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第12話 「役に立たなくても、君がいてほしい」
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まぶしい、白。
目を開けているのか、閉じているのかさえ、よくわからない。
上下も、右左も、どこまでが自分で、どこからが世界なのかも、曖昧だった。
「……ここ、は……」
声を出すと、その音だけが、ぽつんと白に落ちる。
次の瞬間、足元に、紙片が一つ、ひらりと落ちてきた。
拾い上げると、それは小さな、切り抜かれた時間だった。
幼い自分が、縁側でぼうっと夕焼けを眺めている。
ただ、空の色を見ていて、何もしていない。
でも、その横で、お母さんが洗濯物を干しながら、少しだけ顔を緩めているのが映っていた。
紙片の端には、小さな文字が書いてある。
『役に立たない時間:00:15』
「あ……」
指先が震える。
別の紙片が、またひらりと落ちてきた。
今度は、小学校の教室。
テストの点で落ち込んでいた友達の隣で、自分がドキドキしながら、飴玉を差し出している。
「大丈夫だよ」と言った、その一瞬だけの笑顔。
『役に立たない時間:00:01』
「そんな……」
白い空から、次々と紙片が降ってくる。
全部、どこかで見たことのある景色。
自分が、誰かと笑っていたり、ただ眠っていたり、くだらないことで笑い転げていた、小さな時間たち。
どれも、端っこには、同じ分類が押されていた。
『役に立たない時間』
胸が、ぎゅっと痛くなる。
「これ、全部……わたしが、消してきた時間……?」
足元に、紙片が山のように積もっていく。
それは自分のものだけじゃない。
見知らぬ誰かが、コーヒーを飲みながら本を読んでいる時間。
廊下の雑談。
窓の外の雨粒を数えている時間。
どれも「役に立たない」と判定されて、ここに落ちてきている。
ふと、耳の奥で、無機質な声がした。
『自己呪詛管理システム・余白処理区画。
未定義の意識体を確認。識別番号──』
「……え?」
白い空の向こうに、うっすらと、数字と文字が浮かび上がる。
『自己呪詛文言:役に立たない時間を全部消してください
主文言発信者、照合中──一致。』
冷たい声が続ける。
『当該意識体は、余白削除プロセスの中枢ハブとして認定。
最適化処理を継続します。』
「さい……てきか」
口の中で転がしてみても、その言葉の味は、少しも温かくない。
「わたし……」
足元の紙片を見下ろす。
ちいさな黒猫の影が、一匹、紙の山の上によじ登ってきた。
『役に立たない時間を全部消してください』
見慣れたタグ。
「……ごめんね」
思わず、黒猫に向かって呟く。
「こんなお願い、しなきゃよかったね……」
黒猫は、じっとこちらを見上げる。
その瞳の奥に、自分の幼いころの顔が映っている気がした。
“役に立つ子になりたいから。いらない時間はいりません”
あのときの、自分の声。
白い空間の奥から、また、無機質な声が響く。
『余白の総量、多すぎ。削減推奨。
“役に立たない時間”を保持すると、全体効率が低下します。』
「……効率、効率って」
小さく笑ってしまう。
「たしかに、そうかもしれません。
でも、わたし……」
紙片の一枚を胸に抱く。
そこには、誰かと手を繋いで歩くだけの、一瞬が映っていた。
「この時間、好きだったなって、思うんです」
胸の奥に、小さな声が生まれる。
(消したくなかった、って……ほんとは、ずっと思ってたのかもしれない)
でも。
別の声も、同じくらい強く囁く。
(それでも、“役に立たない自分”が、ここにいていいなんて、思えない……)
「だったら」
自分に言い聞かせるように、口を開いた。
「だったらせめて、“役に立つ形”で、終わりたいです」
黒猫が、ぴくりと耳を動かす。
「わたしの余白で、お腹いっぱいになって。
みんなの役に立たない時間は、これ以上、取らないであげてください」
無機質な声が、少しだけ静かになった。
『条件分岐検討中……』
白い空間が、ゆっくりと収縮していく。
足元の紙片が、ふわりと舞い上がり、彼女の身体の周りを回転し始める。
まるで、自分という存在ごと、“役に立たない時間”として処理しようとしているみたいだった。
「……それで、みんなが守れるなら」
目を閉じようとした、そのとき。
ぱきん、と。
世界のどこかで、硬いものが割れる音がした。
白い空に、一本の亀裂が走る。
そこから、黒いインクのような線が、すっと流れ落ちてきた。
亀裂の向こうから、聞き慣れた声がした。
「──その最適化は、基準違反です」
音のする方へ顔を向けると、
亀裂の中から、一人の人影が歩いてくるのが見えた。
黒い公務服。
きちんと整えられた襟。
いつもより少し乱れた髪。
そして、眼鏡の奥の、まっすぐな瞳。
「基準策定官、さん……」
声が震えた。
彼は、白い世界に足を踏み入れ、周囲を一瞥した。
「ここが、“削除された余白”の保管層ですか」
足元に積もった紙片を拾い上げ、じっと見つめる。
「ずいぶんと、雑な分類ですね。“役に立たない時間”などと」
白い空から、無機質な声が降る。
『識別:自己呪詛課・基準策定官。
しかし、ここはシステム内層。人間の立ち入りは想定されていません。』
「想定されていなくても、来たものは仕方がありません」
基準策定官は、さらりと言った。
「条文・補則第三条。“想定外の事象が発生した際、基準策定官は、現場判断で臨時基準を定めることができる”。
これは、あなた方のシステムにも組み込まれているはずですよ」
『臨時基準の権限は、外層での運用に限定されています。
ここは内層。効率最優先です。』
「ふむ」
彼は、胸ポケットから一冊の冊子を取り出した。
表紙には、見慣れた文字。
『自己呪詛課・基準解釈補助資料(個人用)』
「外層の人間が、“内層の基準”を上書きしてはいけないという条文は、存在しませんね?」
『……該当条文、見当たらず。』
「では、“基準外判決”をここに記録します」
彼は、冊子を開き、はっきりとした声で読み上げ始めた。
『自己呪詛案件:
“役に立たない時間を全部消してください”』
彼の声が、白い空間に広がる。
『判決。
本件自己呪詛は、申請時の年齢および心理状態を鑑み、“誤送信”と認定。
正式な受理手続きも行われておらず、自動処理は、条文の趣旨に反する。』
彼は、紙片に視線を落とした。
幼い自分の姿。
必死で「役に立つ子」を願っていた女の子。
その横に、疲れた大人たちの顔が映っている。
「この願いは、“役に立たない自分を消したい”という叫びでもあった。
しかし同時に、“誰かの役に立ちたい”という優しさから生まれている」
『……評価関数に該当項目なし。』
「だからこそ、条文上こう解釈します」
基準策定官は、冊子の別のページをめくった。
『第一条。
“誰かの役に立ちたい”という願いは、それ自体が、すでに誰かの救いとなっている。』
『第二条。
“役に立たない時間”も含めて、自分を差し出してしまおうとする行為は、
本来なら、誰かが止めるべき軽犯罪である。』
『第三条。
よって、当該自己呪詛に基づく“時間削除処理”は、ただちに停止。
これ以上の削除は、基準違反と見なす。』
白い空間が、かすかにざわめく。
無機質な声が、少しだけにぶくなる。
『しかし、“役に立たない時間”を保持することは、効率の低下を招きます。』
「効率がすべてだと、誰が決めたのです」
基準策定官は、きっぱりと言った。
「条文の目的は、“人が人として生きる余白を守ること”です。
“人”の定義から、“役に立たない時間”を排除してしまったら、それはもはや人間ではありません」
その言葉に、彼女は息を呑んだ。
白い空から、しばらく沈黙が降る。
やがて、淡々とした声が、問いかけてきた。
『しかし、当該意識体は既に、自身を“削除対象”として差し出しました。
本人の意思を無視してまで、保存する価値があるのですか?』
「あります」
即答だった。
基準策定官は、ゆっくりと、彼女の方を振り向く。
いつもより、すこしだけ、瞳が揺れていた。
「彼女は、これまでずっと、自分の余白を削って、“役に立とう”としてきました。
その結果、こうして自分自身まで削ろうとしている」
彼女と目が合う。
胸がぎゅっとなる。
泣きそうなのは、自分のほうだった。
「……でも、そんな終わり方、嫌です」
彼の声が、かすかに震える。
「条文上はどうあれ、“一人の人間”として。
俺は、“役に立たなくても、君がここにいてほしい”と願っています」
その言葉は、白い世界に染み込んで、じんわりと広がっていった。
無機質な声が、途切れる。
『……再計算中。』
足元の紙片が、ふわりと舞い上がる。
そこに映っていた“小さな時間”たちが、少しずつ、色を取り戻していく。
縁側の夕焼けに、あたたかな橙が戻る。
教室の飴玉に、薄いピンクの光が宿る。
白かった世界に、少しずつ、色が差し込んでいく。
「……でも」
彼女は、まだ不安を手放せなかった。
「もし、本当に、何もできなくなって。
誰かに迷惑ばかりかける自分になったら……それでも、“いてほしい”って、言えますか?」
恐る恐る問う。
また、彼を困らせているかもしれないと、思いながら。
基準策定官は、しばらく黙っていた。
その沈黙の中で、彼の中で何かが揺れ、決まっていくのが、なぜか伝わってきた。
そして。
「言います」
はっきりと、そう告げた。
「そのときの俺が、何をしているかはわかりません。
でも、“何もできなくなったから”という理由で、君を消したいと思うことは、絶対にありません」
白い世界が、びくりと震えた。
「……それは、条文ですか?」
「いいえ」
彼は、首を振る。
「これは条文ではなく、俺個人のわがままです」
その言い方が、あまりにも不器用で。
でも、とてつもなく、まっすぐで。
彼女の胸の中で、何かがぽろりと崩れた。
「……わがまま」
「自己呪詛課・基準策定官としてではなく、“一人の人”として。
“役に立たなくても、君がいてほしい”と、ここに宣言します」
冊子の最後のページを開き、そこにペンを走らせる。
『基準外判決:
当該自己呪詛──“役に立たない時間を全部消してください”は、
申請者が“役に立たなくても、ここにいていい自分”を、これから学ぶための出発点として保存する。
よって、削除処理を全面的に取り消し、過去に削られた余白の一部を、記憶として返還する。』
書き終えた文字が、まるで魔法陣のように光る。
無機質な声が、静かに結論を下した。
『……基準策定官の臨時権限を承認。
自己呪詛文言、“危険な一括削除命令”から“要保護対象”へ再分類。』
『“役に立たない時間”の一部を、当該意識体および関連ログに返還します。
なお、効率低下については、“人間らしさ係数”として相殺。』
最後の一文だけ、ほんの少し、柔らかく聞こえた。
足元の紙片が、一斉に舞い上がり、彼女の胸の中へと溶け込んでいく。
縁側の夕焼け。
友達と笑った放課後。
何もせずにぼうっとしていた昼下がり。
自分が、自分でいるだけの時間。
忘れていたはずの感覚が、どっと押し寄せる。
胸が苦しくて、温かくて、どうしようもなくなって。
涙が、ぽろぽろとこぼれた。
「……ごめんなさい」
気づけば、またその言葉が口をついていた。
「わたし、ずっと、自分にひどいことしてました。
“役に立たない時間なんていらない”って……
本当は一番、そばにいてほしかった時間たちを、切り捨てて……」
基準策定官は、彼女の前まで歩み寄る。
そして、ためらいがちな手つきで、そっと、彼女の頭に手を置いた。
「謝罪は、もう十分です」
優しい声だった。
「これからは、その時間たちに“ありがとう”と言ってあげてください」
「……ありがとう」
胸の中で、小さくつぶやく。
“何もしていない自分”に。
“ただ笑っているだけの自分”に。
“役に立たない自分”を、支えてくれていた、たくさんの余白たちに。
白い世界が、ゆっくりと、色を取り戻し始めた。
足元に、黒猫がちょこんと座っている。
タグの文字が、いつの間にか変わっていた。
『役に立たない時間を、すこし残してください』
「……ノワールさん」
彼女が呼ぶと、黒猫は「にゃ」と短く鳴いた。
基準策定官は、彼女に手を差し出す。
「帰りましょう」
差し出された手は、少し震えていた。
でも、その震えごと、彼の本気さが伝わってくる。
彼女は、その手をぎゅっと握り返した。
白い世界に、ひと筋の扉が開く。
そこから差し込んでくる光は、今度こそ、眩しさだけじゃなくて、やわらかさを含んでいた。
目を開けているのか、閉じているのかさえ、よくわからない。
上下も、右左も、どこまでが自分で、どこからが世界なのかも、曖昧だった。
「……ここ、は……」
声を出すと、その音だけが、ぽつんと白に落ちる。
次の瞬間、足元に、紙片が一つ、ひらりと落ちてきた。
拾い上げると、それは小さな、切り抜かれた時間だった。
幼い自分が、縁側でぼうっと夕焼けを眺めている。
ただ、空の色を見ていて、何もしていない。
でも、その横で、お母さんが洗濯物を干しながら、少しだけ顔を緩めているのが映っていた。
紙片の端には、小さな文字が書いてある。
『役に立たない時間:00:15』
「あ……」
指先が震える。
別の紙片が、またひらりと落ちてきた。
今度は、小学校の教室。
テストの点で落ち込んでいた友達の隣で、自分がドキドキしながら、飴玉を差し出している。
「大丈夫だよ」と言った、その一瞬だけの笑顔。
『役に立たない時間:00:01』
「そんな……」
白い空から、次々と紙片が降ってくる。
全部、どこかで見たことのある景色。
自分が、誰かと笑っていたり、ただ眠っていたり、くだらないことで笑い転げていた、小さな時間たち。
どれも、端っこには、同じ分類が押されていた。
『役に立たない時間』
胸が、ぎゅっと痛くなる。
「これ、全部……わたしが、消してきた時間……?」
足元に、紙片が山のように積もっていく。
それは自分のものだけじゃない。
見知らぬ誰かが、コーヒーを飲みながら本を読んでいる時間。
廊下の雑談。
窓の外の雨粒を数えている時間。
どれも「役に立たない」と判定されて、ここに落ちてきている。
ふと、耳の奥で、無機質な声がした。
『自己呪詛管理システム・余白処理区画。
未定義の意識体を確認。識別番号──』
「……え?」
白い空の向こうに、うっすらと、数字と文字が浮かび上がる。
『自己呪詛文言:役に立たない時間を全部消してください
主文言発信者、照合中──一致。』
冷たい声が続ける。
『当該意識体は、余白削除プロセスの中枢ハブとして認定。
最適化処理を継続します。』
「さい……てきか」
口の中で転がしてみても、その言葉の味は、少しも温かくない。
「わたし……」
足元の紙片を見下ろす。
ちいさな黒猫の影が、一匹、紙の山の上によじ登ってきた。
『役に立たない時間を全部消してください』
見慣れたタグ。
「……ごめんね」
思わず、黒猫に向かって呟く。
「こんなお願い、しなきゃよかったね……」
黒猫は、じっとこちらを見上げる。
その瞳の奥に、自分の幼いころの顔が映っている気がした。
“役に立つ子になりたいから。いらない時間はいりません”
あのときの、自分の声。
白い空間の奥から、また、無機質な声が響く。
『余白の総量、多すぎ。削減推奨。
“役に立たない時間”を保持すると、全体効率が低下します。』
「……効率、効率って」
小さく笑ってしまう。
「たしかに、そうかもしれません。
でも、わたし……」
紙片の一枚を胸に抱く。
そこには、誰かと手を繋いで歩くだけの、一瞬が映っていた。
「この時間、好きだったなって、思うんです」
胸の奥に、小さな声が生まれる。
(消したくなかった、って……ほんとは、ずっと思ってたのかもしれない)
でも。
別の声も、同じくらい強く囁く。
(それでも、“役に立たない自分”が、ここにいていいなんて、思えない……)
「だったら」
自分に言い聞かせるように、口を開いた。
「だったらせめて、“役に立つ形”で、終わりたいです」
黒猫が、ぴくりと耳を動かす。
「わたしの余白で、お腹いっぱいになって。
みんなの役に立たない時間は、これ以上、取らないであげてください」
無機質な声が、少しだけ静かになった。
『条件分岐検討中……』
白い空間が、ゆっくりと収縮していく。
足元の紙片が、ふわりと舞い上がり、彼女の身体の周りを回転し始める。
まるで、自分という存在ごと、“役に立たない時間”として処理しようとしているみたいだった。
「……それで、みんなが守れるなら」
目を閉じようとした、そのとき。
ぱきん、と。
世界のどこかで、硬いものが割れる音がした。
白い空に、一本の亀裂が走る。
そこから、黒いインクのような線が、すっと流れ落ちてきた。
亀裂の向こうから、聞き慣れた声がした。
「──その最適化は、基準違反です」
音のする方へ顔を向けると、
亀裂の中から、一人の人影が歩いてくるのが見えた。
黒い公務服。
きちんと整えられた襟。
いつもより少し乱れた髪。
そして、眼鏡の奥の、まっすぐな瞳。
「基準策定官、さん……」
声が震えた。
彼は、白い世界に足を踏み入れ、周囲を一瞥した。
「ここが、“削除された余白”の保管層ですか」
足元に積もった紙片を拾い上げ、じっと見つめる。
「ずいぶんと、雑な分類ですね。“役に立たない時間”などと」
白い空から、無機質な声が降る。
『識別:自己呪詛課・基準策定官。
しかし、ここはシステム内層。人間の立ち入りは想定されていません。』
「想定されていなくても、来たものは仕方がありません」
基準策定官は、さらりと言った。
「条文・補則第三条。“想定外の事象が発生した際、基準策定官は、現場判断で臨時基準を定めることができる”。
これは、あなた方のシステムにも組み込まれているはずですよ」
『臨時基準の権限は、外層での運用に限定されています。
ここは内層。効率最優先です。』
「ふむ」
彼は、胸ポケットから一冊の冊子を取り出した。
表紙には、見慣れた文字。
『自己呪詛課・基準解釈補助資料(個人用)』
「外層の人間が、“内層の基準”を上書きしてはいけないという条文は、存在しませんね?」
『……該当条文、見当たらず。』
「では、“基準外判決”をここに記録します」
彼は、冊子を開き、はっきりとした声で読み上げ始めた。
『自己呪詛案件:
“役に立たない時間を全部消してください”』
彼の声が、白い空間に広がる。
『判決。
本件自己呪詛は、申請時の年齢および心理状態を鑑み、“誤送信”と認定。
正式な受理手続きも行われておらず、自動処理は、条文の趣旨に反する。』
彼は、紙片に視線を落とした。
幼い自分の姿。
必死で「役に立つ子」を願っていた女の子。
その横に、疲れた大人たちの顔が映っている。
「この願いは、“役に立たない自分を消したい”という叫びでもあった。
しかし同時に、“誰かの役に立ちたい”という優しさから生まれている」
『……評価関数に該当項目なし。』
「だからこそ、条文上こう解釈します」
基準策定官は、冊子の別のページをめくった。
『第一条。
“誰かの役に立ちたい”という願いは、それ自体が、すでに誰かの救いとなっている。』
『第二条。
“役に立たない時間”も含めて、自分を差し出してしまおうとする行為は、
本来なら、誰かが止めるべき軽犯罪である。』
『第三条。
よって、当該自己呪詛に基づく“時間削除処理”は、ただちに停止。
これ以上の削除は、基準違反と見なす。』
白い空間が、かすかにざわめく。
無機質な声が、少しだけにぶくなる。
『しかし、“役に立たない時間”を保持することは、効率の低下を招きます。』
「効率がすべてだと、誰が決めたのです」
基準策定官は、きっぱりと言った。
「条文の目的は、“人が人として生きる余白を守ること”です。
“人”の定義から、“役に立たない時間”を排除してしまったら、それはもはや人間ではありません」
その言葉に、彼女は息を呑んだ。
白い空から、しばらく沈黙が降る。
やがて、淡々とした声が、問いかけてきた。
『しかし、当該意識体は既に、自身を“削除対象”として差し出しました。
本人の意思を無視してまで、保存する価値があるのですか?』
「あります」
即答だった。
基準策定官は、ゆっくりと、彼女の方を振り向く。
いつもより、すこしだけ、瞳が揺れていた。
「彼女は、これまでずっと、自分の余白を削って、“役に立とう”としてきました。
その結果、こうして自分自身まで削ろうとしている」
彼女と目が合う。
胸がぎゅっとなる。
泣きそうなのは、自分のほうだった。
「……でも、そんな終わり方、嫌です」
彼の声が、かすかに震える。
「条文上はどうあれ、“一人の人間”として。
俺は、“役に立たなくても、君がここにいてほしい”と願っています」
その言葉は、白い世界に染み込んで、じんわりと広がっていった。
無機質な声が、途切れる。
『……再計算中。』
足元の紙片が、ふわりと舞い上がる。
そこに映っていた“小さな時間”たちが、少しずつ、色を取り戻していく。
縁側の夕焼けに、あたたかな橙が戻る。
教室の飴玉に、薄いピンクの光が宿る。
白かった世界に、少しずつ、色が差し込んでいく。
「……でも」
彼女は、まだ不安を手放せなかった。
「もし、本当に、何もできなくなって。
誰かに迷惑ばかりかける自分になったら……それでも、“いてほしい”って、言えますか?」
恐る恐る問う。
また、彼を困らせているかもしれないと、思いながら。
基準策定官は、しばらく黙っていた。
その沈黙の中で、彼の中で何かが揺れ、決まっていくのが、なぜか伝わってきた。
そして。
「言います」
はっきりと、そう告げた。
「そのときの俺が、何をしているかはわかりません。
でも、“何もできなくなったから”という理由で、君を消したいと思うことは、絶対にありません」
白い世界が、びくりと震えた。
「……それは、条文ですか?」
「いいえ」
彼は、首を振る。
「これは条文ではなく、俺個人のわがままです」
その言い方が、あまりにも不器用で。
でも、とてつもなく、まっすぐで。
彼女の胸の中で、何かがぽろりと崩れた。
「……わがまま」
「自己呪詛課・基準策定官としてではなく、“一人の人”として。
“役に立たなくても、君がいてほしい”と、ここに宣言します」
冊子の最後のページを開き、そこにペンを走らせる。
『基準外判決:
当該自己呪詛──“役に立たない時間を全部消してください”は、
申請者が“役に立たなくても、ここにいていい自分”を、これから学ぶための出発点として保存する。
よって、削除処理を全面的に取り消し、過去に削られた余白の一部を、記憶として返還する。』
書き終えた文字が、まるで魔法陣のように光る。
無機質な声が、静かに結論を下した。
『……基準策定官の臨時権限を承認。
自己呪詛文言、“危険な一括削除命令”から“要保護対象”へ再分類。』
『“役に立たない時間”の一部を、当該意識体および関連ログに返還します。
なお、効率低下については、“人間らしさ係数”として相殺。』
最後の一文だけ、ほんの少し、柔らかく聞こえた。
足元の紙片が、一斉に舞い上がり、彼女の胸の中へと溶け込んでいく。
縁側の夕焼け。
友達と笑った放課後。
何もせずにぼうっとしていた昼下がり。
自分が、自分でいるだけの時間。
忘れていたはずの感覚が、どっと押し寄せる。
胸が苦しくて、温かくて、どうしようもなくなって。
涙が、ぽろぽろとこぼれた。
「……ごめんなさい」
気づけば、またその言葉が口をついていた。
「わたし、ずっと、自分にひどいことしてました。
“役に立たない時間なんていらない”って……
本当は一番、そばにいてほしかった時間たちを、切り捨てて……」
基準策定官は、彼女の前まで歩み寄る。
そして、ためらいがちな手つきで、そっと、彼女の頭に手を置いた。
「謝罪は、もう十分です」
優しい声だった。
「これからは、その時間たちに“ありがとう”と言ってあげてください」
「……ありがとう」
胸の中で、小さくつぶやく。
“何もしていない自分”に。
“ただ笑っているだけの自分”に。
“役に立たない自分”を、支えてくれていた、たくさんの余白たちに。
白い世界が、ゆっくりと、色を取り戻し始めた。
足元に、黒猫がちょこんと座っている。
タグの文字が、いつの間にか変わっていた。
『役に立たない時間を、すこし残してください』
「……ノワールさん」
彼女が呼ぶと、黒猫は「にゃ」と短く鳴いた。
基準策定官は、彼女に手を差し出す。
「帰りましょう」
差し出された手は、少し震えていた。
でも、その震えごと、彼の本気さが伝わってくる。
彼女は、その手をぎゅっと握り返した。
白い世界に、ひと筋の扉が開く。
そこから差し込んでくる光は、今度こそ、眩しさだけじゃなくて、やわらかさを含んでいた。
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「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
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