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3話
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帝国聖騎士団の北方駐屯地。
重厚な石造りの外壁に囲まれたその場所は、本来なら剣戟の音と怒号が飛び交う殺伐とした場所であるはずだった。
しかし、リヒトが案内された一角――「聖獣管理棟」だけは、どこか穏やかで、それでいてひっそりとした緊張感に包まれていた。
「ここで、フェンリルと一緒に過ごしていいんですか?」
リヒトがおずおずと尋ねると、案内役の副団長、ハンスが苦笑いを浮かべた。
「ああ。というか、君がいないとそいつが暴れて手が付けられないからな。……もっとも、今の姿を見て『暴れん坊』だと信じる奴はいないだろうが」
ハンスの視線の先では、白銀のフェンリルがリヒトの古びた背負い袋を枕にして、幸せそうに喉を鳴らして眠っていた。
神殿では「汚れるから」と動物に触れることすら禁じられていたリヒトにとって、この温かな重みは何よりの救いだった。
その時、管理棟の重い扉が開き、カツカツと規則正しい足音が響いた。
現れたのは、団長のジークヴァルトだ。
彼は事務的な書類を手に、感情の読み取れない無機質な表情でリヒトを見下ろした。
「リヒト。体調に変化はないか」
「はい、ジークヴァルト様。お部屋も食事も、身に余るほどです」
「……そうか。だが、勘違いするな。お前をここに置くのは、あくまでフェンリルの魔力暴走を抑えるための処置だ。何か不審な動きがあれば、即座に拘束する」
ジークヴァルトの言葉は刺々しく冷たい。
しかし、その視線は書類ではなく、リヒトの足元で無防備に腹を見せて寝ているフェンリルの、真っ白な「お腹の毛」に釘付けになっていた。
(……信じられん。野性のフェンリルが、これほどまで無警戒に急所を晒すなど。あの少年が施した『洗浄』と『調律』……一体どれほどの心地よさだったというのだ)
ジークヴァルトの指先が、わずかにピクリと動く。
彼は今、猛烈にそのお腹に顔を埋めたいという衝動を、鋼のような精神力で抑え込んでいた。
「あの……ジークヴァルト様?」
リヒトが不思議そうに首を傾げると、ジークヴァルトはハッと視線を戻し、厳格な騎士の表情を取り繕った。
「なんだ」
「あの、あそこにいる子たちも……お世話してもいいでしょうか?」
リヒトが指差したのは、管理棟の奥にある大きな檻のいくつかだった。
そこには、任務で負傷したり、魔力の乱れで衰弱したりした小型の聖獣たちが収容されていた。
翼の生えたウサギ「ラビ」や、尻尾が二股に分かれた猫のような「ミケラン」たちが、どんよりとした瞳でうずくまっている。
「彼らは軍用獣だ。気性が荒くなっている個体もいる。素人が手を出せば――」
「でも、みんなとても苦しそうです。毛並みもゴワゴワで、これじゃ皮膚も痛くなってしまいます」
リヒトはジークヴァルトの許可を待たず、一番近くにいたラビの檻へ歩み寄った。
本来なら警戒して噛み付くはずのラビだが、リヒトが檻の隙間からそっと手を差し伸べると、クンクンと鼻を鳴らし、自らその手に額を押し当てた。
「……っ!?」
ジークヴァルトは絶句した。
あのラビは、昨日までベテランの飼育員にすら牙を剥いていた凶暴な個体だ。
「よしよし、頑張ったね。今、楽にしてあげるからね」
リヒトの両手から、またあの淡い、陽だまりのような光が溢れ出す。
「洗浄」で汚れを飛ばし、「鎮静」で高ぶった神経を癒やしていく。
数分後。そこには、綿毛のようにふわっふわに膨らんだ、至高のラビが誕生していた。
ラビは嬉しそうにリヒトの腕に飛び込み、首筋に顔を埋めて「ぷうぷう」と満足げな声を上げる。
「ほら、見てください、ジークヴァルト様。こんなに可愛くなりました!」
リヒトが満面の笑みで、ふわふわのラビを差し出す。
ジークヴァルトの黄金の瞳が、限界まで見開かれた。
(なんだ……あの生き物は。綿菓子か? いや、雲か? 触れたら最後、二度と現世には戻ってこれないのではないか……?)
ジークヴァルトは、震える右手を必死に左手で押さえた。
ここでリヒトからラビをひったくり、頬ずりをしてしまえば、帝国騎士団長としてのキャリアは終わる。
「……ふん。見た目だけを飾り立てても意味はない。実戦に耐えうるかどうかが重要だ」
ジークヴァルトはそれだけ言い捨てると、背を向けて早足で立ち去った。
だが、その耳たぶがわずかに赤くなっているのを、ハンスだけは見逃さなかった。
「リヒト君、気にしなくていいよ。団長は……ああ見えて、今すごく感動してるから」
「えっ? 怒ってるんじゃなくて……感動、ですか?」
リヒトは首を傾げながら、腕の中のふわふわなラビを優しく撫でた。
ジークヴァルトの背中は、いつもより少しだけ、足早だった。
重厚な石造りの外壁に囲まれたその場所は、本来なら剣戟の音と怒号が飛び交う殺伐とした場所であるはずだった。
しかし、リヒトが案内された一角――「聖獣管理棟」だけは、どこか穏やかで、それでいてひっそりとした緊張感に包まれていた。
「ここで、フェンリルと一緒に過ごしていいんですか?」
リヒトがおずおずと尋ねると、案内役の副団長、ハンスが苦笑いを浮かべた。
「ああ。というか、君がいないとそいつが暴れて手が付けられないからな。……もっとも、今の姿を見て『暴れん坊』だと信じる奴はいないだろうが」
ハンスの視線の先では、白銀のフェンリルがリヒトの古びた背負い袋を枕にして、幸せそうに喉を鳴らして眠っていた。
神殿では「汚れるから」と動物に触れることすら禁じられていたリヒトにとって、この温かな重みは何よりの救いだった。
その時、管理棟の重い扉が開き、カツカツと規則正しい足音が響いた。
現れたのは、団長のジークヴァルトだ。
彼は事務的な書類を手に、感情の読み取れない無機質な表情でリヒトを見下ろした。
「リヒト。体調に変化はないか」
「はい、ジークヴァルト様。お部屋も食事も、身に余るほどです」
「……そうか。だが、勘違いするな。お前をここに置くのは、あくまでフェンリルの魔力暴走を抑えるための処置だ。何か不審な動きがあれば、即座に拘束する」
ジークヴァルトの言葉は刺々しく冷たい。
しかし、その視線は書類ではなく、リヒトの足元で無防備に腹を見せて寝ているフェンリルの、真っ白な「お腹の毛」に釘付けになっていた。
(……信じられん。野性のフェンリルが、これほどまで無警戒に急所を晒すなど。あの少年が施した『洗浄』と『調律』……一体どれほどの心地よさだったというのだ)
ジークヴァルトの指先が、わずかにピクリと動く。
彼は今、猛烈にそのお腹に顔を埋めたいという衝動を、鋼のような精神力で抑え込んでいた。
「あの……ジークヴァルト様?」
リヒトが不思議そうに首を傾げると、ジークヴァルトはハッと視線を戻し、厳格な騎士の表情を取り繕った。
「なんだ」
「あの、あそこにいる子たちも……お世話してもいいでしょうか?」
リヒトが指差したのは、管理棟の奥にある大きな檻のいくつかだった。
そこには、任務で負傷したり、魔力の乱れで衰弱したりした小型の聖獣たちが収容されていた。
翼の生えたウサギ「ラビ」や、尻尾が二股に分かれた猫のような「ミケラン」たちが、どんよりとした瞳でうずくまっている。
「彼らは軍用獣だ。気性が荒くなっている個体もいる。素人が手を出せば――」
「でも、みんなとても苦しそうです。毛並みもゴワゴワで、これじゃ皮膚も痛くなってしまいます」
リヒトはジークヴァルトの許可を待たず、一番近くにいたラビの檻へ歩み寄った。
本来なら警戒して噛み付くはずのラビだが、リヒトが檻の隙間からそっと手を差し伸べると、クンクンと鼻を鳴らし、自らその手に額を押し当てた。
「……っ!?」
ジークヴァルトは絶句した。
あのラビは、昨日までベテランの飼育員にすら牙を剥いていた凶暴な個体だ。
「よしよし、頑張ったね。今、楽にしてあげるからね」
リヒトの両手から、またあの淡い、陽だまりのような光が溢れ出す。
「洗浄」で汚れを飛ばし、「鎮静」で高ぶった神経を癒やしていく。
数分後。そこには、綿毛のようにふわっふわに膨らんだ、至高のラビが誕生していた。
ラビは嬉しそうにリヒトの腕に飛び込み、首筋に顔を埋めて「ぷうぷう」と満足げな声を上げる。
「ほら、見てください、ジークヴァルト様。こんなに可愛くなりました!」
リヒトが満面の笑みで、ふわふわのラビを差し出す。
ジークヴァルトの黄金の瞳が、限界まで見開かれた。
(なんだ……あの生き物は。綿菓子か? いや、雲か? 触れたら最後、二度と現世には戻ってこれないのではないか……?)
ジークヴァルトは、震える右手を必死に左手で押さえた。
ここでリヒトからラビをひったくり、頬ずりをしてしまえば、帝国騎士団長としてのキャリアは終わる。
「……ふん。見た目だけを飾り立てても意味はない。実戦に耐えうるかどうかが重要だ」
ジークヴァルトはそれだけ言い捨てると、背を向けて早足で立ち去った。
だが、その耳たぶがわずかに赤くなっているのを、ハンスだけは見逃さなかった。
「リヒト君、気にしなくていいよ。団長は……ああ見えて、今すごく感動してるから」
「えっ? 怒ってるんじゃなくて……感動、ですか?」
リヒトは首を傾げながら、腕の中のふわふわなラビを優しく撫でた。
ジークヴァルトの背中は、いつもより少しだけ、足早だった。
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