12 / 32
12話
しおりを挟む
石造りの拠点の地下室には、湿った土の匂いと古い羊皮紙の香りが澱んでいる。
大きな机の上に広げられたのは、王都の外縁に建つ悪徳代官の屋敷の見取り図だった。ヴァンはランプの灯りを寄せ、羽ペンでいくつかの地点に印をつけていく。
「……よし。正面の警備は交代の時間が長い。裏の食料搬入口から潜り込むぞ」
ヴァンの低い声が室内に響く。
「でもヴァン、今回のターゲットは女好きで有名な代官よ? 入り口の検問も厳しいって噂だけど、どうやって突破するつもり?」
メイが剥いたリンゴを齧りながら、身を乗り出した。
「ああ。だから、今回は真っ当な商人を装って正面から入る。ちょうどあのアホ代官、新しい給仕や従者を探してるって情報が入った。……潜入するのは、俺とリナートだ」
ヴァンの言葉に、部屋中の空気が凍りついた。
リナートはというと、自分の指に巻かれた包帯を不思議そうに眺めていたが、名前を呼ばれて勢いよく顔を上げた。
「私ですか? ヴァンの役に立てるのなら、喜んでお供します!」
「正気か、頭領! こんな目立つ『歩く宝石』を連れて行ってみろ。潜入どころか、代官にそのまま献上することになっちまうぞ!」
ログが頭を抱えて叫ぶ。ヴァンは短く鼻を鳴らし、机を拳で叩いた。
「だからこそだ。昨日の騎士たちの動きを見ただろ。今、リナートを一人で拠点に残しておく方が危ねえ。俺の目の届くところで、俺が守る。……それと、こいつの顔なら、どんなに厳しい検問も『見惚れて』ガバガバになるはずだ」
自分で言っていて、ヴァンの胸の奥がチリチリと焼ける。リナートの美貌を道具にするのは本意ではない。だが、今の情勢で彼を自由にしておくリスクは高すぎた。
「分かったわ。じゃあ、まずはその『お姫様』を、誰が見ても高貴な従者に仕立て上げないとね」
メイが不敵な笑みを浮かべ、リナートの手を引いて衣装部屋へと消えていった。
数刻後。
廊下から、軽い靴音が近づいてくる。
ヴァンは腕組みをしたまま、壁に背を預けて待っていた。心臓の鼓動が、自分でも驚くほど騒がしい。リナートがどんな格好をして現れるのか。期待と不安が入り混じった熱が、胃のあたりを重く押さえつけていた。
「……お待たせしました、ヴァン」
カーテンが引かれるような滑らかな音と共に、姿を現したリナートを見て、ヴァンは呼吸の仕方を忘れた。
そこにいたのは、泥にまみれていたあの日の青年ではなかった。
深い紺色のシルクのシャツに、体にぴったりと沿った白いスラックス。首元には細かな刺繍が施されたスカーフが巻かれ、その結び目には小さなサファイアが輝いている。
何より、丁寧に整えられた銀糸の髪が、ランプの光を浴びて月の雫のように煌めいていた。
「どうでしょうか……。少し、体が締め付けられるような気がしますが、変ではありませんか?」
リナートが恥ずかしそうに、自分の袖を弄る。
変どころではない。
ヴァンは乾いた喉を鳴らした。あまりの美しさに、視界が白く霞むような感覚に陥る。磨き上げられたリナートの肌は、触れれば指先が溶けてしまいそうなほど滑らかに見えた。
「……、……ああ。悪くない」
絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。
「悪くない、どころじゃないわよ! 見てよこの完成度。どこに出しても恥ずかしくないどころか、どこの国の第一王子だって言われても信じるわよ」
メイが誇らしげにリナートの肩を叩く。リナートはヴァンの元へ歩み寄り、その大きな掌をそっと両手で包み込んだ。
「ヴァンの隣に並んでも、恥ずかしくないでしょうか」
翡翠色の瞳が、不安げにヴァンの顔を覗き込んでくる。
ヴァンは咄嗟に顔を背けた。顔に血が集まり、爆発しそうなほどの熱を感じる。
「……恥ずかしくねえよ。ただ、目立ちすぎる。代官の前では、絶対に俺の側を離れるな。何かあったら、すぐに俺の背中に隠れろ」
「はい。ヴァンの背中は、世界で一番安全な場所ですから」
リナートがにこりと微笑む。その無防備な信頼が、今のヴァンにはどんな刃よりも鋭く突き刺さった。
夜の帳が下り、王都の喧騒が遠のく。
二人は偽造した通行証を手に、代官の屋敷へと向かう馬車に乗り込んだ。
狭い車内、膝と膝が触れ合う距離。
馬車が揺れるたびに、リナートの甘い石鹸の香りと、隠しきれない高揚した体温がヴァンの肌に伝わってくる。
ヴァンは窓の外を眺めながら、自分の右手を強く握りしめた。掌には、リナートの柔らかい手の感触がまだ残っている。
今回の任務は、悪徳代官が溜め込んだ裏帳簿を盗み出すことだ。
だが、今のヴァンにとっては、隣に座るこの美しい青年を、誰の視線にも触れさせずに守り抜くことの方が、遥かに難易度の高い任務に感じられていた。
「……リナート」
「はい、ヴァン」
「……いや、なんでもない。……寝るなよ」
「ふふ、大丈夫ですよ。楽しみで、眠れそうにありませんから」
暗闇の中、リナートの瞳が猫のように怪しく、そして愛らしく輝く。
義賊の頭領としての冷静さを保つのは、もはや限界に近かった。ヴァンは溜め息を飲み込み、迫り来る屋敷の影を睨みつけた。
潜入ミッションは、まだ始まったばかりだ。
大きな机の上に広げられたのは、王都の外縁に建つ悪徳代官の屋敷の見取り図だった。ヴァンはランプの灯りを寄せ、羽ペンでいくつかの地点に印をつけていく。
「……よし。正面の警備は交代の時間が長い。裏の食料搬入口から潜り込むぞ」
ヴァンの低い声が室内に響く。
「でもヴァン、今回のターゲットは女好きで有名な代官よ? 入り口の検問も厳しいって噂だけど、どうやって突破するつもり?」
メイが剥いたリンゴを齧りながら、身を乗り出した。
「ああ。だから、今回は真っ当な商人を装って正面から入る。ちょうどあのアホ代官、新しい給仕や従者を探してるって情報が入った。……潜入するのは、俺とリナートだ」
ヴァンの言葉に、部屋中の空気が凍りついた。
リナートはというと、自分の指に巻かれた包帯を不思議そうに眺めていたが、名前を呼ばれて勢いよく顔を上げた。
「私ですか? ヴァンの役に立てるのなら、喜んでお供します!」
「正気か、頭領! こんな目立つ『歩く宝石』を連れて行ってみろ。潜入どころか、代官にそのまま献上することになっちまうぞ!」
ログが頭を抱えて叫ぶ。ヴァンは短く鼻を鳴らし、机を拳で叩いた。
「だからこそだ。昨日の騎士たちの動きを見ただろ。今、リナートを一人で拠点に残しておく方が危ねえ。俺の目の届くところで、俺が守る。……それと、こいつの顔なら、どんなに厳しい検問も『見惚れて』ガバガバになるはずだ」
自分で言っていて、ヴァンの胸の奥がチリチリと焼ける。リナートの美貌を道具にするのは本意ではない。だが、今の情勢で彼を自由にしておくリスクは高すぎた。
「分かったわ。じゃあ、まずはその『お姫様』を、誰が見ても高貴な従者に仕立て上げないとね」
メイが不敵な笑みを浮かべ、リナートの手を引いて衣装部屋へと消えていった。
数刻後。
廊下から、軽い靴音が近づいてくる。
ヴァンは腕組みをしたまま、壁に背を預けて待っていた。心臓の鼓動が、自分でも驚くほど騒がしい。リナートがどんな格好をして現れるのか。期待と不安が入り混じった熱が、胃のあたりを重く押さえつけていた。
「……お待たせしました、ヴァン」
カーテンが引かれるような滑らかな音と共に、姿を現したリナートを見て、ヴァンは呼吸の仕方を忘れた。
そこにいたのは、泥にまみれていたあの日の青年ではなかった。
深い紺色のシルクのシャツに、体にぴったりと沿った白いスラックス。首元には細かな刺繍が施されたスカーフが巻かれ、その結び目には小さなサファイアが輝いている。
何より、丁寧に整えられた銀糸の髪が、ランプの光を浴びて月の雫のように煌めいていた。
「どうでしょうか……。少し、体が締め付けられるような気がしますが、変ではありませんか?」
リナートが恥ずかしそうに、自分の袖を弄る。
変どころではない。
ヴァンは乾いた喉を鳴らした。あまりの美しさに、視界が白く霞むような感覚に陥る。磨き上げられたリナートの肌は、触れれば指先が溶けてしまいそうなほど滑らかに見えた。
「……、……ああ。悪くない」
絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。
「悪くない、どころじゃないわよ! 見てよこの完成度。どこに出しても恥ずかしくないどころか、どこの国の第一王子だって言われても信じるわよ」
メイが誇らしげにリナートの肩を叩く。リナートはヴァンの元へ歩み寄り、その大きな掌をそっと両手で包み込んだ。
「ヴァンの隣に並んでも、恥ずかしくないでしょうか」
翡翠色の瞳が、不安げにヴァンの顔を覗き込んでくる。
ヴァンは咄嗟に顔を背けた。顔に血が集まり、爆発しそうなほどの熱を感じる。
「……恥ずかしくねえよ。ただ、目立ちすぎる。代官の前では、絶対に俺の側を離れるな。何かあったら、すぐに俺の背中に隠れろ」
「はい。ヴァンの背中は、世界で一番安全な場所ですから」
リナートがにこりと微笑む。その無防備な信頼が、今のヴァンにはどんな刃よりも鋭く突き刺さった。
夜の帳が下り、王都の喧騒が遠のく。
二人は偽造した通行証を手に、代官の屋敷へと向かう馬車に乗り込んだ。
狭い車内、膝と膝が触れ合う距離。
馬車が揺れるたびに、リナートの甘い石鹸の香りと、隠しきれない高揚した体温がヴァンの肌に伝わってくる。
ヴァンは窓の外を眺めながら、自分の右手を強く握りしめた。掌には、リナートの柔らかい手の感触がまだ残っている。
今回の任務は、悪徳代官が溜め込んだ裏帳簿を盗み出すことだ。
だが、今のヴァンにとっては、隣に座るこの美しい青年を、誰の視線にも触れさせずに守り抜くことの方が、遥かに難易度の高い任務に感じられていた。
「……リナート」
「はい、ヴァン」
「……いや、なんでもない。……寝るなよ」
「ふふ、大丈夫ですよ。楽しみで、眠れそうにありませんから」
暗闇の中、リナートの瞳が猫のように怪しく、そして愛らしく輝く。
義賊の頭領としての冷静さを保つのは、もはや限界に近かった。ヴァンは溜め息を飲み込み、迫り来る屋敷の影を睨みつけた。
潜入ミッションは、まだ始まったばかりだ。
0
あなたにおすすめの小説
王太子殿下のやりなおし
3333(トリささみ)
BL
ざまぁモノでよくある『婚約破棄をして落ちぶれる王太子』が断罪前に改心し、第三の道を歩むお話です。
とある時代のとある異世界。
そこに王太子と、その婚約者の公爵令嬢と、男爵令嬢がいた。
公爵令嬢は周囲から尊敬され愛される素晴らしい女性だが、王太子はたいそう愚かな男だった。
王太子は学園で男爵令嬢と知り合い、ふたりはどんどん関係を深めていき、やがては愛し合う仲になった。
そんなあるとき、男爵令嬢が自身が受けている公爵令嬢のイジメを、王太子に打ち明けた。
王太子は驚いて激怒し、学園の卒業パーティーで公爵令嬢を断罪し婚約破棄することを、男爵令嬢に約束する。
王太子は喜び、舞い上がっていた。
これで公爵令嬢との縁を断ち切って、彼女と結ばれる!
僕はやっと幸せを手に入れられるんだ!
「いいやその幸せ、間違いなく破綻するぞ。」
あの男が現れるまでは。
異世界オークションで売られた俺、落札したのは昔助けた狼でした
うんとこどっこいしょ
BL
異世界の闇オークションで商品として目覚めた青年・アキラ。
獣人族たちに値踏みされ、競りにかけられる恐怖の中、彼を千枚の金貨で落札したのは、銀灰色の髪を持つ狼の獣人・ロウだった。
怯えるアキラに、ロウは思いがけない言葉を告げる。
「やっと会えた。お前は俺の命の恩人だ」
戸惑うアキラの脳裏に蘇るのは、かつて雨の日に助けた一匹の子狼との記憶。
獣人世界を舞台に、命の恩人であるアキラと、一途に想い続けた狼獣人が紡ぐ、執着と溺愛の異世界BLロマンス。
第一章 完結
第二章 完結
雫
ゆい
BL
涙が落ちる。
涙は彼に届くことはない。
彼を想うことは、これでやめよう。
何をどうしても、彼の気持ちは僕に向くことはない。
僕は、その場から音を立てずに立ち去った。
僕はアシェル=オルスト。
侯爵家の嫡男として生まれ、10歳の時にエドガー=ハルミトンと婚約した。
彼には、他に愛する人がいた。
世界観は、【夜空と暁と】と同じです。
アルサス達がでます。
【夜空と暁と】を知らなくても、これだけで読めます。
2025.4.28 ムーンライトノベルに投稿しました。
悪役令嬢と呼ばれた侯爵家三男は、隣国皇子に愛される
木月月
BL
貴族学園に通う主人公、シリル。ある日、ローズピンクな髪が特徴的な令嬢にいきなりぶつかられ「悪役令嬢」と指を指されたが、シリルはれっきとした男。令嬢ではないため無視していたら、学園のエントランスの踊り場の階段から突き落とされる。骨折や打撲を覚悟してたシリルを抱き抱え助けたのは、隣国からの留学生で同じクラスに居る第2皇子殿下、ルシアン。シリルの家の侯爵家にホームステイしている友人でもある。シリルを突き落とした令嬢は「その人、悪役令嬢です!離れて殿下!」と叫び、ルシアンはシリルを「護るべきものだから、守った」といい始めーー
※この話は小説家になろうにも掲載しています。
おしまいのそのあとは
makase
BL
悪役令息として転生してしまった神楽坂龍一郎は、心を入れ替え、主人公のよき友人になるよう努力していた。ところがこの選択肢が、神楽坂の大切な人を傷つける可能性が浮上する。困った神楽坂は、自分を犠牲にする道を歩みかけるが……
恋のかたちになるまでに
キザキ ケイ
BL
トラウマで女性が苦手な善は、初めて足を踏み入れたミックスバーで男に恋してしまう。
男を恋愛対象にできると知っていたのは、親友のリュウが男と付き合っていたことがあるからだった。
気持ちを持て余して恋心を相談した善は、「野暮ったい自分」を脱するためにリュウのアドバイスを受けることに。
一方、リュウのほうも、ただの友達だったはずの善に対する気持ちに変化があるようで────。
家を追い出されたのでツバメをやろうとしたら強面の乳兄弟に反対されて困っている
香歌奈
BL
ある日、突然、セレンは生まれ育った伯爵家を追い出された。
異母兄の婚約者に乱暴を働こうとした罪らしいが、全く身に覚えがない。なのに伯爵家当主となっている異母兄は家から締め出したばかりか、ヴァーレン伯爵家の籍まで抹消したと言う。
途方に暮れたセレンは、年の離れた乳兄弟ギーズを頼ることにした。ギーズは顔に大きな傷跡が残る強面の騎士。悪人からは恐れられ、女子供からは怯えられているという。でもセレンにとっては子守をしてくれた優しいお兄さん。ギーズの家に置いてもらう日々は昔のようで居心地がいい。とはいえ、いつまでも養ってもらうわけにはいかない。しかしお坊ちゃん育ちで手に職があるわけでもなく……。
「僕は女性ウケがいい。この顔を生かしてツバメをしようかな」「おい、待て。ツバメの意味がわかっているのか!」美貌の天然青年に振り回される強面騎士は、ついに実力行使に出る?!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる