『北極星はここにいる ― 守れなかった夜を越えて。』

星乃和花

文字の大きさ
11 / 11

第十一話 朝の光、星の約束

しおりを挟む
翌朝の食堂は、いつもと同じ音で満ちていた。
銀器の触れ合う澄んだ響き、パンを裂く小さな破れ音、紅茶の香り。
昨日の夜が夢だったのではと思うほどに、世界は何事もなく回っている。

でも、胸の内側には温度があった。
抱きしめられた腕の力、額に触れた息、星の下で交わした口づけ――
それらは消えない光のように、静かにそこに在る。

リリアは紅茶をひと口含み、ふと顔を上げる。
長机の端、窓から一歩引いた明るさの中に、アドリアンの横顔。
いつも通りに無駄のない所作でパンを千切り、湯気の立つスープを口に運ぶ。
視線が交わる――ほんの一瞬。
彼の口元に、刃のように薄い笑みがきらりと灯って消えた。

胸の鼓動が、ひと拍だけ速くなる。
リリアはナプキンを整え、席を立った。
足音を乱さず、長机の向かい側へ回り込む。近づきすぎない距離で、軽く会釈をした。

「おはようございます、アドリアン様」

「おはよう」

二音。
それだけなのに、昨夜の余韻がふっと温まる。

「……花壇、今朝見ました。支えの竹も、結わえも、そのままで」
リリアは声を落とす。
「根が、ついてきました」

「ああ。風が弱い」
事務的な返答に、わずかな安堵が混じる。
彼はパンを置き、短くこちらを見た。

「今日の講義は、午後で終わるな」

不意に落ちた言葉に、リリアは瞬きをした。
心臓が、昨夜とは別の調子で弾む。
「はい。……あの、また、星を見ませんか」

灰色の瞳が、わずかに和らいだ。
「今度は俺が誘おうと思っていた」

息があたたかく広がる。
「うれしいです」

「手袋を忘れるな。夜は、思っているより冷える」

「はい。蜂蜜の飴も持っていきます」
口にしてから、自分で可笑しくなり、笑う。
彼は肩をほんの少しだけ揺らした――笑ったのだと、もうわかる。

短いやり取りは、誰の耳にも届かない。
けれど、十分だった。
リリアは「のちほど」と小さく会釈して席へ戻る。
紅茶の表面に、朝の光が揺れた。



午後の講義が終わると、日直の当番で廊下の窓を確認して回った。
真鍮の留め具が軽く鳴り、その冷たさが指先に移るたび、護符のような二音が胸の内側で響く。
――迷うな。
言われ続けた言葉を、今は自分でもそっと唱えられる。

部屋に戻ると、同室の令嬢が鏡台の前でリボンを結んでいる。
「今夜は晴れそうよ」と言われて、リリアは頬が熱くなるのを感じ、曖昧に笑った。
外套と手袋、白いハンカチ、それから薄い蜜菓子をポケットに入れる。
窓辺に開いた『星の暦』の余白へ、小さな文字で今日の日付と一行を書き足した。
――朝の光。約束。



夜。
中庭はよく澄んで、四辺形の“窓”が広く開いている。
アドリアンは先に来ていた。
ベンチの端に座り、空ではなく、しばらく庭の暗がりを見てから、ゆっくりと空を仰ぐ。
その呼吸は、昨夜より深い。

「待たせてしまいましたか」
リリアが近づくと、彼は小さく首を振った。

「いや。……星は逃げない」

「ええ。わたしたちも、急がなくていいですね」

いつもの少し斜めの位置に、並んで座る。
言葉は少ない。けれど、沈黙の質が変わっていた。
ふたりの胸の高さで、静かに結ばれる間。

「今夜は――」
リリアが空を指す。
「秋の四辺形の、外側をたどってみたいです。窓の縁を、ひとつずつ」

「いい考えだ」
アドリアンの声が落ちる。
「縁を確かめておけば、中心が空でも迷わない」

「はい。……空っぽは、席だから」

四辺形の角から角へ、指先でそっとなぞる。
彼の示す正確な指先と、リリアのたどる線が重なって、夜の図面にひとつずつ印が増える。
北極星、ベガ、デネブ、アルタイル――覚えてきた名が胸の内で呼吸を揃えた。

風が庭の上を渡り、植えた苗の葉をわずかに揺らす。
リリアは外套のポケットから蜜菓子を取り出し、紙の音をできるだけ小さく鳴らして一枚を差し出した。

「喉が乾きますから」

アドリアンは受け取り、短く頷く。
飴が舌の上で溶けるあいだ、ふたりは空を見上げる。
言葉にしない安堵が、ゆっくりと体に馴染んでいく。

「……ありがとう」
彼がふいに言った。
視線は空のまま、声だけが近い。

「四辺形の中に、置いてくれて」

リリアは首を振る。
「置き場が見つかったのは、アドリアン様が話してくださったからです」

「臆病だ、と言ったのに」

「臆病は、悪くないと思います」
リリアは笑う。
「臆病な人は、手を離さない。……強くではなく、確かに」

灰色の瞳がこちらへ向く。
昨夜よりずっと柔らかい光が宿っている。
その光を見ていると、胸の内側の“空白”に、小さな火がぽっと灯った気がした。

「……また、星を見よう」

彼が繰り返す。
約束の言葉は、何度重ねても薄くならない。むしろ濃くなる。

「何度でも」
リリアは応じる。
そして、小さく両手を開き、片方の手を彼の手の上へ重ねた。
“ここにいます”
声にしない合図は、もうふたりの間で意味を持っている。

アドリアンの口元に、一番星みたいな笑みがまた灯って、すぐに消えた。
それで十分だった。

遅い鐘がひとつ鳴る。
規則は帰る時間を告げている。
ふたりは同じ歩幅で立ち上がり、回廊の入口へ向かった。
真鍮の取っ手の前で、彼は半歩だけ足を止める。
けれど今夜のさざ波は、ためらいではなかった。
確かめるための、ごく短い間。

「行こう」

「ええ」

扉が開き、廊下の灯りがふたりを迎える。
並ぶ足音は最初から揃っていて、石畳がそれを静かに受け止めた。

背中で閉じる夜の空は、いつもと同じ場所に、いつもより確かな光を宿している。
星は裏切らない――
そして、人もまた、約束を重ねるたびに、迷わない道筋を覚えていく。

明日の朝も、食堂は同じ音で満ちているだろう。
その真ん中で交わす短い会話が、未来を少しずつ明るくする。
「講義は午後で終わる」「また星を」
そんなやり取りをいくつも、いくつも積み重ねていく――

それがふたりの新しい日常だった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

【完結】冷徹執事は、つれない侍女を溺愛し続ける。

たまこ
恋愛
 公爵の専属執事ハロルドは、美しい容姿に関わらず氷のように冷徹であり、多くの女性に思いを寄せられる。しかし、公爵の娘の侍女ソフィアだけは、ハロルドに見向きもしない。  ある日、ハロルドはソフィアの真っ直ぐすぎる内面に気付き、恋に落ちる。それからハロルドは、毎日ソフィアを口説き続けるが、ソフィアは靡いてくれないまま、五年の月日が経っていた。 ※『王子妃候補をクビになった公爵令嬢は、拗らせた初恋の思い出だけで生きていく。』のスピンオフ作品ですが、こちらだけでも楽しめるようになっております。

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

お人形令嬢の私はヤンデレ義兄から逃げられない

白黒
恋愛
お人形のように綺麗だと言われるアリスはある日義兄ができる。 義兄のレイモンドは幼い頃よりのトラウマで次第に少し歪んだ愛情をアリスに向けるようになる。 義兄の溺愛に少し悩むアリス…。 二人の行き着く先は…!?

お前が欲しくて堪らない〜年下御曹司との政略結婚

ラヴ KAZU
恋愛
忌まわしい過去から抜けられず、恋愛に臆病になっているアラフォー葉村美鈴。 五歳の時の初恋相手との結婚を願っている若き御曹司戸倉慶。 ある日美鈴の父親の会社の借金を支払う代わりに美鈴との政略結婚を申し出た慶。 年下御曹司との政略結婚に幸せを感じることが出来ず、諦めていたが、信じられない慶の愛情に困惑する美鈴。 慶に惹かれる気持ちと過去のトラウマから男性を拒否してしまう身体。 二人の恋の行方は……

幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜

葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在 一緒にいるのに 言えない言葉 すれ違い、通り過ぎる二人の想いは いつか重なるのだろうか… 心に秘めた想いを いつか伝えてもいいのだろうか… 遠回りする幼馴染二人の恋の行方は? 幼い頃からいつも一緒にいた 幼馴染の朱里と瑛。 瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、 朱里を遠ざけようとする。 そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて… ・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・ 栗田 朱里(21歳)… 大学生 桐生 瑛(21歳)… 大学生 桐生ホールディングス 御曹司

片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜

橘しづき
恋愛
 姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。    私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。    だが当日、姉は結婚式に来なかった。  パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。 「私が……蒼一さんと結婚します」    姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。

婚約破棄ブームに乗ってみた結果、婚約者様が本性を現しました

ラム猫
恋愛
『最新のトレンドは、婚約破棄!  フィアンセに婚約破棄を提示して、相手の反応で本心を知ってみましょう。これにより、仲が深まったと答えたカップルは大勢います!  ※結果がどうなろうと、我々は責任を負いません』  ……という特設ページを親友から見せられたエレアノールは、なかなか距離の縮まらない婚約者が自分のことをどう思っているのかを知るためにも、この流行に乗ってみることにした。  彼が他の女性と仲良くしているところを目撃した今、彼と婚約破棄して身を引くのが正しいのかもしれないと、そう思いながら。  しかし実際に婚約破棄を提示してみると、彼は豹変して……!? ※『小説家になろう』様、『カクヨム』様にも投稿しています

私と彼の恋愛攻防戦

真麻一花
恋愛
大好きな彼に告白し続けて一ヶ月。 「好きです」「だが断る」相変わらず彼は素っ気ない。 でもめげない。嫌われてはいないと思っていたから。 だから鬱陶しいと邪険にされても気にせずアタックし続けた。 彼がほんとに私の事が嫌いだったと知るまでは……。嫌われていないなんて言うのは私の思い込みでしかなかった。

処理中です...