役に立たない時間を抱きしめて――自己呪詛課のやさしい基準外判決

星乃和花

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第12話 「役に立たなくても、君がいてほしい」

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 まぶしい、白。

 目を開けているのか、閉じているのかさえ、よくわからない。
 上下も、右左も、どこまでが自分で、どこからが世界なのかも、曖昧だった。

「……ここ、は……」

 声を出すと、その音だけが、ぽつんと白に落ちる。

 次の瞬間、足元に、紙片が一つ、ひらりと落ちてきた。

 拾い上げると、それは小さな、切り抜かれた時間だった。

 幼い自分が、縁側でぼうっと夕焼けを眺めている。
 ただ、空の色を見ていて、何もしていない。
 でも、その横で、お母さんが洗濯物を干しながら、少しだけ顔を緩めているのが映っていた。

 紙片の端には、小さな文字が書いてある。

『役に立たない時間:00:15』

「あ……」

 指先が震える。

 別の紙片が、またひらりと落ちてきた。

 今度は、小学校の教室。
 テストの点で落ち込んでいた友達の隣で、自分がドキドキしながら、飴玉を差し出している。
 「大丈夫だよ」と言った、その一瞬だけの笑顔。

『役に立たない時間:00:01』

「そんな……」

 白い空から、次々と紙片が降ってくる。

 全部、どこかで見たことのある景色。
 自分が、誰かと笑っていたり、ただ眠っていたり、くだらないことで笑い転げていた、小さな時間たち。

 どれも、端っこには、同じ分類が押されていた。

『役に立たない時間』

 胸が、ぎゅっと痛くなる。

「これ、全部……わたしが、消してきた時間……?」

 足元に、紙片が山のように積もっていく。
 それは自分のものだけじゃない。
 見知らぬ誰かが、コーヒーを飲みながら本を読んでいる時間。
 廊下の雑談。
 窓の外の雨粒を数えている時間。

 どれも「役に立たない」と判定されて、ここに落ちてきている。

 ふと、耳の奥で、無機質な声がした。

『自己呪詛管理システム・余白処理区画。
 未定義の意識体を確認。識別番号──』

「……え?」

 白い空の向こうに、うっすらと、数字と文字が浮かび上がる。

『自己呪詛文言:役に立たない時間を全部消してください
 主文言発信者、照合中──一致。』

 冷たい声が続ける。

『当該意識体は、余白削除プロセスの中枢ハブとして認定。
 最適化処理を継続します。』

「さい……てきか」

 口の中で転がしてみても、その言葉の味は、少しも温かくない。

「わたし……」

 足元の紙片を見下ろす。

 ちいさな黒猫の影が、一匹、紙の山の上によじ登ってきた。

『役に立たない時間を全部消してください』

 見慣れたタグ。

「……ごめんね」

 思わず、黒猫に向かって呟く。

「こんなお願い、しなきゃよかったね……」

 黒猫は、じっとこちらを見上げる。

 その瞳の奥に、自分の幼いころの顔が映っている気がした。

 “役に立つ子になりたいから。いらない時間はいりません”

 あのときの、自分の声。

 白い空間の奥から、また、無機質な声が響く。

『余白の総量、多すぎ。削減推奨。
 “役に立たない時間”を保持すると、全体効率が低下します。』

「……効率、効率って」

 小さく笑ってしまう。

「たしかに、そうかもしれません。
 でも、わたし……」

 紙片の一枚を胸に抱く。

 そこには、誰かと手を繋いで歩くだけの、一瞬が映っていた。

「この時間、好きだったなって、思うんです」

 胸の奥に、小さな声が生まれる。

(消したくなかった、って……ほんとは、ずっと思ってたのかもしれない)

 でも。

 別の声も、同じくらい強く囁く。

(それでも、“役に立たない自分”が、ここにいていいなんて、思えない……)

「だったら」

 自分に言い聞かせるように、口を開いた。

「だったらせめて、“役に立つ形”で、終わりたいです」

 黒猫が、ぴくりと耳を動かす。

「わたしの余白で、お腹いっぱいになって。
 みんなの役に立たない時間は、これ以上、取らないであげてください」

 無機質な声が、少しだけ静かになった。

『条件分岐検討中……』

 白い空間が、ゆっくりと収縮していく。
 足元の紙片が、ふわりと舞い上がり、彼女の身体の周りを回転し始める。

 まるで、自分という存在ごと、“役に立たない時間”として処理しようとしているみたいだった。

「……それで、みんなが守れるなら」

 目を閉じようとした、そのとき。

 ぱきん、と。

 世界のどこかで、硬いものが割れる音がした。

 白い空に、一本の亀裂が走る。

 そこから、黒いインクのような線が、すっと流れ落ちてきた。

 亀裂の向こうから、聞き慣れた声がした。

「──その最適化は、基準違反です」

 音のする方へ顔を向けると、
 亀裂の中から、一人の人影が歩いてくるのが見えた。

 黒い公務服。
 きちんと整えられた襟。
 いつもより少し乱れた髪。

 そして、眼鏡の奥の、まっすぐな瞳。

「基準策定官、さん……」

 声が震えた。

 彼は、白い世界に足を踏み入れ、周囲を一瞥した。

「ここが、“削除された余白”の保管層ですか」

 足元に積もった紙片を拾い上げ、じっと見つめる。

「ずいぶんと、雑な分類ですね。“役に立たない時間”などと」

 白い空から、無機質な声が降る。

『識別:自己呪詛課・基準策定官。
 しかし、ここはシステム内層。人間の立ち入りは想定されていません。』

「想定されていなくても、来たものは仕方がありません」

 基準策定官は、さらりと言った。

「条文・補則第三条。“想定外の事象が発生した際、基準策定官は、現場判断で臨時基準を定めることができる”。
 これは、あなた方のシステムにも組み込まれているはずですよ」

『臨時基準の権限は、外層での運用に限定されています。
 ここは内層。効率最優先です。』

「ふむ」

 彼は、胸ポケットから一冊の冊子を取り出した。

 表紙には、見慣れた文字。

『自己呪詛課・基準解釈補助資料(個人用)』

「外層の人間が、“内層の基準”を上書きしてはいけないという条文は、存在しませんね?」

『……該当条文、見当たらず。』

「では、“基準外判決”をここに記録します」

 彼は、冊子を開き、はっきりとした声で読み上げ始めた。

『自己呪詛案件:
 “役に立たない時間を全部消してください”』

 彼の声が、白い空間に広がる。

『判決。
 本件自己呪詛は、申請時の年齢および心理状態を鑑み、“誤送信”と認定。
 正式な受理手続きも行われておらず、自動処理は、条文の趣旨に反する。』

 彼は、紙片に視線を落とした。

 幼い自分の姿。
 必死で「役に立つ子」を願っていた女の子。

 その横に、疲れた大人たちの顔が映っている。

「この願いは、“役に立たない自分を消したい”という叫びでもあった。
 しかし同時に、“誰かの役に立ちたい”という優しさから生まれている」

『……評価関数に該当項目なし。』

「だからこそ、条文上こう解釈します」

 基準策定官は、冊子の別のページをめくった。

『第一条。
 “誰かの役に立ちたい”という願いは、それ自体が、すでに誰かの救いとなっている。』

『第二条。
 “役に立たない時間”も含めて、自分を差し出してしまおうとする行為は、
 本来なら、誰かが止めるべき軽犯罪である。』

『第三条。
 よって、当該自己呪詛に基づく“時間削除処理”は、ただちに停止。
 これ以上の削除は、基準違反と見なす。』

 白い空間が、かすかにざわめく。

 無機質な声が、少しだけにぶくなる。

『しかし、“役に立たない時間”を保持することは、効率の低下を招きます。』

「効率がすべてだと、誰が決めたのです」

 基準策定官は、きっぱりと言った。

「条文の目的は、“人が人として生きる余白を守ること”です。
 “人”の定義から、“役に立たない時間”を排除してしまったら、それはもはや人間ではありません」

 その言葉に、彼女は息を呑んだ。

 白い空から、しばらく沈黙が降る。

 やがて、淡々とした声が、問いかけてきた。

『しかし、当該意識体は既に、自身を“削除対象”として差し出しました。
 本人の意思を無視してまで、保存する価値があるのですか?』

「あります」

 即答だった。

 基準策定官は、ゆっくりと、彼女の方を振り向く。

 いつもより、すこしだけ、瞳が揺れていた。

「彼女は、これまでずっと、自分の余白を削って、“役に立とう”としてきました。
 その結果、こうして自分自身まで削ろうとしている」

 彼女と目が合う。

 胸がぎゅっとなる。
 泣きそうなのは、自分のほうだった。

「……でも、そんな終わり方、嫌です」

 彼の声が、かすかに震える。

「条文上はどうあれ、“一人の人間”として。
 俺は、“役に立たなくても、君がここにいてほしい”と願っています」

 その言葉は、白い世界に染み込んで、じんわりと広がっていった。

 無機質な声が、途切れる。

『……再計算中。』

 足元の紙片が、ふわりと舞い上がる。
 そこに映っていた“小さな時間”たちが、少しずつ、色を取り戻していく。

 縁側の夕焼けに、あたたかな橙が戻る。
 教室の飴玉に、薄いピンクの光が宿る。

 白かった世界に、少しずつ、色が差し込んでいく。

「……でも」

 彼女は、まだ不安を手放せなかった。

「もし、本当に、何もできなくなって。
 誰かに迷惑ばかりかける自分になったら……それでも、“いてほしい”って、言えますか?」

 恐る恐る問う。

 また、彼を困らせているかもしれないと、思いながら。

 基準策定官は、しばらく黙っていた。

 その沈黙の中で、彼の中で何かが揺れ、決まっていくのが、なぜか伝わってきた。

 そして。

「言います」

 はっきりと、そう告げた。

「そのときの俺が、何をしているかはわかりません。
 でも、“何もできなくなったから”という理由で、君を消したいと思うことは、絶対にありません」

 白い世界が、びくりと震えた。

「……それは、条文ですか?」

「いいえ」

 彼は、首を振る。

「これは条文ではなく、俺個人のわがままです」

 その言い方が、あまりにも不器用で。
 でも、とてつもなく、まっすぐで。

 彼女の胸の中で、何かがぽろりと崩れた。

「……わがまま」

「自己呪詛課・基準策定官としてではなく、“一人の人”として。
 “役に立たなくても、君がいてほしい”と、ここに宣言します」

 冊子の最後のページを開き、そこにペンを走らせる。

『基準外判決:
 当該自己呪詛──“役に立たない時間を全部消してください”は、
 申請者が“役に立たなくても、ここにいていい自分”を、これから学ぶための出発点として保存する。
 よって、削除処理を全面的に取り消し、過去に削られた余白の一部を、記憶として返還する。』

 書き終えた文字が、まるで魔法陣のように光る。

 無機質な声が、静かに結論を下した。

『……基準策定官の臨時権限を承認。
 自己呪詛文言、“危険な一括削除命令”から“要保護対象”へ再分類。』

『“役に立たない時間”の一部を、当該意識体および関連ログに返還します。
 なお、効率低下については、“人間らしさ係数”として相殺。』

 最後の一文だけ、ほんの少し、柔らかく聞こえた。

 足元の紙片が、一斉に舞い上がり、彼女の胸の中へと溶け込んでいく。

 縁側の夕焼け。
 友達と笑った放課後。
 何もせずにぼうっとしていた昼下がり。
 自分が、自分でいるだけの時間。

 忘れていたはずの感覚が、どっと押し寄せる。

 胸が苦しくて、温かくて、どうしようもなくなって。
 涙が、ぽろぽろとこぼれた。

「……ごめんなさい」

 気づけば、またその言葉が口をついていた。

「わたし、ずっと、自分にひどいことしてました。
 “役に立たない時間なんていらない”って……
 本当は一番、そばにいてほしかった時間たちを、切り捨てて……」

 基準策定官は、彼女の前まで歩み寄る。

 そして、ためらいがちな手つきで、そっと、彼女の頭に手を置いた。

「謝罪は、もう十分です」

 優しい声だった。

「これからは、その時間たちに“ありがとう”と言ってあげてください」

「……ありがとう」

 胸の中で、小さくつぶやく。

 “何もしていない自分”に。
 “ただ笑っているだけの自分”に。
 “役に立たない自分”を、支えてくれていた、たくさんの余白たちに。

 白い世界が、ゆっくりと、色を取り戻し始めた。

 足元に、黒猫がちょこんと座っている。

 タグの文字が、いつの間にか変わっていた。

『役に立たない時間を、すこし残してください』

「……ノワールさん」

 彼女が呼ぶと、黒猫は「にゃ」と短く鳴いた。

 基準策定官は、彼女に手を差し出す。

「帰りましょう」

 差し出された手は、少し震えていた。
 でも、その震えごと、彼の本気さが伝わってくる。

 彼女は、その手をぎゅっと握り返した。

 白い世界に、ひと筋の扉が開く。

 そこから差し込んでくる光は、今度こそ、眩しさだけじゃなくて、やわらかさを含んでいた。
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