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第8話 ──「“役に立たないとダメな人”ゾーンの話」
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その日は、朝からずっと胸のあたりが重かった。
理由は、分かっている。
午後一番にあった、
半期の評価面談だ。
「全体的にはよくやってくれていると思うよ」
課長は、いつもの穏やかな声でそう言った。
(よし、とりあえず減点スタートじゃない……と、今は思っている)
そう思ったのも束の間、
「ただ、〇〇さんって、
“周りを支えるタイプ”だからさ」
「はい……?」
「目立つ成果は少ないけど、
細かいところを拾ってくれる、みたいな。
“いないと困る”んだけど、
“何をしてるか説明しづらい”っていうか……」
見ているのかいないのか、
よく分からない遠くの一点を見据えながら、
課長は続けた。
「だから、評価シートの項目にうまく当てはまらないんだよね。
“ここがすごい”って見せづらくて」
「ああ……」
分かる。
言っていることは、分かる。
でも、心のどこかで
別の翻訳が走る。
(=「替えがきく」ってことかな……?)
(=「いてもいなくても分かりづらい」ってことかな……?)
課長は悪気なく言っている。
たぶん本当に、「いないと困る」と思ってくれているのだろう。
でも、“評価”という言葉がくっついた瞬間、
わたしの中のどこかが、きゅっと固まった。
帰り際、課長はフォローを足した。
「ほら、“縁の下の力持ち枠”って、
評価制度が追いついてないところあるからさ。
そこは、こっちの課題でもあるんだけど」
「いえ……ありがとうございます」
頭では理解している。
うん、そうなんだろうな、と思う。
でも、頭とは別の場所で。
(わたし、本当に“いてもいなくてもいい人”なんじゃないかな)
そんな声が、
じわじわとにじみ出していた。
◇
デスクに戻ると、
モニターの横の付箋が目に入る。
『今日もなんだかんだで一日を終えた人』
『月曜にちゃんと来た人もえらい』
『なんだかんだで資料直した人もえらい』
(……“評価面談を受けた人もえらい”って付箋、追加したい)
心の中でつぶやきながら、
とりあえず深呼吸。
でも、胸にまとわりついた重さは、
なかなか薄れない。
“いてもいなくても変わらない”。
昔、どこかで聞いたようなフレーズが
頭の片隅でうずく。
(あー……これ、多分、“自分の重たいゾーン”案件だ)
店長の顔と、
“重たいゾーンにはひとりで入らない”ルールが思い浮かんだ。
その時点で、
わたしの今日の予定は、ほぼ決まった。
(今日は、グリモワール行きます……と、今は思っている)
◇
定時ちょっと過ぎ。
会社を出て、
いつもの路地を曲がる。
グリモワール雑貨店の看板には、
今日も何やら書いてある。
『自己否定、お持ち込みください
本日:
“評価面談後の人”には多めに砂糖入れます』
「……なんで分かったんですか?」
思わず看板にツッコんでから、
扉を開ける。
ベルがちりんと鳴り、
店長が顔を上げた。
「いらっしゃい。“評価されちゃった人”」
「“されちゃった”って言い方、ちょっと優しいですね」
「評価面談って、
“自分の取扱説明書を他人に読み上げられる会”だからね。
そりゃ疲れるよ」
「それ、めちゃくちゃ分かりやすいです……」
思わず笑いそうになる。
笑いそうになるけど、
胸の奥はまだ重い。
店長は、そのあたりの空気を
すぐに読み取ったらしい。
「今日は、“入り口ほめ札”飛ばして、
先に温かい飲み物いきますか?」
「はい……今日は、なんか、
先に“ほご句”を胃に入れたいです」
「名言出ましたね、それ」
店長は、カウンター奥で
マグを二つ用意し始める。
「コーヒーとココア、どっちにする?」
「“強がりたいけど本音は疲れてる日”におすすめなのは?」
「ハーフ&ハーフで、“カフェモカ風ほご句”ですね」
「そんなオリジナルブレンド聞いたことないです」
「今作ったからね」
くだらないやり取りで、
少しだけ呼吸が整う。
でも、マグが目の前に置かれた瞬間、
胸の重さがまたじわっと浮かび上がってきた。
今日のわたしは、
誤魔化しきれないらしい。
◇
「……あの、店長」
カフェモカを一口飲んでから、
わたしは切り出した。
「うん?」
「今日、会社で評価面談があって」
「ああ。看板、当たってた?」
「見事に」
苦笑しつつ、
面談の内容をかいつまんで話す。
“周りを支えるタイプ”だと言われたこと。
“いないと困るけど、説明しづらい”と言われたこと。
その言葉が無意識のうちに
「いてもいなくても変わらない」に変換されてしまったこと。
店長は、途中で口を挟まず、
静かに聞いていた。
話し終わったあと、
マグの縁を指でなぞりながら言う。
「……うん、それは、“自分の重たいゾーン”の入口っぽいね」
「やっぱり、そうですよね」
「うん。“役に立てないなら存在価値がないゾーン”みたいなやつ」
「名前が、妙に具体的……」
「このタイプのゾーン、けっこうメジャーだから」
あっさり言われて、
少しだけホッとする。
(あ、これ、“私だけじゃない”系だ)
でも、胸の奥の重さは、そのまま。
「……正直に言うと、
何回か頭をよぎったんです」
「うん」
「“わたし、いなくてもよくない?”って」
その言葉を口にした瞬間、
マグを持つ手の指先が冷たくなった。
店長は、すぐには反応しない。
ほんの数秒の沈黙。
それから、
いつもの軽いトーンより少しだけ低い声で言う。
「“いなくてもよくない?”ってやつはね。
“いなくなりたい”とは、似てるけど別モノなんだよ」
「別モノ……?」
「“仕事の場からいなくてもよくない?”なのか、
“この部屋からいなくてもよくない?”なのか、
“世界からいなくてもよくない?”なのか」
段々形式で説明されて、
思わず苦笑する。
「レベル、ありますね……」
「ある。で、新人さんのは、どのあたり?」
問われて、
少し考える。
今日、会議室を出たときに
頭をかすめたイメージを思い出す。
(“わたしがいなくても、会社回るよな”)
そのあとに続いたのは――
(“だったら、別にここにこだわらなくてもいいのかな”)
そんなぼんやりした感覚だった。
世界から消える、とか、
そういう極端な絵は浮かばなかった。
「……たぶん、“この会社からいなくてもよくない?”レベルかもです」
「うん、それ、大事な情報ね」
店長は、ほっとしたように
息をひとつ吐いた。
「“世界から”まで行ってるときは、
専門家の力もフル動員案件だから」
「フル動員案件……」
「うん。“グリモワール単独では対応しません”ってやつね」
そこはきっちり線を引くんだな、と思う。
「じゃあ、新人さんの“重たいゾーン”は、
ひとまず“居場所”のレベルってことで」
店長は、カウンターの下から
ノートを一冊取り出した。
例の、“知りすぎた棚”ノートとは違う、
新しい表紙だ。
表紙にはこう書かれている。
『重たいゾーンの見取り図(書き換え可)』
「これは?」
「“自分の重たいゾーンを、
ちょっと外から眺めるためのノート”」
店長は、ページを開きながら説明する。
「いきなり中に入るんじゃなくて、
“入口に立つとき、どんな看板が見えるか”だけ書くやつ」
「看板……?」
「たとえば、“役に立てないなら存在価値がないゾーン”の入口には、
だいたいこういうことが書いてある」
さらさらとペンを走らせる。
そこには、こう書かれた。
『ここから先に入る条件:
・なんとなく疲れている
・最近怒られてないのに、自分を責めたい
・他人からの“ありがとう”を信用できない』
「あ、三つ目……」
妙に心当たりがあって、
思わず声が出る。
店長は、わたしの顔をちらりと見て、
にやりとした。
「図星?」
「“ありがとう”って言われても、
自動的に“社交辞令だろうな”って思うことがあって……」
「それ、“このゾーン、入場券持ってますね”のサインです」
「嫌なサインだなあ」
苦笑しながらも、
どこかで腑に落ちるものがある。
店長は、ノートをわたしのほうへ押しやった。
「じゃあ、新人さんバージョンの看板も、
ちょっと書いてみる?」
「わたしバージョン……」
「“自分の重たいゾーンに近づきそうなとき、
頭の中でどんなセリフが流れるか”」
ペンを渡され、
少しだけ迷ったあと、ゆっくり書き始める。
『〇〇さんの“役に立たないとダメな人ゾーン”入口の看板
・“わたしじゃなくてもよくない?”が、頭に浮かぶ
・“いなくても回るよな”と、想像がはじまる
・“今日くらい休んでもいいかも”と思うと同時に、
“でも休んだら見捨てられる”が出てくる』
書きながら、
胸のあたりがじんじんしてくる。
これが、自分の中にあった言葉なんだと
改めて見せつけられる感じ。
店長は、その文字をしばらく眺めてから、
静かに言った。
「……うん、けっこう“重たいゾーン入り口あるある”だね」
「“あるある”なんだ……」
「“わたしじゃなくてもよくない?”って言葉ね、
裏側にだいたい、“わたしじゃなきゃダメって言ってほしい”が
くっついてるんだよ」
「……」
図星すぎて、
ちょっと泣きそうになる。
「それを、誰にも言えないから、
言えないまま、
“役に立ち続ける”っていう演目をやる」
「演目……」
「“替えのきく歯車”役、ね。
本当は、“替えのきかない人”役もやってみたいんだけど」
それを言われた瞬間、
胸の奥がぐしゃっと音を立てた気がした。
「……やってみたいです、正直」
「だよね」
店長は、何でもないことのようにうなずく。
「だから、“重たいゾーン”に入る前に、
まずは入口で、
“その本音、ここに置いとこうか”ってやるわけ」
ノートの空いているところに、
店長はさらさらと書き足した。
『このゾーンに入る前に、
“わたし、ほんとはこう言ってほしい”メモを書くこと。
例:
・“あなたじゃなきゃダメって言ってほしい”
・“助けになれてる?って聞きたい”
・“いてくれてよかったって言われたい”』
「……」
文字を見た途端、
目の奥がぐわっと熱くなった。
やばい、と思ったけれど、
もう遅い。
「……言われたいです、それ」
「うん。言われたいよね」
店長の声が、
いつもよりずっと柔らかい。
「“役に立たないとダメな人ゾーン”ってね、
“役に立たないと愛されない”ゾーンとつながってるから」
「愛されない……」
「うん。だから、“評価面談”とか、
“数字”とか“成果”とかが出てくると、
そっちのゾーンのドアも軋む」
店長は、ペンを置いて、
わたしのマグを指差した。
「今日、新人さんがここに来たのは、
かなりナイス判断だよ」
「ナイス判断……?」
「うん。“自分の重たいゾーン”がガタガタし始めたときに、
“あ、これはひとりで入ったらやばいやつだ”って
ちゃんと気づいたってことだから」
そう言って、
ノートの隅に小さく書き足してくれる。
『本日:
・評価面談後、“自分の重たいゾーン”の入口に気づいた
・ひとりで入らず、店長を連れてきた
→ それ、めちゃくちゃえらい』
「“めちゃくちゃえらい”って、
店長の語彙の中でどのくらいのランクですか」
「“すっごいえらい”の一個上」
「分かりづらいランク表ですね」
ツッコミながらも、
涙目のまま笑ってしまう。
◇
少し落ち着いてから、
店長がふと思い出したように言った。
「ちなみにさ、新人さん」
「はい」
「会社で、“いてもいなくても分かりづらい”って
言われたんだよね?」
「はい。“周りを支えるタイプ”って」
「僕、その人種、大好物なんだけど」
きっぱりと言われて、
変な声が出そうになる。
「だってさ、“周りを支えるタイプ”ってことは、
“周りの人を、勝手に沈ませないタイプ”でもあるからね」
「……勝手に沈ませない?」
「うん。“今日もなんだかんだで一日を終えた人”付箋とか、
“今日は見ないフォルダ”とかさ。
あれ、誰かを沈ませないための技術でしょ?」
「それは……自分を沈ませないためでもありますけど」
「“自分を沈ませない技術”を持ってる人が、
結果的に周りも沈ませないの。
それ、“妙に生存力のある人”の特徴だから」
店長は、
例の妙なラベルを思い出したように笑う。
「僕から見た新人さんは、“替えのきく”どころか、
“けっこう貴重な浮き輪職人”だよ」
「浮き輪職人……」
「うん。
“自分ひとりで裁かない箱”とか作れる人、
そうそういないから」
それを聞いて、
胸の奥に少しだけ、
温かいものが広がった。
“評価シート”には載らない何かが、
ここにはちゃんとある気がする。
◇
帰り際、店長がノートを一枚破ってくれた。
そこには、今日一緒に作った“看板”と、
店長の文字でこう書き足されている。
『〇〇さんの“重たいゾーン”の前に貼る札
・ここから先は、ひとりでは入らないこと
・“わたしじゃなくてもよくない?”が出てきたら、
“わたしじゃなきゃダメって思ってくれる人、いるかな”を
一緒に探すこと
・その作業は、ひとりでやらないこと(重要)』
「これ、持って帰っていいですか?」
「もちろん。“自宅の知りすぎた棚”の外側に貼っといて」
「外側、ですね」
「うん。中身を今すぐどうこうするんじゃなくて、
“入口にルールを貼る”ってところからで十分」
ノートの切れ端を、
大事にバッグにしまう。
外に出ると、
夜風が少し冷たかった。
でも、
胸の奥にあった重さは、
さっきよりだいぶ形がはっきりしていた。
(“役に立たないとダメ”って思ってた部分、
ちゃんと“ある”って分かっただけでも、
今日は進歩かもしれない……と、今は思っている)
自分の重たいゾーンに、
いきなり飛び込んだわけじゃない。
ただ、入口の看板を
少し読みやすくしただけ。
それでも、
わたしにとっては、
十分大きな一歩だった。
ちいさな呪われ雑貨店で過ごした今日は、
“自分の重たいゾーンに、ちゃんと気づけた日”として、
そっと保存されることになった。
理由は、分かっている。
午後一番にあった、
半期の評価面談だ。
「全体的にはよくやってくれていると思うよ」
課長は、いつもの穏やかな声でそう言った。
(よし、とりあえず減点スタートじゃない……と、今は思っている)
そう思ったのも束の間、
「ただ、〇〇さんって、
“周りを支えるタイプ”だからさ」
「はい……?」
「目立つ成果は少ないけど、
細かいところを拾ってくれる、みたいな。
“いないと困る”んだけど、
“何をしてるか説明しづらい”っていうか……」
見ているのかいないのか、
よく分からない遠くの一点を見据えながら、
課長は続けた。
「だから、評価シートの項目にうまく当てはまらないんだよね。
“ここがすごい”って見せづらくて」
「ああ……」
分かる。
言っていることは、分かる。
でも、心のどこかで
別の翻訳が走る。
(=「替えがきく」ってことかな……?)
(=「いてもいなくても分かりづらい」ってことかな……?)
課長は悪気なく言っている。
たぶん本当に、「いないと困る」と思ってくれているのだろう。
でも、“評価”という言葉がくっついた瞬間、
わたしの中のどこかが、きゅっと固まった。
帰り際、課長はフォローを足した。
「ほら、“縁の下の力持ち枠”って、
評価制度が追いついてないところあるからさ。
そこは、こっちの課題でもあるんだけど」
「いえ……ありがとうございます」
頭では理解している。
うん、そうなんだろうな、と思う。
でも、頭とは別の場所で。
(わたし、本当に“いてもいなくてもいい人”なんじゃないかな)
そんな声が、
じわじわとにじみ出していた。
◇
デスクに戻ると、
モニターの横の付箋が目に入る。
『今日もなんだかんだで一日を終えた人』
『月曜にちゃんと来た人もえらい』
『なんだかんだで資料直した人もえらい』
(……“評価面談を受けた人もえらい”って付箋、追加したい)
心の中でつぶやきながら、
とりあえず深呼吸。
でも、胸にまとわりついた重さは、
なかなか薄れない。
“いてもいなくても変わらない”。
昔、どこかで聞いたようなフレーズが
頭の片隅でうずく。
(あー……これ、多分、“自分の重たいゾーン”案件だ)
店長の顔と、
“重たいゾーンにはひとりで入らない”ルールが思い浮かんだ。
その時点で、
わたしの今日の予定は、ほぼ決まった。
(今日は、グリモワール行きます……と、今は思っている)
◇
定時ちょっと過ぎ。
会社を出て、
いつもの路地を曲がる。
グリモワール雑貨店の看板には、
今日も何やら書いてある。
『自己否定、お持ち込みください
本日:
“評価面談後の人”には多めに砂糖入れます』
「……なんで分かったんですか?」
思わず看板にツッコんでから、
扉を開ける。
ベルがちりんと鳴り、
店長が顔を上げた。
「いらっしゃい。“評価されちゃった人”」
「“されちゃった”って言い方、ちょっと優しいですね」
「評価面談って、
“自分の取扱説明書を他人に読み上げられる会”だからね。
そりゃ疲れるよ」
「それ、めちゃくちゃ分かりやすいです……」
思わず笑いそうになる。
笑いそうになるけど、
胸の奥はまだ重い。
店長は、そのあたりの空気を
すぐに読み取ったらしい。
「今日は、“入り口ほめ札”飛ばして、
先に温かい飲み物いきますか?」
「はい……今日は、なんか、
先に“ほご句”を胃に入れたいです」
「名言出ましたね、それ」
店長は、カウンター奥で
マグを二つ用意し始める。
「コーヒーとココア、どっちにする?」
「“強がりたいけど本音は疲れてる日”におすすめなのは?」
「ハーフ&ハーフで、“カフェモカ風ほご句”ですね」
「そんなオリジナルブレンド聞いたことないです」
「今作ったからね」
くだらないやり取りで、
少しだけ呼吸が整う。
でも、マグが目の前に置かれた瞬間、
胸の重さがまたじわっと浮かび上がってきた。
今日のわたしは、
誤魔化しきれないらしい。
◇
「……あの、店長」
カフェモカを一口飲んでから、
わたしは切り出した。
「うん?」
「今日、会社で評価面談があって」
「ああ。看板、当たってた?」
「見事に」
苦笑しつつ、
面談の内容をかいつまんで話す。
“周りを支えるタイプ”だと言われたこと。
“いないと困るけど、説明しづらい”と言われたこと。
その言葉が無意識のうちに
「いてもいなくても変わらない」に変換されてしまったこと。
店長は、途中で口を挟まず、
静かに聞いていた。
話し終わったあと、
マグの縁を指でなぞりながら言う。
「……うん、それは、“自分の重たいゾーン”の入口っぽいね」
「やっぱり、そうですよね」
「うん。“役に立てないなら存在価値がないゾーン”みたいなやつ」
「名前が、妙に具体的……」
「このタイプのゾーン、けっこうメジャーだから」
あっさり言われて、
少しだけホッとする。
(あ、これ、“私だけじゃない”系だ)
でも、胸の奥の重さは、そのまま。
「……正直に言うと、
何回か頭をよぎったんです」
「うん」
「“わたし、いなくてもよくない?”って」
その言葉を口にした瞬間、
マグを持つ手の指先が冷たくなった。
店長は、すぐには反応しない。
ほんの数秒の沈黙。
それから、
いつもの軽いトーンより少しだけ低い声で言う。
「“いなくてもよくない?”ってやつはね。
“いなくなりたい”とは、似てるけど別モノなんだよ」
「別モノ……?」
「“仕事の場からいなくてもよくない?”なのか、
“この部屋からいなくてもよくない?”なのか、
“世界からいなくてもよくない?”なのか」
段々形式で説明されて、
思わず苦笑する。
「レベル、ありますね……」
「ある。で、新人さんのは、どのあたり?」
問われて、
少し考える。
今日、会議室を出たときに
頭をかすめたイメージを思い出す。
(“わたしがいなくても、会社回るよな”)
そのあとに続いたのは――
(“だったら、別にここにこだわらなくてもいいのかな”)
そんなぼんやりした感覚だった。
世界から消える、とか、
そういう極端な絵は浮かばなかった。
「……たぶん、“この会社からいなくてもよくない?”レベルかもです」
「うん、それ、大事な情報ね」
店長は、ほっとしたように
息をひとつ吐いた。
「“世界から”まで行ってるときは、
専門家の力もフル動員案件だから」
「フル動員案件……」
「うん。“グリモワール単独では対応しません”ってやつね」
そこはきっちり線を引くんだな、と思う。
「じゃあ、新人さんの“重たいゾーン”は、
ひとまず“居場所”のレベルってことで」
店長は、カウンターの下から
ノートを一冊取り出した。
例の、“知りすぎた棚”ノートとは違う、
新しい表紙だ。
表紙にはこう書かれている。
『重たいゾーンの見取り図(書き換え可)』
「これは?」
「“自分の重たいゾーンを、
ちょっと外から眺めるためのノート”」
店長は、ページを開きながら説明する。
「いきなり中に入るんじゃなくて、
“入口に立つとき、どんな看板が見えるか”だけ書くやつ」
「看板……?」
「たとえば、“役に立てないなら存在価値がないゾーン”の入口には、
だいたいこういうことが書いてある」
さらさらとペンを走らせる。
そこには、こう書かれた。
『ここから先に入る条件:
・なんとなく疲れている
・最近怒られてないのに、自分を責めたい
・他人からの“ありがとう”を信用できない』
「あ、三つ目……」
妙に心当たりがあって、
思わず声が出る。
店長は、わたしの顔をちらりと見て、
にやりとした。
「図星?」
「“ありがとう”って言われても、
自動的に“社交辞令だろうな”って思うことがあって……」
「それ、“このゾーン、入場券持ってますね”のサインです」
「嫌なサインだなあ」
苦笑しながらも、
どこかで腑に落ちるものがある。
店長は、ノートをわたしのほうへ押しやった。
「じゃあ、新人さんバージョンの看板も、
ちょっと書いてみる?」
「わたしバージョン……」
「“自分の重たいゾーンに近づきそうなとき、
頭の中でどんなセリフが流れるか”」
ペンを渡され、
少しだけ迷ったあと、ゆっくり書き始める。
『〇〇さんの“役に立たないとダメな人ゾーン”入口の看板
・“わたしじゃなくてもよくない?”が、頭に浮かぶ
・“いなくても回るよな”と、想像がはじまる
・“今日くらい休んでもいいかも”と思うと同時に、
“でも休んだら見捨てられる”が出てくる』
書きながら、
胸のあたりがじんじんしてくる。
これが、自分の中にあった言葉なんだと
改めて見せつけられる感じ。
店長は、その文字をしばらく眺めてから、
静かに言った。
「……うん、けっこう“重たいゾーン入り口あるある”だね」
「“あるある”なんだ……」
「“わたしじゃなくてもよくない?”って言葉ね、
裏側にだいたい、“わたしじゃなきゃダメって言ってほしい”が
くっついてるんだよ」
「……」
図星すぎて、
ちょっと泣きそうになる。
「それを、誰にも言えないから、
言えないまま、
“役に立ち続ける”っていう演目をやる」
「演目……」
「“替えのきく歯車”役、ね。
本当は、“替えのきかない人”役もやってみたいんだけど」
それを言われた瞬間、
胸の奥がぐしゃっと音を立てた気がした。
「……やってみたいです、正直」
「だよね」
店長は、何でもないことのようにうなずく。
「だから、“重たいゾーン”に入る前に、
まずは入口で、
“その本音、ここに置いとこうか”ってやるわけ」
ノートの空いているところに、
店長はさらさらと書き足した。
『このゾーンに入る前に、
“わたし、ほんとはこう言ってほしい”メモを書くこと。
例:
・“あなたじゃなきゃダメって言ってほしい”
・“助けになれてる?って聞きたい”
・“いてくれてよかったって言われたい”』
「……」
文字を見た途端、
目の奥がぐわっと熱くなった。
やばい、と思ったけれど、
もう遅い。
「……言われたいです、それ」
「うん。言われたいよね」
店長の声が、
いつもよりずっと柔らかい。
「“役に立たないとダメな人ゾーン”ってね、
“役に立たないと愛されない”ゾーンとつながってるから」
「愛されない……」
「うん。だから、“評価面談”とか、
“数字”とか“成果”とかが出てくると、
そっちのゾーンのドアも軋む」
店長は、ペンを置いて、
わたしのマグを指差した。
「今日、新人さんがここに来たのは、
かなりナイス判断だよ」
「ナイス判断……?」
「うん。“自分の重たいゾーン”がガタガタし始めたときに、
“あ、これはひとりで入ったらやばいやつだ”って
ちゃんと気づいたってことだから」
そう言って、
ノートの隅に小さく書き足してくれる。
『本日:
・評価面談後、“自分の重たいゾーン”の入口に気づいた
・ひとりで入らず、店長を連れてきた
→ それ、めちゃくちゃえらい』
「“めちゃくちゃえらい”って、
店長の語彙の中でどのくらいのランクですか」
「“すっごいえらい”の一個上」
「分かりづらいランク表ですね」
ツッコミながらも、
涙目のまま笑ってしまう。
◇
少し落ち着いてから、
店長がふと思い出したように言った。
「ちなみにさ、新人さん」
「はい」
「会社で、“いてもいなくても分かりづらい”って
言われたんだよね?」
「はい。“周りを支えるタイプ”って」
「僕、その人種、大好物なんだけど」
きっぱりと言われて、
変な声が出そうになる。
「だってさ、“周りを支えるタイプ”ってことは、
“周りの人を、勝手に沈ませないタイプ”でもあるからね」
「……勝手に沈ませない?」
「うん。“今日もなんだかんだで一日を終えた人”付箋とか、
“今日は見ないフォルダ”とかさ。
あれ、誰かを沈ませないための技術でしょ?」
「それは……自分を沈ませないためでもありますけど」
「“自分を沈ませない技術”を持ってる人が、
結果的に周りも沈ませないの。
それ、“妙に生存力のある人”の特徴だから」
店長は、
例の妙なラベルを思い出したように笑う。
「僕から見た新人さんは、“替えのきく”どころか、
“けっこう貴重な浮き輪職人”だよ」
「浮き輪職人……」
「うん。
“自分ひとりで裁かない箱”とか作れる人、
そうそういないから」
それを聞いて、
胸の奥に少しだけ、
温かいものが広がった。
“評価シート”には載らない何かが、
ここにはちゃんとある気がする。
◇
帰り際、店長がノートを一枚破ってくれた。
そこには、今日一緒に作った“看板”と、
店長の文字でこう書き足されている。
『〇〇さんの“重たいゾーン”の前に貼る札
・ここから先は、ひとりでは入らないこと
・“わたしじゃなくてもよくない?”が出てきたら、
“わたしじゃなきゃダメって思ってくれる人、いるかな”を
一緒に探すこと
・その作業は、ひとりでやらないこと(重要)』
「これ、持って帰っていいですか?」
「もちろん。“自宅の知りすぎた棚”の外側に貼っといて」
「外側、ですね」
「うん。中身を今すぐどうこうするんじゃなくて、
“入口にルールを貼る”ってところからで十分」
ノートの切れ端を、
大事にバッグにしまう。
外に出ると、
夜風が少し冷たかった。
でも、
胸の奥にあった重さは、
さっきよりだいぶ形がはっきりしていた。
(“役に立たないとダメ”って思ってた部分、
ちゃんと“ある”って分かっただけでも、
今日は進歩かもしれない……と、今は思っている)
自分の重たいゾーンに、
いきなり飛び込んだわけじゃない。
ただ、入口の看板を
少し読みやすくしただけ。
それでも、
わたしにとっては、
十分大きな一歩だった。
ちいさな呪われ雑貨店で過ごした今日は、
“自分の重たいゾーンに、ちゃんと気づけた日”として、
そっと保存されることになった。
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