身代わり婚相手が「最推し」だった件。~無表情な副社長の過剰な愛が限界オタクの俺には刺激が強すぎます!~

たら昆布

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1話

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 高級ホテルのラウンジは、不自然なほど静まり返っていた。
 空調の微かな唸りと、誰かがカップを置く磁器の音だけが耳に届く。
 
 瀬戸旭は、膝の上で組んだ自分の指先を見つめた。
 シルクのドレス越しに、太ももに食い込むストッキングの感触が、慣れない女装の事実を突きつけてくる。
 
(……苦しい。コルセット、締めすぎた。いや、それ以前にこのウィッグ。首筋が痒い。でも動けない。ここでボリボリ掻いたら、瀬戸家の恥。というか、姉さんの身代わりなのがバレる。死ぬ。借金返せない。マグロ漁船……は今時ないんだっけ? とにかく人生が終わる)
 
 喉元までせり上がってきた溜息を、アールグレイの香りと共に飲み込む。
 逃げ出した双子の姉、あゆみ。彼女が残した「借金」と「縁談」という特大の置き土産。
 
「お待たせしました。一条蓮でございます」
 
 低い、チェロの低音を思わせる声が空間を震わせた。
 
 旭の心臓が、肋骨を裏側から激しく叩く。
 その声を知っている。
 毎晩、ワイヤレスイヤホンから脳内に直接流し込んでいる、愛してやまないバリトンボイス。
 
 ゆっくりと顔を上げる。
 
 視界に飛び込んできたのは、仕立てのいいチャコールグレーの三揃いを纏った男。
 銀縁の眼鏡の奥で、切れ長の瞳が冷徹な光を宿している。
 
 一条蓮。
 大手IT企業の副社長にして――旭が人生を捧げて推している、カリスマモデル『REN』その人だった。
 
(……待て。落ち着け。全俺。呼吸しろ。目の前にいるのは幻覚か? いや、本物だ。あの、左の目尻にある泣きぼくろ。修正無しの実写。無理。尊い。今すぐ五体投地して地面に額を擦りつけたい。でも、今は『淑やかな婚約者候補』を演じなきゃいけない。ここで『ファンです!』なんて叫んだら即座に出禁。推しの戸籍に傷をつけるわけにはいかない……!)
 
 旭は、全力で表情筋を凍らせた。
 
 感激に震えそうな唇を真一文字に結ぶ。
 溢れ出しそうな「好き」を、胃の奥底へ無理やり沈めた。
 結果、出来上がったのは「冷めた、人形のような無表情」だ。
 
「一条、さん……。初めまして。瀬戸あゆみ、です」
 
 裏声に近い、細い声で名前を偽る。
 罪悪感で指先が冷たくなり、爪が手のひらに食い込んだ。
 
 蓮は無言のまま、旭の対面に腰を下ろした。
 彼が動くたび、洗練されたサンダルウッドの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
 
「瀬戸さん。単刀直入に申し上げます」
 
 蓮は、テーブルに置かれたメニューには目もくれない。
 射抜くような視線が、旭の眼鏡の奥を捉えた。
 
「私は、この縁談を義務と考えています。愛だの恋だのという、不確かな感情を求めているわけではありません。形だけの夫婦。私に干渉せず、家の面子を保つための『像』。それを演じられるのであれば、条件は問いません」
 
 冷たい言葉。
 だが、旭の耳にはこう変換された。
 
(『干渉しなくていい』……? つまり、生活費をもらいながら、影から推しを拝み続け、邪魔をせずに身の回りの世話をすればいいってこと? それ、なんていう天国? ボーナスステージ確定? 徳、積みすぎたか俺?)
 
 旭の瞳の奥で、小さな火花が散った。
 しかし、表向きはあくまで静かに、儚げに目を伏せてみせる。
 
「……承知いたしました。一条様のご迷惑にならぬよう、一歩下がって過ごさせていただきます」
 
 本当は、一歩どころか三歩下がって土下座したい。
 
 蓮は、旭の返答に意外そうな顔をした。
 これまで言い寄ってきた者たちは、皆、彼の美貌や地位に色めき立ち、必死に媚びを売ってきたのだろう。
 
「……欲がないのだな」
 
 蓮が、わずかに身を乗り出す。
 
 影が落ちる。
 蓮の手が、テーブルを滑って旭の手に近づく。
 その節くれ立った男らしい指先。雑誌で何度も眺めた、あの国宝級の手。
 
「私の顔を見て、動揺すらしない女性は珍しい」
 
(動揺、してる。してるんだよ! 心拍数180超えてるんだ! 死ぬ気で隠してるだけなんだ!)
 
 旭は必死で、こみ上げる嗚咽を飲み込んだ。
 喉がヒクッと震える。
 
「一条様のような、素晴らしいお方を前にして……。言葉を失うばかりでございます」
 
 精一杯の言葉だった。
 蓮は、しばし旭を観察するように見つめていたが、やがてふっと、口角をわずかに上げた。
 
「いいだろう。君なら、静かな生活が送れそうだ」
 
 蓮が立ち上がる。
 
「結婚の準備を進める。来週には、迎えの車を出そう。いいね?」
 
「……はい。よろしくお願い申し上げます」
 
 旭は深々と頭を下げた。
 
 蓮の足音が遠ざかり、重厚な扉が閉まる音が響く。
 
 その瞬間、旭はテーブルに突っ伏した。
 
「……っはあ、死ぬ。死ぬかと思った。酸素、酸素が足りない」
 
 震える手で、冷めきった紅茶を口に運ぶ。
 口の中に残る渋みが、これが夢ではないことを証明していた。
 
 推しの家の、家具になる。
 あるいは、空気。観葉植物。
 
 目的は、借金返済。
 
 だが、旭の視線の先には、先ほどまで蓮が座っていた椅子が、確かな存在感を持って残っていた。
 
 空気に残る、かすかなサンダルウッドの残り香。
 それを思い切り吸い込みたい衝動を、旭は「自制心」という名の理性の盾で、辛うじて押し殺した。
 
 これから始まるのは、身代わりの結婚生活。
 
 そして、限界オタクによる、命懸けの「平常心」維持ゲームだった。
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