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1話
空は泣きたくなるほどに青く、澄み渡っていた。
けれど、トアの心はそれとは対照的に、どしゃ降りの雨に打たれているかのように冷え切っていた。
「……本当に行ってしまったんだな」
トアは、自分の足元に転がされた小さな麻袋をぼんやりと見つめた。
中に入っているのは、数日分の硬いパンと、少しばかりの干し肉。それから、ひび割れた水筒が一つ。
それが、十八年間過ごしてきた祖国・セフィリア王国が、トアに与えた最後の慈悲だった。
この場所は、国境のさらに先にある『忘却の森』。
強力な魔獣が跋扈し、一度足を踏み入れれば二度と生きては帰れないと言われる魔境だ。
「魔力供給者(メディア)の家系に生まれながら、そんな微々たる魔力しか持たぬとは。お前のような無能は、我が家の、そして我が国の恥だ」
義父の冷酷な声が耳の奥でリフレインする。
トアの生まれた家は、代々、騎士や魔導師に魔力を分け与える「供給者」の家系だった。
供給者は、戦う者たちのバッテリーのような存在だ。優秀な供給者が一人いれば、軍の戦力は数倍に跳ね上がる。
だが、トアが持つ魔力は、ロウソクの火を灯すのが精一杯という、あまりにも微弱なものだった。
どれだけ努力しても、どれだけ祈っても、魔力は増えなかった。
結果、トアは家族から存在を無視されるようになり、最終的には「隣国への生贄」という名目で、この死の森に捨てられたのだ。
「……あはは。生贄なんて、魔獣だってこんな痩せっぽち、食べてくれないよ」
トアは自嘲気味に笑い、地面に座り込んだ。
琥珀色の髪に、森の枯れ葉が絡みつく。すみれ色の瞳には、もう涙さえ浮かんでこなかった。
体温が奪われていく。魔力が低いトアは、環境の変化にも弱い。
次第に意識が混濁し、トアはそのまま湿った地面に横たわった。
――もう、いいかな。
――誰にも必要とされない人生だったけど。
――せめて最後は、温かい夢でも見られたらいいのに。
まどろみの中で、トアは不思議な音を聞いた。
重厚な鎧が擦れ合う音。馬の蹄が力強く地面を叩く音。
そして、空気を震わせるような、低く、けれどこの上なく心地よい声。
「……おい。こんなところで、何をしている」
死神だろうか。
トアは重い瞼をわずかに持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、燃えるような紅い瞳だった。
夜の闇を溶かし込んだような漆黒の長髪が、風に揺れている。
目の前に立っていたのは、軍服に身を包んだ、恐ろしいほどに美しい男だった。
その背後には、同じように黒い鎧を纏った騎士たちが、ずらりと整列している。
「あ……」
トアは無意識に手を伸ばした。
助けてほしい、と言いたかったわけではない。
ただ、その男が放つ圧倒的な存在感と、あまりにも強大な「魔力の奔流」に、供給者としての本能が反応したのだ。
男の魔力は、今にも暴発しそうなほど荒れ狂っていた。
それは、強すぎる力を持つ者が抱える、呪いのような苦しみ。
トアは、その「痛み」を和らげてあげたいと、ただ純粋に思った。
震える指先が、男の黒い手袋にそっと触れる。
「……っ!?」
その瞬間、衝撃が走った。
トアの体の中にある「空っぽの器」が、男から流れ込んできた魔力で一気に満たされていく。
それと同時に、トアの指先から黄金色の光が溢れ出し、男を包み込んだ。
男――軍事大国ルベリスの皇帝、グレンディルは、目を見開いて硬直していた。
長年、彼を苛んできた「魔力過多」による激痛が、この少年に触れられた瞬間に消えたのだ。
それどころか、荒れ狂っていた魔力は凪のように静まり、これまでにないほどクリアな感覚が全身を支配していた。
「……貴様。今、何をした?」
グレンディルの声は、先ほどまでの冷徹なものとは違い、どこか焦燥を含んでいた。
彼は膝をつき、倒れ伏しているトアの体を抱き起こす。
「ひゃ……っ」
急に抱き寄せられ、トアの思考は真っ白になった。
自分を捨てたセフィリア王国の兵士たちは、いつも乱暴だった。
けれど、この男の手は、驚くほど慎重で、まるで壊れ物を扱うかのように優しい。
「名前は」
「……ト、ア……」
「トア、か。……信じられん。お前、自分が何者か分かっているのか?」
グレンディルはトアの頬に手を添え、その顔をじっと見つめた。
すみれ色の瞳が、不安げに揺れる。
トアは消え入りそうな声で答えた。
「僕は……魔力もほとんどない、役立たずの供給者です。だから、捨てられました……」
その言葉を聞いた瞬間、グレンディルの周囲の空気が、ピりりと凍りついた。
背後に控えていた騎士たちが、ざわりとどよめく。
「……役立たず、だと?」
グレンディルは低く笑った。それは、怒りと、それ以上の歓喜が混じった笑いだった。
彼はトアを軽々と横抱きにし、いわゆる「お姫様抱っこ」の状態で立ち上がった。
「トアと言ったな。安心しろ。その国が捨てたというなら、これからは私が、お前を丸ごと引き受けてやる」
「え……? あの、陛下……?」
「私の名はグレンディル。今日からお前は、私の――ルベリス帝国の『至宝』だ。傷一つ、指一本、誰にも触れさせはしない」
トアの耳元で囁かれたその声は、甘く、そして逃げられないほどの熱を帯びていた。
混乱するトアをよそに、グレンディルは騎士たちに命じる。
「帰還するぞ! 最優先で城の準備をさせろ。トアのために、最高級の部屋と、柔らかい寝具、それに彼が食べられそうなものをありったけ用意しておけ!」
「はっ! 直ちに!」
騎士たちの返事も、なぜか異様に気合が入っていた。
トアはグレンディルの胸板に顔を埋めたまま、ただ瞬きを繰り返す。
今まで「無能」と蔑まれてきた自分を、これほどまでに熱い眼差しで見つめ、抱きしめてくれる人がいる。
不遇の森から連れ出されたその日から、トアの人生は、想像も絶するような「甘い日々」へと一変していくことになるのだが――今のトアには、まだ知る由もなかった。
けれど、トアの心はそれとは対照的に、どしゃ降りの雨に打たれているかのように冷え切っていた。
「……本当に行ってしまったんだな」
トアは、自分の足元に転がされた小さな麻袋をぼんやりと見つめた。
中に入っているのは、数日分の硬いパンと、少しばかりの干し肉。それから、ひび割れた水筒が一つ。
それが、十八年間過ごしてきた祖国・セフィリア王国が、トアに与えた最後の慈悲だった。
この場所は、国境のさらに先にある『忘却の森』。
強力な魔獣が跋扈し、一度足を踏み入れれば二度と生きては帰れないと言われる魔境だ。
「魔力供給者(メディア)の家系に生まれながら、そんな微々たる魔力しか持たぬとは。お前のような無能は、我が家の、そして我が国の恥だ」
義父の冷酷な声が耳の奥でリフレインする。
トアの生まれた家は、代々、騎士や魔導師に魔力を分け与える「供給者」の家系だった。
供給者は、戦う者たちのバッテリーのような存在だ。優秀な供給者が一人いれば、軍の戦力は数倍に跳ね上がる。
だが、トアが持つ魔力は、ロウソクの火を灯すのが精一杯という、あまりにも微弱なものだった。
どれだけ努力しても、どれだけ祈っても、魔力は増えなかった。
結果、トアは家族から存在を無視されるようになり、最終的には「隣国への生贄」という名目で、この死の森に捨てられたのだ。
「……あはは。生贄なんて、魔獣だってこんな痩せっぽち、食べてくれないよ」
トアは自嘲気味に笑い、地面に座り込んだ。
琥珀色の髪に、森の枯れ葉が絡みつく。すみれ色の瞳には、もう涙さえ浮かんでこなかった。
体温が奪われていく。魔力が低いトアは、環境の変化にも弱い。
次第に意識が混濁し、トアはそのまま湿った地面に横たわった。
――もう、いいかな。
――誰にも必要とされない人生だったけど。
――せめて最後は、温かい夢でも見られたらいいのに。
まどろみの中で、トアは不思議な音を聞いた。
重厚な鎧が擦れ合う音。馬の蹄が力強く地面を叩く音。
そして、空気を震わせるような、低く、けれどこの上なく心地よい声。
「……おい。こんなところで、何をしている」
死神だろうか。
トアは重い瞼をわずかに持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、燃えるような紅い瞳だった。
夜の闇を溶かし込んだような漆黒の長髪が、風に揺れている。
目の前に立っていたのは、軍服に身を包んだ、恐ろしいほどに美しい男だった。
その背後には、同じように黒い鎧を纏った騎士たちが、ずらりと整列している。
「あ……」
トアは無意識に手を伸ばした。
助けてほしい、と言いたかったわけではない。
ただ、その男が放つ圧倒的な存在感と、あまりにも強大な「魔力の奔流」に、供給者としての本能が反応したのだ。
男の魔力は、今にも暴発しそうなほど荒れ狂っていた。
それは、強すぎる力を持つ者が抱える、呪いのような苦しみ。
トアは、その「痛み」を和らげてあげたいと、ただ純粋に思った。
震える指先が、男の黒い手袋にそっと触れる。
「……っ!?」
その瞬間、衝撃が走った。
トアの体の中にある「空っぽの器」が、男から流れ込んできた魔力で一気に満たされていく。
それと同時に、トアの指先から黄金色の光が溢れ出し、男を包み込んだ。
男――軍事大国ルベリスの皇帝、グレンディルは、目を見開いて硬直していた。
長年、彼を苛んできた「魔力過多」による激痛が、この少年に触れられた瞬間に消えたのだ。
それどころか、荒れ狂っていた魔力は凪のように静まり、これまでにないほどクリアな感覚が全身を支配していた。
「……貴様。今、何をした?」
グレンディルの声は、先ほどまでの冷徹なものとは違い、どこか焦燥を含んでいた。
彼は膝をつき、倒れ伏しているトアの体を抱き起こす。
「ひゃ……っ」
急に抱き寄せられ、トアの思考は真っ白になった。
自分を捨てたセフィリア王国の兵士たちは、いつも乱暴だった。
けれど、この男の手は、驚くほど慎重で、まるで壊れ物を扱うかのように優しい。
「名前は」
「……ト、ア……」
「トア、か。……信じられん。お前、自分が何者か分かっているのか?」
グレンディルはトアの頬に手を添え、その顔をじっと見つめた。
すみれ色の瞳が、不安げに揺れる。
トアは消え入りそうな声で答えた。
「僕は……魔力もほとんどない、役立たずの供給者です。だから、捨てられました……」
その言葉を聞いた瞬間、グレンディルの周囲の空気が、ピりりと凍りついた。
背後に控えていた騎士たちが、ざわりとどよめく。
「……役立たず、だと?」
グレンディルは低く笑った。それは、怒りと、それ以上の歓喜が混じった笑いだった。
彼はトアを軽々と横抱きにし、いわゆる「お姫様抱っこ」の状態で立ち上がった。
「トアと言ったな。安心しろ。その国が捨てたというなら、これからは私が、お前を丸ごと引き受けてやる」
「え……? あの、陛下……?」
「私の名はグレンディル。今日からお前は、私の――ルベリス帝国の『至宝』だ。傷一つ、指一本、誰にも触れさせはしない」
トアの耳元で囁かれたその声は、甘く、そして逃げられないほどの熱を帯びていた。
混乱するトアをよそに、グレンディルは騎士たちに命じる。
「帰還するぞ! 最優先で城の準備をさせろ。トアのために、最高級の部屋と、柔らかい寝具、それに彼が食べられそうなものをありったけ用意しておけ!」
「はっ! 直ちに!」
騎士たちの返事も、なぜか異様に気合が入っていた。
トアはグレンディルの胸板に顔を埋めたまま、ただ瞬きを繰り返す。
今まで「無能」と蔑まれてきた自分を、これほどまでに熱い眼差しで見つめ、抱きしめてくれる人がいる。
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