ある魔法都市の日常

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八百屋の藤宮さん

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 住宅街の中に一台の荷車があった。引いているのは一人のミノタウロス。体格に合わせたかは、人が引くには随分と大振りな荷車には、しかし、控え目な数の木箱が乗っていた。
 荷車とミノタウロスは、一軒の、まだ閉まったままの店の前で止まる。
 集合住宅の一階。店舗用のスペースの前だ。
 程なく、店の扉はミノタウロスの手によって開けられ、荷車は丸ごと店の中に引き込まれる。
 その店には看板が掲げてあった。『八百屋藤宮』、それがこの店の名前である。

 ミノタウロスの藤宮さんが店に入ってしばらくの後、中途半端に閉じられていた扉は再び開かれた。
 引き戸が大きく横に開かれると、荷車を引き入れた時よりも、広い間口が広がっていく。いくつもの戸が重なって横に開かれていくためだ。
 大きく開いた扉の向こうにはいくつかの台と、開かれた木箱。台の上にも、木箱の中にも様々な野菜が並べられている。良く見ると、そこには台の振りをした荷車も紛れている。
 荷車で運び込まれたであろう野菜たちは、なるほど、店舗の規模を見れば正しい量だったと思える。それぞれの野菜がよく見えるように、あまり重ねずに並べれば、店に用意されている台を埋め尽くすほどになる。
 商品を並べ終えると、藤宮さんはどっかりと腰を下ろして客を待つ。
 呼び込みの声を上げたりはしない。
 なぜならば、ここは住宅街だからだ。
 周囲には住宅ばかり。肉屋も魚屋も雑貨屋もない。商店街では、ない。
 この街には騒音が絶えないとは言え、住宅街は割りと静かだ。しかも今はまだ朝と呼べる時間帯である。呼び込みの声を上げたりはしない。近所迷惑だからだ。

 呼び声を上げずとも、店が開いているのは見ればわかる。
 昼も近づけば買い物客もぼちぼちとやってくる。そうなるとどっかりと座っているわけにもいかない。立ち上がり、接客に動き出す。

「今日は何がおすすめだい」
「そうだねぇ。暖かくなってきたからね、キャベツは柔らかくていいのが入ってるよ。あとはアスパラガスの新鮮なのが入ってるね。皮が固いから根本の皮は削ぎ落したほうがいいよ。塩を少しだけ入れたお湯でね。軽く茹でるんだ。歯ごたえが残るくらいがいいよ」

 近所に住んでいる奥さん達と話をしながら、いくつかの野菜が売れて行く。

「漬物はあるかい」
「あるよ。すぐに食べるなら丁度よく漬かったものがこっちだね。こっちの壺のは漬けたばかりだから、食べ頃は五日後くらいかね」
「今日のおかずにするから、漬かったものを頂戴」

 漬物は、藤宮さんの作ったものだ。野菜は毎日仕入れて、ほとんどはその日に売れるが、当然売れ残る時もある。根菜の類は数日どころか、数十日も普通に日持ちするが、葉野菜は数日でしなびてしまう。しなびた野菜はそのままは売らずに、漬物にするのだ。売れ残りを漬物にするために、どんな野菜の漬物なのかはまちまちだ。

 昼が過ぎ、夕方になる頃には、台の上にも空きが目立つようになる。
 開いた台を埋めるように、店の奥に並べられていた野菜は、入口近くへと移動させる。台替わりにしていた荷車の上には野菜は残っていない。完全に空いた木箱は荷車の上に、店の入口だけを見れば、沢山の野菜が並んで見えるように。
 お客の相手をする隙間に、見栄えが良くなるように野菜を置き直し、木箱はどんどん荷車の上に移動する。
 木箱は明日の仕入れの時に卸売りの店に返すものだ。返した木箱は農家に送られて、新しく採れた野菜が入れられる。

「今日はこんな所かね」

 もうほとんど残っていない野菜を見て、藤宮さんは一人呟く。
 日も暮れてきて、時間も丁度良い頃合いだ。残った野菜を袋に入れて、店仕舞いをする。
 残った野菜は藤宮さんの夕食になり、それでも残る分は漬物になる。
 広く開いていた店の正面は、一枚を残して扉を閉める。店の中から扉が開かないようにロックしたら、最後の扉は店の外に出てから閉める。最後の扉のカギを掛ければ、警報の魔法がセットされる仕組みだ。カギを使わずに、無理に扉を開ければ騒音が鳴り、藤宮さんの手元に通知が来る魔法だ。
 藤宮さんは、施錠を確認して帰路につく。

「明日も晴れて欲しいねえ」
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