忠誠か復讐か――滅びの貴族令嬢、王子の剣となる

案山子十六号

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動乱編

狂乱

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 ヴォルネス公は、恐怖していた。
 これまでの戦場で、彼は何度も修羅場をくぐり抜けてきた。数多の命を奪い、策略を巡らせ、どんな敵も冷静に処理してきた。敗北を味わったことはあれど、絶望を知ったことはなかった。

 だが――

「ば、化け物め……!!」 

 言葉にすらならない呻きを漏らしながら、ヴォルネス公は後ずさった。眼前には、血に塗れた女剣士。周囲に横たわるのは、彼の忠実な部下たちだった。
 剣の一閃で、五人が同時に首を刎ねられ、血の雨が降る。一人また一人と、無惨に命を奪われ、ヴォルネス公の軍は壊滅した。彼が誇りに思っていた歴戦の騎士たちは、まるで紙のように斬り裂かれた。
 
「ふざけるな……! こんなものが、こんな化け物が……!!」

 目の前で繰り広げられるのは、戦闘ではない。"殺戮"だった。
 ヴォルネス公は、震える手で剣を握り直したが、その刃先が自分の恐怖に呼応するかのように揺れていた。
 戦おうとしているわけではない。"ただの本能"が叫んでいる。逃げろ、と。 

「くそっ、離せ……! 私はこんなところで死ぬわけには……!」

 自らの命を惜しみ、ヴォルネス公は残っていた数人の護衛を盾にしながら闇の中へと駆け出した。
 本能のままに、ただ"生き延びる"ために。"貴族の誇り"も"戦略"も"野心"も、もはや何の意味もない。
 今この瞬間、ヴォルネス公はただの"恐怖に取り憑かれた男"に成り下がっていた。

 しかし――

「――待て」 

 静かに、だが明確な殺意を帯びた声が響く。ヴォルネス公の足が、がくりと止まった。
 その瞬間。わずかに遅れて、鋭い風切り音が響く。ヴォルネス公の護衛の一人が、一瞬で斬り伏せられた。

「……っ!?」 

 気づいた時には遅かった。斬られた騎士の体が、血を噴き出しながら地面に崩れ落ちる。呻く間もなく、命が断たれた。
 ヴォルネス公は、口元を引きつらせながら、ゆっくりと振り返った。
 そこにいたのは、血に染まった剣を握りしめ、闇に溶けるように佇むサーディス。
 彼女の目は、深紅の闇に染まっていた。瞳孔は、"獲物"を捉えた捕食者のそれ。

「……逃がすわけがない」

 彼女は、静かに呟いた。それは決定事項を述べるような口調だった。
 恐怖で言葉を失ったヴォルネス公をよそに、サーディスはゆっくりと足を踏み出す。まるで、獲物をいたぶる捕食者のように。

「逃げるなら。まず、その足を落とすか?」

 嗜虐的な響きを帯びた言葉が、じわりと広がる。ヴォルネス公の体が、びくりと震える。
 その場に崩れ落ちるように、膝をついた。彼は、悟った。この女は、人間ではない。 
 それが"本能"で理解できた。

「ま、待て……!」
 震える声で、ヴォルネス公は手を差し出した。

「助けてくれ……! 私はまだ死にたくない……!」
 貴族の誇りも何もかも捨て、ただ"命乞い"をするだけの男。


 王子アレクシスは、その姿をただ見つめていた。彼は"護衛"のためにサーディスをそばに置いた。
 だが、今目の前にいる彼女は、"護衛"ではなかった。 
 戦場に立つ王子としての誇り、政治の駆け引き、騎士道。そんなものとは全く別の、"異なる理"を持つ存在だった。

「……サーディス……!」

 王子の呼びかけにも、彼女は応えない。ヴォルネス公は、ただ必死に命を乞う。
 サーディスは、その様子をじっと見下ろしていた。冷たく、無機質な瞳で。
 そして、一歩、また一歩と近づいていく。まるで、"死刑を言い渡す処刑人"のように。
 王子は剣を握る手に力を込めた。

(……これは、違う)

 目の前にいるのは、"彼の知るサーディス"ではなかった。
 彼女は確かに剣士だった。戦場を生き抜く力を持ち、剣を振るうことに迷いのない存在だった。

 だが――

("これは、剣士の戦い方ではない")
 そこにあるのは、ただの殺戮。もはや戦いですらない。剣技も戦略も関係なく、ただ"命を狩る"だけの行為。
 彼は確信していた。このままでは、サーディスは"全て"を破壊する。
 ヴォルネス公はすでに戦意を喪失し、恐怖に膝をついていた。このままでは、彼を殺し尽くし、サーディス自身も"何か"を失ってしまう。

 それを止められるのは――

「……サーディス!!」

 王子の叫びが、夜の静寂を切り裂いた。

「もう、いい!!」

 その言葉が響いた瞬間、サーディスの足が、止まる。
 それまで、まるで自動のように戦っていた彼女の体が、一瞬だけ静止した。

「……王子?」

 ゆっくりと、彼女は振り返った。その瞳は、未だ金色の闇に染まったままだった。王子はまっすぐに彼女を見据えていた。

「もう、やめろ。これ以上殺す必要はない……!」

 サーディスは、その言葉を理解しようとするように、わずかに目を細める。

「……」
 だが、王子は続けた。

「君は、そんな剣士じゃないだろう!?」
 その言葉が、サーディスの胸に突き刺さる。

 "そんな剣士じゃない"

(……そんな剣士……?)

 頭の中で、言葉が反響する。
 サーディスは剣士だ。戦いの中で生きてきた。復讐のために剣を振るうことも、迷いなく受け入れてきた。

 だが、"今の自分"は。

(私は……何をしている?)

 足元には、血の海。倒れ伏した兵士たちは、もはや"戦う者"ではなかった。ただ、"死を待つだけの者"を、狩るように殺していた。

(……違う)

 目の前の王子が、"何を見ているのか"が分かった。彼は、剣士としてのサーディスを見ていた。戦いに生きる者としての姿を、知っている。

(……これが、私か?)

 今の私は、本当に"サーディス"なのか?

 それとも――

(ただの"化け物"なのか?)

 胸が冷えたような感覚が広がる。
"人間としての理性"と、"魔の本能"。それが、心の中でせめぎ合っていた。
 サーディスは歯を食いしばる。この剣は、"鞘に戻すために、命を捧げる必要がある"。

 そうしなければ、力は暴走し、さらなる殺戮が繰り広げられる。サーディスは、残された襲撃者たちを見つめた。
 地面に倒れ、恐怖に震えている兵士たち。すでに戦意を失い、剣を持つ手すら震える者たち。

「……"足りる"か?」

 魔剣が、"歓喜"の震えを発するのを感じた。

 "足りる"。

 それは、確信だった。サーディスは、何も言わずに剣を振り上げた。
「ぐ……っ!?」
「や……め……ッ!!」

 "ドシュッ!"

 倒れていた襲撃者たちが、次々と血に沈んでいく。生気を失った体が、地に転がる。命が、魔剣に吸い込まれる。

 "シュゥゥ……"

 魔剣の紋様がゆっくりと収縮し、血を吸い尽くすように闇が収まっていく。
 やがて"沈黙"が訪れた。
 サーディスは、静かに魔剣を"鞘"へと戻す。

 ――カチン。

 その瞬間、力が抜けるように膝をついた。
 全身に走る倦怠感と、今までの"激情"が嘘のように冷めていく。
 まるで、何もかもが"幻"だったかのように。

 サーディスは、自分の手を見下ろした。
 震えている。

 王子の方を見た。
 彼の顔には、驚愕、恐怖、困惑――そして、"哀しみ"。
 それは、敵に向けるものではなかった。
 まるで、"大切な何かを失った"かのような哀しみ。

 「……サーディス」

 王子は、そっと彼女の肩に手を置いた。

 「……君は、大丈夫なのか?」

 その言葉に、サーディスは何も言えなかった。

 魔剣は封じられた。
 けれど、心臓は不自然に速く打ち続けている。
 耳の奥で、低い囁きが響いた。

 (……終わった? いいえ……まだ……足りない……)

 王子の手が肩に触れた瞬間――。

 ゾクリ、と背筋を何かが這う感覚がした。

 (……なぜ? 私を……止めるの……?)

 サーディスの指が、一瞬だけ剣の柄を握りかける。
 次の瞬間、自分の行動に気づき――息を呑んだ。

 (……私は……まだ……)

 血の狂乱は、まだ終わっていない。
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