忠誠か復讐か――滅びの貴族令嬢、王子の剣となる

案山子十六号

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プロローグ

運命の夜

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<前書き>――――――――――――――――――

本編は第15話までゆっくりと進む展開になっています。
テンポよく物語を追いたい方は、『王子護衛騎士編』の『ここまでの人物紹介』を先に読んでから続きを進めるのがおすすめです。

人物や関係性を把握した状態で読めるので、スムーズに物語に入り込めます。

じっくり読みたい方はそのままどうぞ。お好みのスタイルでお楽しみください!

<前書き>――――――――――――――――――



 ――その夜、屋敷には穏やかな空気が流れていた。
 アルノー家の屋敷は広大で、城にも劣らぬ威厳を持つ。
 夜は静かで、窓の外では草木が風に揺れ、虫の声が微かに響いていた。
 ミレクシアは自室の寝台の上で、布団をかぶりながら瞼を閉じていた。
 明日もまた剣の鍛錬がある。

 兄に勝つためには、もっともっと強くならなければ――。

 そんなことを考えながら、意識が徐々に夢の世界へ沈みかけた、その瞬間。

 "……ドン!!!"

 突如、屋敷全体を揺るがすような衝撃音が響いた。

「――ッ!?」
 驚いて飛び起きる。
 何かが爆ぜる音、響く悲鳴、甲高い剣戟の音――。
 それはまるで、戦場の音だった。

 ミレクシアは、耳を疑う。
(……何?  何が起こっているの?)

 だが、屋敷に響く騒音と悲鳴が、悪夢ではないことを告げていた。
 鼻をつく焦げた匂いが、現実のものだと理解させる。
 そして――。
 廊下の外で、誰かが絶叫した。

「逃げろ! くそっ……どこから……ぐあああああっ!!」

 ミレクシアの心臓が、ひどく脈打つ。恐怖が喉元を締めつける。
 しかし、じっとしているわけにはいかなかった。

「お父様、お母様……兄様……!」
 必死に家族の名を呼びながら、ミレクシアは部屋の扉を開け、廊下へと飛び出した。

 扉を開けた瞬間、目の前に広がっていたのは、いつも見慣れた廊下ではなかった。
 煙が充満し、焦げた木材の匂いが鼻を突く。
 遠くの窓の外を見ると、屋敷の一部がすでに炎に包まれている。

(燃えている……!?)

 理解が追いつかない。何が起こっているのか、全く分からなかった。
 階下から響く剣がぶつかる音と絶叫。

「……何が……?」

 背筋が凍るような不吉な感覚が、ミレクシアの心を締め付ける。
 屋敷が襲われている。本能がそう叫んでいた。

「お父様……お母様……」

 家族の無事を確かめるため、ミレクシアは恐怖を振り払い、廊下を駆け出した。
 裸足のまま、屋敷の奥へ走る。暖かな夜の空気のはずが、燃え盛る炎の熱で灼けつくようだった。

 焦燥と恐怖に駆られ、ミレクシアは階下へ向かう。
 しかし、廊下を曲がった瞬間――足が、止まった。
 そこにあったのは、見慣れた者たちの死体だった。
 乳母のエルナ。温かい笑顔で、いつもミレクシアを抱きしめてくれた人。
 彼女が、胸を斬り裂かれた状態で倒れていた。
 白いドレスは、すでに深い紅に染まっていた。

「……エルナ……?」

 声が震える。あり得ない。彼女はいつも優しく微笑んでいたのに。
 ミレクシアが困った時、そっと手を握ってくれたのに。
 なぜ、今は目を開かない? なぜ、こんな冷たく横たわっているの?

「エルナ……?」

 縋るように名を呼ぶが、当然、返事はなかった。
 護衛騎士のアーヴィング。寡黙だが、誠実な男だった。
 ミレクシアの安全を何よりも優先し、屋敷のどこへ行くにも影のように付き従ってくれた騎士。
 彼は喉を貫かれ、血溜まりの中で事切れていた。
 剣は手にしたままだが、彼が守ろうとしたものは、すでに失われてしまったのかもしれない。

「……嘘、でしょ……?」

 膝が震え、体の力が抜けそうになる。逃げなければ。こんなところにいたら、今度は自分が殺される。分かっているのに、体が動かない。

(こんなの……嫌だ……)

 現実が受け入れられない。目の前に広がる光景を、脳が拒絶する。

 だが、耳をつんざくような叫び声が、それが"現実"であることを突きつけた。

「エリシア様ぁぁぁ!!」 

 母の侍女の悲鳴。その声を聞いた瞬間、ミレクシアの心臓が跳ね上がる。
 母の名を呼ぶ悲痛な叫び。

 ――まさか。そんなはずはない。

 嫌な予感が胸を締め付ける。
 ミレクシアは、無我夢中で声のする方向へ駆け出した。
 食堂へと続く廊下を全力で走る。途中、転びそうになっても気にしなかった。
 母がいる。母がそこにいる。

 なのに――なのに、どうして、悲鳴が響くの?

 ミレクシアは扉に駆け寄り、そのまま勢いよく蹴破った。食堂に飛び込んだミレクシアが見たものは――母の喉に刃を突き立てる黒装束の男だった。 

「――お、お母……さま……?」 

 時間が止まったようだった。
 母の美しい金の髪が、まるで散る花びらのように揺れる。
 その喉元から、赤い筋が流れ、次の瞬間、彼女はゆっくりと崩れ落ちた。血が床に広がる。まるで、赤い花が咲いたように。

「な……何……?」

 理解が追いつかない。これは、何?
 こんなの、おかしい。ついさっきまで母は――笑っていたのに。優しく手を握ってくれたのに。
 なのに、どうして?
 どうして今、床に倒れているの?
 どうして血を流しているの?
 どうして、何も言わずに――目を閉じてしまうの?

 ミレクシアの足が震える。
 目の前の光景を拒絶するかのように、一歩後ずさる。

 その時だった。母の命を奪った黒装束の男が、ゆっくりと顔を上げ、ミレクシアへと目を向けた。冷たい碧の瞳が、無感情に彼女を捉える。
「……チッ、まだ残っていたか」 
 男の声には、驚きもなければ、憐れみもない。
 ただ、任務の遂行を邪魔されたかのような不快さだけが滲んでいた。 
 まるで、虫でも見るかのような目だった。それが余計に、ミレクシアの恐怖を煽る。
 そして、男の胸元に刻まれた紋章が目に入る。
 それは――クレストの紋章。王直属の精鋭部隊。

「なぜ、クレストが……?」

 ミレクシアの全身が戦慄に包まれる。
 王に仕えるはずの彼らが、どうしてアルノー家を襲うのか?

 どうして、母を――。

 だが、男はそんなミレクシアの動揺など気にも留めず、静かに剣を向けた。

「次の標的だな」

 刃が月明かりに鈍く光る。ミレクシアの心臓が締め付けられる。

(……殺される!)

 本能が警鐘を鳴らした。

「逃げなきゃ……!」

 ミレクシアは弾かれたように背を向け、廊下へと駆け出す。恐怖に駆られ、必死に走る。

(生きなきゃ……!)

 だが――

「遅い」
 男の冷たい声が背後から響いた。刹那、ミレクシアの背中に激痛が走る。

「――あ、ぐ……っ」 

 熱い何かが、背中から溢れ出た。体が崩れ落ちる。手をついた床が濡れている。
 それが"血"だと気づくのに、数秒かかった。
 呼吸ができない。意識が薄れる。

(……死ぬ?)
 こんなところで?まだ何もできていないのに?
 兄にも勝ててない。父のように剣を振るうこともなかった。王子と約束した、次の騎士ごっこも……。

(こんなところで……)

 視界が揺れる。耳鳴りがする。
 刃が振り下ろされようとするのが見えた。

(殺される……!)

 だが――
「まだだ、ゼファル。遊んでいる暇はない。時間だ」

「……了解した」

 男の刃は止まり、足音が遠ざかる。どうやら、ミレクシアにとどめを刺すことなく撤退することにしたらしい。

 血の気が引いていくのを感じながら、ミレクシアはただ床に横たわる。痛みと寒さの中、意識が遠のいていく。
 その時見た"男の顔"を、ミレクシアは確かに記憶していた。
 短く整えられた黒髪。冷たい碧の瞳。クレストの紋章を誇示するかのように刻んだ鎧。そして、去り際に仲間が呼んだ名。

「……ゼファル……」

 ミレクシアの唇が、かすかに動く。
 決して忘れない。この名前を。この顔を。この夜の絶望を――。
 だが意識が薄れていく。
 ミレクシアは力なく床に倒れ込んでいた。
 温かかったはずの自分の血が、冷たい床に広がり、じわじわと体温を奪っていく。

(……動けない)
 息をするのも苦しい。

 体は鉛のように重く、まるで自分のものではないようだった。視界がぼやけ、世界が遠のいていく感覚の中で、ふと気がつく。

 ――手が、何かを掴んでいる。指先が、かすかに触れていた。

 冷たく、硬い感触。目を向けると、そこには一本の剣があった。
 屋敷の居間に飾られていた古びた剣。長年、誰の手にも触れられず、ただ飾り物として扱われてきたもの。錆びついた刀身は鞘に固くこびりつき、抜けることはない。

「これはな……抜けない剣だ」

 幼い頃、父が言っていたことを思い出す。

「装飾が立派だから飾っているが、何の役にも立たん」
 役に立たない剣。戦うこともできず、ただ飾られるだけのもの。

(……まるで、今の私みたいだ)
 このまま死ぬのだろうか。何もできず、ただここで終わるのか。
 兄にも勝てず、父のような剣士にもなれず、母を守ることもできず――。
 血を流しながら、冷えた指が剣をぎゅっと握りしめる。

 その時だった。
 ふいに、世界が暗転する。
 闇の奥から、何かが呼んでいる。それは、耳元で囁くような、不気味な声だった。

「生きたいか?」

 ぞくり、と背筋が凍る。
(……誰?)
 問いかける余裕もない。だが、確かに"何か"が語りかけてくる。
 声ではない。意識の奥底に、直接響くような囁き。

「復讐を果たしたいか?」

 その言葉に、ミレクシアの胸が締め付けられる。

 復讐――。

 目の前に広がる惨劇。燃え盛る屋敷。母の倒れた体。血の匂い。冷たい碧の瞳。
 怒りが込み上げる。憎しみが渦巻く。このままでは終われない。終わってたまるものか。

 生きなければ――。

「……生きたい」
 心の奥底から、言葉がこぼれた。

 すると、闇の中で何かが動いた。冷たく、ねっとりとした影が広がり、ミレクシアの手に巻きつくように絡みつく。

「ならば契約を結ぼう」

 その瞬間、凍りつくような冷気が指先から腕へと駆け上る。
 剣が、微かに震えた。鞘にこびりついて抜けることのなかった刃が、わずかに動く。

"――カチリ"。
 まるで、長年閉ざされていた何かが目覚めるような音がした。
 剣が、微かに震える。

 ――そして、刃が鞘を破った。

 "ギィィィン……!"

 黒い光が溢れ、ミレクシアの左手に痺れが走る。
 次の瞬間、皮膚がひび割れ、爪がわずかに伸びた。

(何……これ……)
 契約は、完了した。


<あとがき>
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