
すこしだけインクの色が薄くなっていました。
紙魚たちは、その間を行き来しながら、
どちらも同じように、かさかさと噛んでいます。
「前より、紙魚が少し減りましたね」
翻訳屋の言葉に、
リラは、ほっとしたように笑いました。
「では、きょうは……」
彼はペンを持つと、
新しく書き足した一行の、真ん中あたりを指先で軽く叩きました。
「『まわりの人がさみしくなりませんように』――
ここを、少しだけ、広げてみてもよろしいでしょうか」
「広げる……?」
「はい。
これはたしかに、他の人を思いやる、素敵な願いです。
けれど、“さみしくさせないために、自分はどうすればいいのか”が、
まだ書かれていない」
翻訳屋は、窓の方へ視線を向けました。
外の雨音が、とくとく、と、
遠くの心臓のように響いています。
「たとえば、“自分が幸せでいること”を、
誰かのさみしさを薄めるために使うこともできます」
「わたくしのしあわせで……誰かの、さみしさを?」
「そうです」
彼は、まっすぐにリラを見ました。
「以前、あなたがお持ちになった絵本を、
孤児院の子どもたちが取り合いになるように読んでいた、と
シスターが言っていましたね」
「あら、そのお話を?」
「たまたま、古本屋の店主から聞きました」
彼は、ほんの少しだけ目をそらして、咳払いをしました。
どうやら、店主とお茶を飲みながら、
リラの話を聞いたことがあるようです。
「その子どもたちは、
あなたが“楽しく読んでいる姿”を見て、
同じように笑っていたはずです」
リラの胸の中で、
絵本の場面がよみがえります。
自分の声にあわせて、
子どもたちが、目をきらきらさせていたあの時間。
「……そうかもしれません」
小さな声で答えると、
翻訳屋は、羽根ペンの先をインク壺につけました。
「では、こんなふうに言い換えてみるのは、どうでしょう」
彼は、慎重に、けれど迷いなく、
ノートの次の行に文字を落としていきました。
『わたしだけしあわせになったら、
まわりの人がさみしくなりませんように。
できることなら、そのしあわせを、
だれかと、そっと分けあえますように』
リラは、その一文を見つめました。
「……分けあえますように」
声に出して読むと、
胸の奥で、何かがきゅっとつまって、ほどけるような感覚がありました。
ページの上では、
紙魚がもう一匹、羽をひろげて、白い蝶に変わっていきます。
その蝶は、一瞬リラの指先にとまり、
まるで「それでいいのですよ」と囁くように、
羽をふるふると震わせてから、窓のほうへ飛んでいきました。
ある日。
三度目の訪れの日は、
空がよく晴れた午後でした。
「こんにちは」
階段の上から覗き込むリラの声に、
翻訳屋は本から顔を上げました。
「いらっしゃいませ。今日は、よく晴れましたね」
「はい。……あの」
リラは、手に持っていた包みを掲げました。
「途中で、美味しいと評判の焼き菓子を見つけまして。
……お邪魔でなければ、ご一緒に、いかがでしょう」
翻訳屋の目が、ほんのすこしだけ見開かれます。
「お気遣いなく、と言うべきところでしょうが……」
彼は、わずかに口元をゆるめました。
「正直なところ、とても嬉しいです」
その言い方がおかしくて、
リラは思わずくすりと笑ってしまいました。
二人で焼き菓子を分け合いながら、
ランプの灯りの下でノートを開きます。
『わたしだけしあわせになったら、
まわりの人がさみしくなりませんように。
できることなら、そのしあわせを、
だれかと、そっと分けあえますように』
「前よりも、読みやすくなった気がしますわ」
リラの言葉に、翻訳屋は小さくうなずきました。
「言葉も、本も、人の心も、
急に大きく変わるのは苦手ですからね」
彼は、焼き菓子の欠片を指先でつまみながら、
続けます。
「少しずつ、すこしずつ。
一度に一行、一度にひと呼吸ぶんだけ」
リラは、その調子に安心したように、
胸の奥の重さを、そっと確かめました。
――たしかに、いちばん最初の夜よりも、
息がしやすくなった気がする。
けれど、その分だけ、
隠していたものにも、近づいている気がしました。
そして、その日は、とうとう。
リラは、自分から、ノートとは別の話を、
静かに口にしはじめました。
「……わたくし、この一行を書いた日のことを、
ずっと誰にも話しておりませんでした」
翻訳屋の手が止まります。
「話したくなければ、無理に話す必要はありません」
「いいえ。
むしろ、もうそろそろ、
誰かに聞いていただきたいと思っていたのです」
リラは、窓の外を見ました。
空は明るく、
遠くの屋根瓦が、陽の光を跳ね返しています。
「まだ、わたくしが子どもだったころ。
――そう、小さな舞踏会があった日です」
言葉に触れた途端、
胸の奥に沈んでいた景色が、
ゆっくりと浮かび上がってきました。
「その日、わたくしは、どうしても行きたい場所が二つあって。
一つは、孤児院の子どもたちとのお祭り。
もう一つは、大切な人との約束でした」
「大切な人……」
「はい。
幼なじみのような方で、とても真面目なかたでした。
そのかたは、あまり社交が得意ではなくて、
人前に出るのが苦手で。
ですから、わたくしにとって、
その方が舞踏会に誘ってくださったことは、
とても――とても、特別なことだったのです」
リラは、両手を膝の上で組みました。
「けれど、その日は同じ時間に、孤児院での催しがあって。
どちらかを選ばなければいけないとき、
わたくしは……“人の役に立つほう”を選びました」
孤児院の子どもたちの、
はしゃいだ声や、紙の飾りが揺れる音がよみがえります。
「子どもたちは、とても喜んでくれました。
それは、本当にしあわせな時間でした。
だからこそ、舞踏会の時間になっても戻れなかった自分を、
どこかで、正しいと信じていたのだと思います」
手のひらに、汗がにじみます。
「ですが……あとで聞いたのです。
わたくしが行かなかった舞踏会で、
そのかたがひとりで立っていたこと。
そして、人混みに押されて、少し怪我をされたこと。
そのとき、誰かが言ったのです。
『あの令嬢は、自分の楽しみのほうを選んだのだろう』と」
翻訳屋の眉が、きゅっと寄りました。
「実際には、違ったのでしょう?」
「はい。
けれど、そのときのわたくしにとっては、
“結果としてそう見えた”ということが、
とても、とても怖かったのです」
リラの声が、すこし震えました。
「もし、わたくしがしあわせそうに笑っていたせいで、
誰かが傷ついたのだとしたら。
もし、わたくしだけが楽しいほうを選んだと見なされるのだとしたら。
――その罰は、当然だと思ってしまったのです」
彼女は、胸の奥にある黒い本を、
ぎゅうっと抱きしめるように、目を閉じました。
「だから、その夜。
泣きながら、この本の一枚目に書いたのです。
『わたしだけしあわせになったら、罰が当たりますように』と」
部屋の空気が、静かに重くなりました。
翻訳屋は、しばらく何も言いませんでした。
ただ、机の上のノートと、
目の前の彼女の姿とを、交互に見つめていました。
ようやく、彼は息を吸いました。
「……わたしは、舞踏会にいませんでしたから」
静かな始まりでした。
「その場で、誰がどんなふうに笑っていたのかも、知りません。
けれど、ひとつだけ、はっきりと言えることがあります」
リラは、顔を上げました。
「なん、でしょうか」
翻訳屋は、まっすぐに彼女を見ました。
その瞳は鋭いのに、不思議と、まったく怖くありません。
「あなたがその夜、誰かのために時間を使ったことと、
誰かが人混みで怪我をしたこととは、
本来、別々の出来事だ、ということです」
「でも……」
反射的に、言い返そうとして、
リラは言葉を飲み込みました。
翻訳屋は、目を伏せ、ノートの上に視線を落とします。
「あなたは、“結果”をすべて自分のせいだと結びつけて、
そのぶんだけ、自分を罰する一行を書いた」
彼は、胸の奥の何かをかみしめるように、言葉を続けました。
「けれど――」
ここで、少しだけ、言葉がつかえました。
翻訳屋の指先が、ノートの端を、きゅっと握ります。
「けれど、あなたを罰する文なんて、
どの辞書を開いても、ぼくは見つけることができませんでした」
それは、思わずこぼれてしまった本音でした。
プロとしての距離を保とうとする彼の口から、
ぽろりと零れ落ちた、小さな一文。
リラは、目を見開きました。
「……翻訳屋さま」
「本来の言葉の世界には、“罰の辞書”などありません」
翻訳屋は、少し顔をそむけるようにしながら、
それでも、しっかりと言いました。
「あるのはただ、
事実を記すための言葉と、
願いを紡ぐための言葉だけです。
あなたが自分を罰しようとしたその夜、
どちらの言葉を、もっと多く使うべきだったと思いますか」
リラの胸の中で、
黒いノートが、ふるふると震えました。
――罰の言葉ではなくて。
――願いの言葉を。
彼女の喉に、あつい何かがこみ上げてきます。
「……本当は」
唇からもれた声は、
自分でも驚くほど小さなものでした。
「本当は、その方に、
無事でいてほしかっただけなのです。
わたくしがどこにいたかに関わらず、
どうか、怪我などしませんように、と」
涙が一粒、ぽとりとノートの上に落ちました。
その雫が触れた文字が、
じわり、とにじみます。
紙魚たちがいっせいに顔を上げ、
その滴を、もの珍しそうに見つめました。
翻訳屋は、羽根ペンを手に取ると、
とても、とても慎重に、
新しい行をひらきました。
「では、その“本当は”を、
少しだけ、ここに足してみてもよろしいでしょうか」
リラは、涙を拭いながら、うなずきました。
ペン先が、紙の上を滑ります。
『わたしだけしあわせになったら、罰が当たりますように。』
そのすぐ下に、
新しい一行が生まれていきました。
『本当は、だれも罰せられませんように。
どうか、あのひとが無事でいてくれますように。』
それはまだ、ぎこちない形のままです。
けれど、そこにはもう、
少し前まであった“自分ばかり責める音”は、薄れていました。
紙魚がまた一匹、白い蝶に変わり、
ノートの上をふわりと一周してから、
ランプの光の中へ消えていきました。
翻訳屋は、息を吐きました。
「……こうして見ると、
もともとの一行も、
ただの“罰の呪い”ではなかったように思えてきますね」
「そう、でしょうか」
「ええ」
彼は、ほんの少しだけ微笑みました。
「あなたはずっと、“誰かが傷つかないように”と願ってきた。
自分を罰することでさえ、
結局は誰かを守ろうとするための、
不器用な願いだったのだと思います」
リラは、その言葉に、
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じました。
――それなら、もしかしたら。
――もう少しだけ、自分を許しても、いいのでしょうか。
ノートのページには、
まだ黒い文字も、紙魚の影も残っています。
けれど、その隙間のどこかで、
小さな白い芽のようなものが、
ひっそりと顔を出しているようでした。
こうして、「罰が当たる令嬢」の自己呪詛は、
すこしずつ、すこしずつ、
本当の願いの言葉へと近づいていきました。
そして、その変化は、
やがて思いがけないかたちで、
リラの日常にも姿を現すことになるのです。
それはまた、別の晴れた日のこと――。
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