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第4話 「役に立つ」の定義、条文で戦います
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「それでは本日のお題です」
午後の静かな時間。
自己呪詛課の一角に、即席の講義スペースが用意されていた。
ホワイトボード代わりの魔法板。
その前に立つ基準策定官。
その向かいの椅子に、ちょこんと座る見習い書記官。
彼は、板の上に大きく二つの円を描いた。
「左が“役に立つ時間”。右が“役に立たない時間”。あなたの感覚では、どんな行為が右側に入りますか」
「え……えっと……」
問いかけられて、彼女は俯いた。
「ちゃんと仕事をしていない時間、です。ぼーっとしてるとか、関係のないことを考えてるとか……」
「ふむ。他には?」
「誰かの役に立っていない時間。あまり必要とされていないんじゃないかな、と思う瞬間……とか」
それは、彼女の胸の奥で長いあいだ響いていた恐れそのものだ。
基準策定官は、しばし黙って彼女を見つめたあと、すっとペンを動かした。
右側の円に『世界の全てのぼんやり』『一人で飲むお茶』『他人に知られていない努力』と書き込んでいく。
「あなたの感覚を可視化すると、こうなります」
「わ……わあ……思っていたより、たくさん……」
「ここで、条文を見ましょう」
彼は棚から分厚い法令集を取り出し、ぱらりと開いた。
「祝福配合省・職員規程、第七条。『職務の遂行に必要な心身の状態を保つための行為は、すべて“職務上必要な時間”とみなす』」
そう言って、左側の円に『睡眠』『食事』『休憩』『ぼんやり』『一人で飲むお茶』を書き足す。
「えっ、“ぼんやり”もこっちなんですか?」
「はい。過度でなければ、“必要”です」
「でも、“必要とされてる”って感じがしないのに……」
「“感じ”は主観です。条文は客観です」
彼は真顔で言い切った。
「あなたは、いつも“誰かの期待”“誰かの評価”に、自分の価値を結びつけてしまうようですが……」
ペン先が右側の円をとん、と叩く。
「この円は、ちょっと膨らみすぎていますね」
「ふ、膨らみ……」
「減量が必要です」
その言い方が妙に真剣で、彼女はくすっと笑ってしまった。
「じゃあ、どうやって減らせばいいんですか……?」
「簡単です」
基準策定官は、右の円から『ぼんやり』『一人で飲むお茶』を消し、左に移動させる線を描いた。
「条文に照らして、“役に立つ”と再定義します」
「さい、ていぎ……」
「例えば、“お茶を飲む時間”。あなたは“役に立たないから”と削ろうとしますが、私は“集中力を維持するために必要”と判断します」
「で、でも……本当にそう言い切っていいのかなって……」
「言い切るために、条文があるのです」
淡々とした口調の中に、彼なりの信念がにじむ。
「世界はときどき、“役に立つものだけを残そう”と、乱暴な整理整頓をしようとします。けれど、そのまま従ってしまうと、あなたのように大事な余白まで削られてしまう」
彼は黒猫書類を一瞥した。
黒猫は、丸くなって彼らの足元で寝息を立てている。
「だから、私たち“基準策定官”は、条文の側から異議を唱えます。“それも必要です”“それも役に立っています”と」
「……条文って、そんな優しい使い方もできるんですね」
「本来は、そうあるべきだと私は思います」
彼は、魔法板の円を二つ、片手で覆うように見つめた。
「あなたの中の“役に立たなきゃ”という古い条文は、子どものころの状況で作られた暫定規定です。大人になった今のあなたには、合っていません」
「暫定……規定……」
「更新の時期です」
さらりと告げられた言葉に、彼女の胸が小さくざわついた。
更新。
古いルールを、書き換えてもいいと言われたような響き。
「……でも、わたし、いざとなると、“これは役に立つから大丈夫”って、自分で思える気がしなくて……」
「いいでしょう。その役目は当面、私が引き受けます」
「えっ?」
「あなたが迷ったときは、こう言ってください。“条文上、大丈夫かどうか、教えてください”と」
彼は、彼女の視線をまっすぐ受け止めて続ける。
「自己呪詛課・基準策定官として、あなたの余白時間が“必要”であるかを、何度でも判断します」
それは、彼なりの「大丈夫ですよ」というおまじないだった。
ヒールの音が廊下から近づいてきて、窓口から呼び出しのベルが鳴る。
講義は一旦、そこでお開きになった。
魔法板には、二つの円と、間を行き来する矢印が残されている。
『役に立つ』と『役に立たない』。
その境目は、彼と共に少しずつ、描き換えられていくのかもしれない。
午後の静かな時間。
自己呪詛課の一角に、即席の講義スペースが用意されていた。
ホワイトボード代わりの魔法板。
その前に立つ基準策定官。
その向かいの椅子に、ちょこんと座る見習い書記官。
彼は、板の上に大きく二つの円を描いた。
「左が“役に立つ時間”。右が“役に立たない時間”。あなたの感覚では、どんな行為が右側に入りますか」
「え……えっと……」
問いかけられて、彼女は俯いた。
「ちゃんと仕事をしていない時間、です。ぼーっとしてるとか、関係のないことを考えてるとか……」
「ふむ。他には?」
「誰かの役に立っていない時間。あまり必要とされていないんじゃないかな、と思う瞬間……とか」
それは、彼女の胸の奥で長いあいだ響いていた恐れそのものだ。
基準策定官は、しばし黙って彼女を見つめたあと、すっとペンを動かした。
右側の円に『世界の全てのぼんやり』『一人で飲むお茶』『他人に知られていない努力』と書き込んでいく。
「あなたの感覚を可視化すると、こうなります」
「わ……わあ……思っていたより、たくさん……」
「ここで、条文を見ましょう」
彼は棚から分厚い法令集を取り出し、ぱらりと開いた。
「祝福配合省・職員規程、第七条。『職務の遂行に必要な心身の状態を保つための行為は、すべて“職務上必要な時間”とみなす』」
そう言って、左側の円に『睡眠』『食事』『休憩』『ぼんやり』『一人で飲むお茶』を書き足す。
「えっ、“ぼんやり”もこっちなんですか?」
「はい。過度でなければ、“必要”です」
「でも、“必要とされてる”って感じがしないのに……」
「“感じ”は主観です。条文は客観です」
彼は真顔で言い切った。
「あなたは、いつも“誰かの期待”“誰かの評価”に、自分の価値を結びつけてしまうようですが……」
ペン先が右側の円をとん、と叩く。
「この円は、ちょっと膨らみすぎていますね」
「ふ、膨らみ……」
「減量が必要です」
その言い方が妙に真剣で、彼女はくすっと笑ってしまった。
「じゃあ、どうやって減らせばいいんですか……?」
「簡単です」
基準策定官は、右の円から『ぼんやり』『一人で飲むお茶』を消し、左に移動させる線を描いた。
「条文に照らして、“役に立つ”と再定義します」
「さい、ていぎ……」
「例えば、“お茶を飲む時間”。あなたは“役に立たないから”と削ろうとしますが、私は“集中力を維持するために必要”と判断します」
「で、でも……本当にそう言い切っていいのかなって……」
「言い切るために、条文があるのです」
淡々とした口調の中に、彼なりの信念がにじむ。
「世界はときどき、“役に立つものだけを残そう”と、乱暴な整理整頓をしようとします。けれど、そのまま従ってしまうと、あなたのように大事な余白まで削られてしまう」
彼は黒猫書類を一瞥した。
黒猫は、丸くなって彼らの足元で寝息を立てている。
「だから、私たち“基準策定官”は、条文の側から異議を唱えます。“それも必要です”“それも役に立っています”と」
「……条文って、そんな優しい使い方もできるんですね」
「本来は、そうあるべきだと私は思います」
彼は、魔法板の円を二つ、片手で覆うように見つめた。
「あなたの中の“役に立たなきゃ”という古い条文は、子どものころの状況で作られた暫定規定です。大人になった今のあなたには、合っていません」
「暫定……規定……」
「更新の時期です」
さらりと告げられた言葉に、彼女の胸が小さくざわついた。
更新。
古いルールを、書き換えてもいいと言われたような響き。
「……でも、わたし、いざとなると、“これは役に立つから大丈夫”って、自分で思える気がしなくて……」
「いいでしょう。その役目は当面、私が引き受けます」
「えっ?」
「あなたが迷ったときは、こう言ってください。“条文上、大丈夫かどうか、教えてください”と」
彼は、彼女の視線をまっすぐ受け止めて続ける。
「自己呪詛課・基準策定官として、あなたの余白時間が“必要”であるかを、何度でも判断します」
それは、彼なりの「大丈夫ですよ」というおまじないだった。
ヒールの音が廊下から近づいてきて、窓口から呼び出しのベルが鳴る。
講義は一旦、そこでお開きになった。
魔法板には、二つの円と、間を行き来する矢印が残されている。
『役に立つ』と『役に立たない』。
その境目は、彼と共に少しずつ、描き換えられていくのかもしれない。
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