16 / 21
16話
しおりを挟む
勇者エリックを追い返した翌日。騎士団舎には、嵐が過ぎ去った後のような穏やかな時間が流れていた。
フィノは中庭の隅で、自分の体内空間の整理に勤しんでいた。エリックに腕を掴まれそうになった時の嫌な指先の感触は、ウォルターが作ってくれた温かいミルクティーを飲み干した瞬間に、すっかりお腹の底へ沈んで消えていた。
「フィノ。準備をしろ」
背後から響いたのは、聞き慣れた重厚な声。
振り返ると、そこにはいつもの威圧感のある甲冑を脱ぎ、動きやすそうな革の旅装に身を包んだウォルターが立っていた。銀髪が陽光に透け、その表情は心なしかいつもより柔らかい。
「準備、ですか?また遠征ですか?」
「違う。今日は非番だ。……お前の魔力循環が乱れているとカミルがうるさい。山を越えた先にある、静かな湖へ行く」
ウォルターはぶっきらぼうに視線を逸らし、大きな籠をフィノに差し出した。中には厳選された食材と、彼が昨夜から仕込んでいたであろう包みがぎっしりと詰まっている。
「これは、ピクニックですね!わあ、嬉しいです。全部私の空間に収納していいですか?」
「ああ。……お前の特等席に置いておけ。道中、中身が揺れないように気をつけろ」
フィノは意気揚々と食材を飲み込み、ウォルターの隣に並んだ。
王都の喧騒を離れ、二人は新緑の美しい森を抜けていく。鳥のさえずりと、足元の落ち葉が踏まれる乾いた音。ウォルターの歩幅は、いつも通りフィノを気遣ってゆっくりと刻まれていた。
たどり着いたのは、鏡のように澄んだ青い水を湛える小さな湖だった。
周囲を高い木々に囲まれ、人影は全くない。風が吹くたびに、湖面がキラキラと銀色の鱗を散らしたように輝く。
「すごい。こんなに綺麗な場所、初めて見ました」
「……以前、行軍の途中で見つけた場所だ。騒がしい連中を連れてくるには惜しいと思っていた」
ウォルターは大きな木陰を選び、厚手の布を広げた。
フィノは言われるがまま、体内空間から大切に保管していた料理を取り出していく。まだ温かさを保ったままのミートパイ。新鮮なハーブを添えた燻製肉。そして、ウォルターがこの日のために用意した特別な果実水。
「団長さん、見てください。私が整理して運んだから、パイの形も崩れてませんよ」
「よくやった。お前が箱として有能なのは分かっている。……だが今日は、それを忘れて食え」
ウォルターは手際よく火を起こすと、さらにその場で一品、小さな鉄鍋を使い始めた。
湖で獲れたばかりの小魚に香草を詰め、バターでじっくりと焼き上げていく。パチパチとはぜる音と共に、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。フィノはお腹をぐうと鳴らし、赤くなって頬を押さえた。
「味を見ろ。お前が満足しなければ、持ってきた甲斐がない」
ウォルターが差し出した品を、フィノは全力で頬張った。
バターのコクと、魚の淡白な旨味が口いっぱいに広がる。フィノの金色の瞳が、幸せそうに丸くなった。
「おいしい!団長さん、お外で食べるご飯は、なんだか魔力がいつもよりたくさん増える気がします」
「それは気のせいだ。……単に、お前の警戒心が解けて中身が安定しているだけだ」
ウォルターはぶっきらぼうに応じたが、フィノが美味しそうに食べる姿を眺めるその瞳は、春の陽だまりのように穏やかだった。彼は自分の食事もそこそこに、フィノのコップに果実水を注ぎ、パイを切り分けてやる。その仕草の一つ一つに、言葉にならない慈しみが込められていた。
食後、二人は湖を眺めながら静かな時間を過ごした。
フィノは、ウォルターの広い肩にそっと自分の肩を預けてみた。少しだけ身を固くしたウォルターだったが、すぐに力を抜き、フィノの重みを受け入れる。
「ねえ、団長さん。私、エリックさんのところにいた時は、自分が何者なのかなんて考えたこともありませんでした」
「…………」
「ただの、物を入れるだけの便利な道具。でも、団長さんに拾われてから、私は私なんだって思えるようになりました。お腹が空くのも、温かいのが嬉しいのも、全部ウォルターさんが教えてくれたことです」
フィノの言葉に、ウォルターは黙って湖を見つめていた。やがて、彼は大きな掌をフィノの頭に乗せ、ゆっくりと髪を撫でた。ごつごつした指先が、髪をすり抜けていく。
「お前は、ただの箱ではない。俺の横で笑い、俺の作った飯を一番に食う、たった一人の存在だ。……これ以上、自分を卑下するような真似はするな」
「はい」
フィノは、ウォルターの腕に自分の手を重ねた。
二人の関係はあまりに静かで、穏やかだ。けれど、フィノの体内空間には、宝石よりも輝くこの日の景色と、主の優しい手の熱さが、永遠に失われない記憶として収納されていた。
「団長さん、大好きです。……あ、今の『大好き』は、保存状態バツグンの特等席に仕舞っておきますね」
「やかましい。……さっさと片付けろ。帰るぞ」
照れ隠しに立ち上がるウォルターの耳が、夕陽のせいだけではなく赤く染まっているのを、フィノは笑いながら眺めていた。
フィノはもう二度と、道具としての関係に戻ることはない。湖畔を渡る風が、二人の幸せそうな笑い声を、森の奥へと運んでいった。
フィノは中庭の隅で、自分の体内空間の整理に勤しんでいた。エリックに腕を掴まれそうになった時の嫌な指先の感触は、ウォルターが作ってくれた温かいミルクティーを飲み干した瞬間に、すっかりお腹の底へ沈んで消えていた。
「フィノ。準備をしろ」
背後から響いたのは、聞き慣れた重厚な声。
振り返ると、そこにはいつもの威圧感のある甲冑を脱ぎ、動きやすそうな革の旅装に身を包んだウォルターが立っていた。銀髪が陽光に透け、その表情は心なしかいつもより柔らかい。
「準備、ですか?また遠征ですか?」
「違う。今日は非番だ。……お前の魔力循環が乱れているとカミルがうるさい。山を越えた先にある、静かな湖へ行く」
ウォルターはぶっきらぼうに視線を逸らし、大きな籠をフィノに差し出した。中には厳選された食材と、彼が昨夜から仕込んでいたであろう包みがぎっしりと詰まっている。
「これは、ピクニックですね!わあ、嬉しいです。全部私の空間に収納していいですか?」
「ああ。……お前の特等席に置いておけ。道中、中身が揺れないように気をつけろ」
フィノは意気揚々と食材を飲み込み、ウォルターの隣に並んだ。
王都の喧騒を離れ、二人は新緑の美しい森を抜けていく。鳥のさえずりと、足元の落ち葉が踏まれる乾いた音。ウォルターの歩幅は、いつも通りフィノを気遣ってゆっくりと刻まれていた。
たどり着いたのは、鏡のように澄んだ青い水を湛える小さな湖だった。
周囲を高い木々に囲まれ、人影は全くない。風が吹くたびに、湖面がキラキラと銀色の鱗を散らしたように輝く。
「すごい。こんなに綺麗な場所、初めて見ました」
「……以前、行軍の途中で見つけた場所だ。騒がしい連中を連れてくるには惜しいと思っていた」
ウォルターは大きな木陰を選び、厚手の布を広げた。
フィノは言われるがまま、体内空間から大切に保管していた料理を取り出していく。まだ温かさを保ったままのミートパイ。新鮮なハーブを添えた燻製肉。そして、ウォルターがこの日のために用意した特別な果実水。
「団長さん、見てください。私が整理して運んだから、パイの形も崩れてませんよ」
「よくやった。お前が箱として有能なのは分かっている。……だが今日は、それを忘れて食え」
ウォルターは手際よく火を起こすと、さらにその場で一品、小さな鉄鍋を使い始めた。
湖で獲れたばかりの小魚に香草を詰め、バターでじっくりと焼き上げていく。パチパチとはぜる音と共に、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。フィノはお腹をぐうと鳴らし、赤くなって頬を押さえた。
「味を見ろ。お前が満足しなければ、持ってきた甲斐がない」
ウォルターが差し出した品を、フィノは全力で頬張った。
バターのコクと、魚の淡白な旨味が口いっぱいに広がる。フィノの金色の瞳が、幸せそうに丸くなった。
「おいしい!団長さん、お外で食べるご飯は、なんだか魔力がいつもよりたくさん増える気がします」
「それは気のせいだ。……単に、お前の警戒心が解けて中身が安定しているだけだ」
ウォルターはぶっきらぼうに応じたが、フィノが美味しそうに食べる姿を眺めるその瞳は、春の陽だまりのように穏やかだった。彼は自分の食事もそこそこに、フィノのコップに果実水を注ぎ、パイを切り分けてやる。その仕草の一つ一つに、言葉にならない慈しみが込められていた。
食後、二人は湖を眺めながら静かな時間を過ごした。
フィノは、ウォルターの広い肩にそっと自分の肩を預けてみた。少しだけ身を固くしたウォルターだったが、すぐに力を抜き、フィノの重みを受け入れる。
「ねえ、団長さん。私、エリックさんのところにいた時は、自分が何者なのかなんて考えたこともありませんでした」
「…………」
「ただの、物を入れるだけの便利な道具。でも、団長さんに拾われてから、私は私なんだって思えるようになりました。お腹が空くのも、温かいのが嬉しいのも、全部ウォルターさんが教えてくれたことです」
フィノの言葉に、ウォルターは黙って湖を見つめていた。やがて、彼は大きな掌をフィノの頭に乗せ、ゆっくりと髪を撫でた。ごつごつした指先が、髪をすり抜けていく。
「お前は、ただの箱ではない。俺の横で笑い、俺の作った飯を一番に食う、たった一人の存在だ。……これ以上、自分を卑下するような真似はするな」
「はい」
フィノは、ウォルターの腕に自分の手を重ねた。
二人の関係はあまりに静かで、穏やかだ。けれど、フィノの体内空間には、宝石よりも輝くこの日の景色と、主の優しい手の熱さが、永遠に失われない記憶として収納されていた。
「団長さん、大好きです。……あ、今の『大好き』は、保存状態バツグンの特等席に仕舞っておきますね」
「やかましい。……さっさと片付けろ。帰るぞ」
照れ隠しに立ち上がるウォルターの耳が、夕陽のせいだけではなく赤く染まっているのを、フィノは笑いながら眺めていた。
フィノはもう二度と、道具としての関係に戻ることはない。湖畔を渡る風が、二人の幸せそうな笑い声を、森の奥へと運んでいった。
96
あなたにおすすめの小説
家を追い出されたのでツバメをやろうとしたら強面の乳兄弟に反対されて困っている
香歌奈
BL
ある日、突然、セレンは生まれ育った伯爵家を追い出された。
異母兄の婚約者に乱暴を働こうとした罪らしいが、全く身に覚えがない。なのに伯爵家当主となっている異母兄は家から締め出したばかりか、ヴァーレン伯爵家の籍まで抹消したと言う。
途方に暮れたセレンは、年の離れた乳兄弟ギーズを頼ることにした。ギーズは顔に大きな傷跡が残る強面の騎士。悪人からは恐れられ、女子供からは怯えられているという。でもセレンにとっては子守をしてくれた優しいお兄さん。ギーズの家に置いてもらう日々は昔のようで居心地がいい。とはいえ、いつまでも養ってもらうわけにはいかない。しかしお坊ちゃん育ちで手に職があるわけでもなく……。
「僕は女性ウケがいい。この顔を生かしてツバメをしようかな」「おい、待て。ツバメの意味がわかっているのか!」美貌の天然青年に振り回される強面騎士は、ついに実力行使に出る?!
婚約破棄されてヤケになって戦に乱入したら、英雄にされた上に美人で可愛い嫁ができました。
零壱
BL
自己肯定感ゼロ×圧倒的王太子───美形スパダリ同士の成長と恋のファンタジーBL。
鎖国国家クルシュの第三王子アースィムは、結婚式目前にして長年の婚約を一方的に破棄される。
ヤケになり、賑やかな幼馴染み達を引き連れ無関係の戦場に乗り込んだ結果───何故か英雄に祭り上げられ、なぜか嫁(男)まで手に入れてしまう。
「自分なんかがこんなどちゃくそ美人(男)を……」と悩むアースィム(攻)と、
「この私に不満があるのか」と詰め寄る王太子セオドア(受)。
互いを想い合う二人が紡ぐ、溺愛と溺愛の物語。
幼馴染み組もなんかしてます。
※諸事情により、再掲します。
追放オメガ聖帝の幸せな結婚〜クールなスパダリ騎士に拾われて溺愛されるまで〜
あきたいぬ大好き(深凪雪花)
BL
ノルディーナ王国の聖帝サーナは、教皇のありもしない嘘のせいで聖宮から追放されてしまう。
行く当てがないサーナが国境に向かうと、そこで隣国ルミルカ王国の騎士であるムーシュと出会う。ムーシュから諸事情により偽装結婚を提案されて、サーナは期限付きの偽装結婚ならばよいと承諾し、一時的に保護してもらうことに。
異国暮らしに慣れていく中で、やがてムーシュから溺愛されるようになり……?
【完結】巷で噂の国宝級イケメンの辺境伯は冷徹なので、まっっったくモテませんが、この度婚約者ができました。
明太子
BL
オーディスは国宝級イケメンであるにも関わらず、冷徹な性格のせいで婚約破棄されてばかり。
新たな婚約者を探していたところ、パーティーで給仕をしていた貧乏貴族の次男セシルと出会い、一目惚れしてしまう。
しかし、恋愛偏差値がほぼ0のオーディスのアプローチは空回りするわ、前婚約者のフランチェスカの邪魔が入るわとセシルとの距離は縮まったり遠ざかったり…?
冷徹だったはずなのに溺愛まっしぐらのオーディスと元気だけどおっちょこちょいなセシルのドタバタラブコメです。
【完結】第三王子、ただいま輸送中。理由は多分、大臣です
ナポ
BL
ラクス王子、目覚めたら馬車の中。
理由は不明、手紙一通とパン一個。
どうやら「王宮の空気を乱したため、左遷」だそうです。
そんな理由でいいのか!?
でもなぜか辺境での暮らしが思いのほか快適!
自由だし、食事は美味しいし、うるさい兄たちもいない!
……と思いきや、襲撃事件に巻き込まれたり、何かの教祖にされたり、ドタバタと騒がしい!!
貧乏子爵のオメガ令息は、王子妃候補になりたくない
こたま
BL
山あいの田舎で、子爵とは名ばかりの殆ど農家な仲良し一家で育ったラリー。男オメガで貧乏子爵。このまま実家で生きていくつもりであったが。王から未婚の貴族オメガにはすべからく王子妃候補の選定のため王宮に集うようお達しが出た。行きたくないしお金も無い。辞退するよう手紙を書いたのに、近くに遠征している騎士団が帰る時、迎えに行って一緒に連れていくと連絡があった。断れないの?高貴なお嬢様にイジメられない?不安だらけのラリーを迎えに来たのは美丈夫な騎士のニールだった。
BLR15【完結】ある日指輪を拾ったら、国を救った英雄の強面騎士団長と一緒に暮らすことになりました
厘
BL
ナルン王国の下町に暮らす ルカ。
この国は一部の人だけに使える魔法が神様から贈られる。ルカはその一人で武器や防具、アクセサリーに『加護』を付けて売って生活をしていた。
ある日、配達の為に下町を歩いていたら指輪が落ちていた。見覚えのある指輪だったので届けに行くと…。
国を救った英雄(強面の可愛い物好き)と出生に秘密ありの痩せた青年のお話。
☆英雄騎士 現在28歳
ルカ 現在18歳
☆第11回BL小説大賞 21位
皆様のおかげで、奨励賞をいただきました。ありがとう御座いました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる