『呪いのせいで愛妻家になった公爵様は、もう冷徹を名乗れない(天然妻は気づかない)』

星乃和花

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第1話 契約結婚、署名直後に“愛している”が漏れる

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王都の冬は、音まで硬い。

公爵家の執務室は広く、暖炉の火はあるのに空気が整いすぎていて、息をするたび少しだけ背筋が伸びる。重いカーテン、磨かれた床、机の上の書類は角が揃い、ペン立ての位置さえ“正解”の場所にいる。

リリア・フェルネは、その“正解”の部屋の真ん中に、ひとりだけ少し違う温度で立っていた。

――落ち着け、落ち着け。

子爵家の借金。領地の荒廃。止まらない利息。フェルネ家が自力で立て直すには、時間が足りなすぎた。

そのための契約結婚だ。

恋愛ではない。形式だ。条件も明確だ。

「本契約。互いの義務は、公爵家の名誉を損なわないこと。居住は公爵邸。社交は必要最低限。――異論は?」

低い声が、机の向こうから淡々と響く。

レオンハルト・ヴァルデン公爵。

“冷徹公爵”の噂は、王都の冬より冷たいと言われる。

噂通りの人だった。背筋はまっすぐで、銀色の瞳は動かない。表情は薄いのに、視線だけがまっすぐ刺さってくる。怒っているわけではない。ただ、感情という余白がない。

リリアは小さく首を振った。

「異論は、ありません」

自分の声が思ったより落ち着いて聞こえて、少しだけ安心する。

公爵は頷き、書類の束の一枚を指で滑らせた。そこだけ、しゅ、と紙が鳴る音がする。

「なら署名を。こちらが君の分だ」

差し出された羽根ペンは、やけに美しかった。手に取ると、冷たい金属の感触が指に残る。

リリアは深呼吸して、自分の名前を書いた。

リリア・フェルネ。

インクが乾く前に、何かが決まってしまう感じがした。――“決まってしまう”という言い方は、少し失礼かもしれない。でも、事実そうなのだ。契約結婚は、決定であり、手段であり、そして……逃げ道でもある。

彼女がペンを置くと、公爵は同じように署名した。迷いがない。ためらいがない。文字まで硬派だ。

最後に、契約書を閉じる音がした。

ぱたん、と静かに。

それで終わるはずだった。そういうものだと思っていた。握手すらないのだろう、と。

なのに。

公爵は、ほんの一瞬だけ喉を動かし、そして――

「……君を愛している」

言った。

まるで、読み上げる条文のような声で。

リリアの脳が、いったん停止する。

「え……?」

愛している?

契約書に? そんな文言あった? いや、ない。絶対ない。読んだ。ちゃんと読んだ。何度も。

公爵の顔は、相変わらず冷たいほど整っている。目も逸らさない。笑わない。照れない。

ただ、そのままの顔で、言ってしまったことに――本人だけが気づいたように見えた。

ほんの少し、眉間の筋肉が動いた。ほんの少しだけ。

「……失言だ」

公爵が言った。

失言。

リリアは、うなずきかけて止まる。

(失言って、そんな温度で言う言葉なの……?)

「すみません、あの……」

リリアが口を開こうとすると、公爵はなぜか、今度は椅子から立ち上がった。椅子が床を擦る音さえ、律儀に小さい。

「座れ」

命令。

その命令自体は、騎士団長にも似た重さがあった。けれど、リリアは反射で座りながら、別のことを考えてしまう。

(立ちくらみ、して見えたのかな……?)

公爵は机の端に指を置き、深く息を吸う。……ように見えた。実際は、呼吸の変化さえ最小限だ。

それでも。

「……今のは、忘れろ」

「はい」

リリアは素直に返事をした。

忘れろと言われたら忘れる。それが一番、楽だ。自分にとっても、公爵にとっても。

けれど、忘れる前に、もう一つだけ気になる。

リリアは公爵の顔色を見た。……見てもわからない。けれど、言葉の“異物感”だけが残っている。

「公爵さま」

「何だ」

「お身体、どこか……」

公爵は即座に否定する。

「問題ない」

即答すぎる。むしろ怪しい。

「でも今、“愛している”って……」

リリアがそう言った瞬間、公爵の目がわずかに細くなった。

いや、細くなったというより――“しまった”という種類の目だった。

「……言った。言ったが、意味はない」

意味はない。

そこまで言い切られると、リリアは妙に納得してしまった。なぜなら、彼は契約結婚の相手に向ける温度ではないから。

(意味がないのに、口から出た……?)

そして、その“意味がないはずの言葉”が出る人は、大抵――熱がある。

リリアは、決めた。

「熱、測りましょう」

公爵の眉が、今度はちゃんと動いた。

「……何を言っている」

「風邪って、最初は自覚ないこともあるんです」

「私は鍛えている」

「鍛えていても、風邪はひきます」

「私は公爵だ」

「公爵でも、ひきます」

二人の会話が、なぜか噛み合っているのに噛み合っていない。

リリアは立ち上がり、部屋の隅にある小さな呼び鈴を探した。こういう部屋には、きっとある。あるはず。

探す彼女の背に、公爵の低い声が追ってくる。

「勝手に動くな」

「はい」

返事はしつつ、リリアは動く。勝手に、というか――必要だから動く。

呼び鈴を見つけた瞬間、公爵の足音が近づいた。

速い。

気配がすっと背後に立つ。

リリアが振り返るより先に、彼の手が、彼女の肩の少し前――壁と彼女の間に、ふいに置かれた。

……壁ドン、という概念をリリアは知らない。知らないが、今のはたぶん、そういうやつだ。

彼の腕がつくる空間の中で、リリアは小さく瞬きをした。

近い。

香りがするほどではない。でも、温度は確かに違う。冬の部屋の中で、彼の周りだけ温度がある。

公爵は、表情を変えずに言った。

「……危ないから、そこにいるな」

「危ない?」

「……転ぶ」

転ぶ。

リリアは足元を見た。床は平らだ。つるつるしているわけでもない。自分が転びやすい体質というわけでもない。

なのに、公爵は本気で言っている。

それが妙におかしくて、リリアは笑いそうになった。けれど、ここで笑ったら、さらに状況がややこしくなる。

「転びませんよ」

「転ぶ」

「転ばないです」

公爵は、ほんの少しだけ唇を開いた。

その瞬間、何かに負けたように、言葉が落ちた。

「……君が傷つくのは、嫌だ」

リリアは、今度こそ固まった。

(あ、これ……)

さっきの“愛している”と同じ種類の言葉だ。

出てはいけないはずの言葉が、本人の意思をすり抜けて、淡々と落ちてくる。

リリアは、ようやく理解した。

(これ、熱だ)

熱のせいで、普段言わないことを言ってしまう。それはよくある。うちの父も、酔うと優しくなるタイプだった。

つまり、公爵は――どこか悪い。

「公爵さま、やっぱり――」

リリアが言いかけたところで、公爵は目を閉じた。短く。

そして、静かに言った。

「……今のも忘れろ」

「はい。でも熱、測ります」

「測らない」

「測ります」

押し問答が成立しているのが、もうおかしい。

リリアは呼び鈴に手を伸ばした。けれど、その前に、公爵が彼女の手首をそっと掴んだ。

力は強くない。止めるための最小限。なのに、確実に動けない。

「……命令だ」

「命令でも、風邪は治りません」

「……君は、なぜそう頑固なんだ」

「頑固ではなくて、生活力です」

公爵が、わずかに目を細めた。

怒っているのではない。困っている――という表情に近い。

まさか、冷徹公爵が“困る”顔をするなんて。

リリアはそこで、ひとつの結論にたどりついた。

(この人、意外と……不器用だ)

ただ硬いだけではない。硬さの奥に、どうしたらいいかわからないものがある。

リリアは、手首を掴まれたまま、にこっと笑った。

「大丈夫です。熱を測って、休めばいいだけです」

公爵は、目を逸らさなかった。逸らせなかったのかもしれない。

そして、まるで自分に言い聞かせるように、低く言った。

「……心配なのは、君だ」

(また出た)

リリアは、心の中で小さくため息をつく。

これはもう、確信だ。

――公爵さまは、熱がある。

だから、今日は“冷徹”を名乗れない。

そしてリリアは、この人の熱が下がるまでの間だけ、少しだけ――奥さんらしいことをしてあげよう、と決めた。

なお、公爵がそれを聞いたら、たぶん真顔で言う。

「契約にない」

と。

でも、契約にないことほど、暮らしには必要なのだ。

リリアは呼び鈴を鳴らした。

ちん、と小さな音。

公爵は、その音に負けたように目を閉じ、最後に一言だけ、信じられないほど小さな声で漏らした。

「……君のことは、私が守る」

――風邪だ。

絶対に。

リリアはそう思いながら、彼の手の温度を、ほんの一瞬だけ“あたたかい”と感じてしまったことを、まだ自覚していなかった。
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