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21話
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石造りの拠点は、かつてないほど冷え込んでいた。
暖炉には火が灯っているはずなのに、その熱は分厚い壁に遮られ、ヴァンの元までは届かない。彼は自室の机に向かい、研ぎ石でナイフを研いでいた。規則的な、キリキリという高い音が、静まり返った部屋に嫌な響きを立てる。
扉が微かな音を立てて開いた。
足音を聞かなくても分かる。この世界で最も軽やかで、それでいて迷いのない靴音の主は、リナートだ。
「ヴァン。今夜のスープ、ログさんが少しだけ塩を入れすぎたみたいです。でも、お肉はとても柔らかいですよ」
リナートの声は、いつも通り穏やかで、少しだけ楽しげだった。
ヴァンは手を止めず、視線をナイフの刃先に固定したまま低く応じた。
「……食わない。今は仕事の整理で忙しい」
「そうですか。でも、一口だけでも。私が、ヴァンの分を温め直してきましたから」
リナートが近づいてくる。
銀糸のような髪が揺れる気配、そして彼から漂う清潔な石鹸の香りが、ヴァンの肺を抉るように入り込んできた。ナイフを握る手に思わず力がこもり、指の関節が白く浮き出る。
「……置いたらさっさと出ていけ」
ヴァンの突き放すような物言いに、リナートの気配がぴたりと止まった。
翡翠色の瞳が、困惑に揺れているのが、見なくても伝わってくる。
「ヴァン? 何か、怒っていますか」
リナートがトレイを机の端に置き、ヴァンの肩に手を伸ばそうとした。
その温かい指先が触れる前に、ヴァンは椅子を激しく鳴らして立ち上がった。
「触るなと言ってるだろうが!」
怒声が狭い部屋に反響した。
リナートの手が空中で凍りつく。大きな瞳に浮かんだのは、恐怖ではなく、ただ純粋な悲しみだった。その無垢な光が、今のヴァンにはどんな刃よりも鋭く突き刺さる。
「……お前、自分の立場を分かってるのか。騎士団があそこまで必死になって探してるんだ。お前がここにいれば、俺たちの拠点はいつまでも狙われ続ける」
「私は、ここにいたいと言いました。王宮なんて、どこにも……」
「お前の我儘に付き合ってる暇はねえんだよ!」
ヴァンは机の上の書類を乱暴に掃き散らした。
「俺たちは義賊だ。汚い金や裏の情報を扱って、その日暮らしをしてる悪党だ。お前みたいな、歩くだけで国中の騎士を呼び寄せるような厄介者は、もうお荷物なんだよ。これ以上、仲間の命を懸けてまでお前を囲っておくメリットがねえ」
嘘だった。
心臓が、内側から肋骨を叩き壊さんばかりに暴れている。喉の奥までせり上がってきた「行くな」という言葉を、鉄の味を噛み締めて飲み下す。
騎士アラリックが去り際に残した「殿下を護る資格」という言葉。それは、今のヴァンにとって呪いのように重くのしかかっていた。
自分とリナートでは、住む世界が違いすぎる。
泥にまみれた義賊の巣窟に、銀色の至宝を閉じ込めておくことは、彼をゆっくりと腐らせていくのと同じだ。いずれ、リナートの純粋さは、この世界の濁った空気に塗り潰されてしまうだろう。
「……だから、勝手にどこへでも行け。あの方向音痴の騎士でも誰でもいい、さっさと付いていけ」
「ヴァン……本気で、そう思っているのですか」
リナートの声が、かすかに震えた。
彼は一歩、ヴァンの前に踏み出した。見上げる翡翠色の瞳には、一筋の涙が膜を張っている。
「私の目は、本物を見抜くと言ってくれましたよね。……今のヴァンの言葉、全然、光っていません。暗くて、冷たくて、今にも壊れてしまいそうな色をしています」
「……黙れ。お前の鑑定眼なんて、ただの偶然だ」
ヴァンはリナートの胸元を突き放すように押し、扉を指差した。
「さっさと出て行け! 俺の視界に入るな!」
リナートはそれ以上、言葉を発しなかった。
ただ、唇を強く噛み締め、最後にもう一度だけヴァンの顔をじっと見つめると、静かに背を向けた。
バタン、と扉が閉まる音が、ヴァンの死刑宣告のように響いた。
部屋に残されたのは、リナートが持ってきた温かいスープの香りと、耐え難いほどの静寂。
「……、……、……ああ、クソ」
ヴァンは椅子に崩れ落ち、顔を両手で覆った。
掌に残る、リナートを突き放した時の微かな熱。
あれほどまでに「離したくない」と願った宝物を、自ら手放した。自分の人生で最も大きな成功であり、同時に最悪の失敗だと、理性が叫んでいる。
数刻後、拠点の外から馬の嘶きが聞こえてきた。
ヴァンは窓の隙間から、夜の帳へと消えていく一団を見つめていた。
騎士たちに囲まれ、馬の背に揺られる銀色の髪。
リナートは一度も振り返らなかった。
その背中が闇に溶けて見えなくなった瞬間、ヴァンは胸の奥の風穴に、冷たい風が吹き抜けるのを感じた。
「……行ったか」
背後でログが、低い声で言った。
振り返れば、ログもメイも、いつになく沈痛な面持ちで立っていた。
「頭領。あんた、あれで良かったのかよ。あの子、泣いてたぜ」
「……ああ。あれでいいんだ。あいつは、もっと綺麗な場所にいるべきなんだよ」
ヴァンは自分に言い聞かせるように、震える声で答えた。
だが、その夜、ヴァンが作ったスープは、これまでのどんな料理よりも酷い、泥のような味がした。
拠点は確かに平和を取り戻したはずだった。
それなのに、ヴァンの心臓は、まるで大切な半分を切り取られたかのように、空虚な拍動を刻み続けるのだった。
数日後。
王都の街角で、ヴァンは一通の噂を耳にする。
隣国から来た公爵と、リナート殿下の婚約が急遽決まったという知らせを。
ヴァンの指先が、持っていた情報を記した羊皮紙を無残に握り潰した。
初恋の難易度は、ついに絶望という名の崖っぷちまで追い詰められていた。
「……、……あのアホ王子。あんなに世間知らずのくせに、結婚なんてできるわけねえだろ」
口から漏れたのは、負け惜しみにもならない独り言。
だが、ヴァンの瞳には、冷たい決意の炎が再び宿り始めていた。
暖炉には火が灯っているはずなのに、その熱は分厚い壁に遮られ、ヴァンの元までは届かない。彼は自室の机に向かい、研ぎ石でナイフを研いでいた。規則的な、キリキリという高い音が、静まり返った部屋に嫌な響きを立てる。
扉が微かな音を立てて開いた。
足音を聞かなくても分かる。この世界で最も軽やかで、それでいて迷いのない靴音の主は、リナートだ。
「ヴァン。今夜のスープ、ログさんが少しだけ塩を入れすぎたみたいです。でも、お肉はとても柔らかいですよ」
リナートの声は、いつも通り穏やかで、少しだけ楽しげだった。
ヴァンは手を止めず、視線をナイフの刃先に固定したまま低く応じた。
「……食わない。今は仕事の整理で忙しい」
「そうですか。でも、一口だけでも。私が、ヴァンの分を温め直してきましたから」
リナートが近づいてくる。
銀糸のような髪が揺れる気配、そして彼から漂う清潔な石鹸の香りが、ヴァンの肺を抉るように入り込んできた。ナイフを握る手に思わず力がこもり、指の関節が白く浮き出る。
「……置いたらさっさと出ていけ」
ヴァンの突き放すような物言いに、リナートの気配がぴたりと止まった。
翡翠色の瞳が、困惑に揺れているのが、見なくても伝わってくる。
「ヴァン? 何か、怒っていますか」
リナートがトレイを机の端に置き、ヴァンの肩に手を伸ばそうとした。
その温かい指先が触れる前に、ヴァンは椅子を激しく鳴らして立ち上がった。
「触るなと言ってるだろうが!」
怒声が狭い部屋に反響した。
リナートの手が空中で凍りつく。大きな瞳に浮かんだのは、恐怖ではなく、ただ純粋な悲しみだった。その無垢な光が、今のヴァンにはどんな刃よりも鋭く突き刺さる。
「……お前、自分の立場を分かってるのか。騎士団があそこまで必死になって探してるんだ。お前がここにいれば、俺たちの拠点はいつまでも狙われ続ける」
「私は、ここにいたいと言いました。王宮なんて、どこにも……」
「お前の我儘に付き合ってる暇はねえんだよ!」
ヴァンは机の上の書類を乱暴に掃き散らした。
「俺たちは義賊だ。汚い金や裏の情報を扱って、その日暮らしをしてる悪党だ。お前みたいな、歩くだけで国中の騎士を呼び寄せるような厄介者は、もうお荷物なんだよ。これ以上、仲間の命を懸けてまでお前を囲っておくメリットがねえ」
嘘だった。
心臓が、内側から肋骨を叩き壊さんばかりに暴れている。喉の奥までせり上がってきた「行くな」という言葉を、鉄の味を噛み締めて飲み下す。
騎士アラリックが去り際に残した「殿下を護る資格」という言葉。それは、今のヴァンにとって呪いのように重くのしかかっていた。
自分とリナートでは、住む世界が違いすぎる。
泥にまみれた義賊の巣窟に、銀色の至宝を閉じ込めておくことは、彼をゆっくりと腐らせていくのと同じだ。いずれ、リナートの純粋さは、この世界の濁った空気に塗り潰されてしまうだろう。
「……だから、勝手にどこへでも行け。あの方向音痴の騎士でも誰でもいい、さっさと付いていけ」
「ヴァン……本気で、そう思っているのですか」
リナートの声が、かすかに震えた。
彼は一歩、ヴァンの前に踏み出した。見上げる翡翠色の瞳には、一筋の涙が膜を張っている。
「私の目は、本物を見抜くと言ってくれましたよね。……今のヴァンの言葉、全然、光っていません。暗くて、冷たくて、今にも壊れてしまいそうな色をしています」
「……黙れ。お前の鑑定眼なんて、ただの偶然だ」
ヴァンはリナートの胸元を突き放すように押し、扉を指差した。
「さっさと出て行け! 俺の視界に入るな!」
リナートはそれ以上、言葉を発しなかった。
ただ、唇を強く噛み締め、最後にもう一度だけヴァンの顔をじっと見つめると、静かに背を向けた。
バタン、と扉が閉まる音が、ヴァンの死刑宣告のように響いた。
部屋に残されたのは、リナートが持ってきた温かいスープの香りと、耐え難いほどの静寂。
「……、……、……ああ、クソ」
ヴァンは椅子に崩れ落ち、顔を両手で覆った。
掌に残る、リナートを突き放した時の微かな熱。
あれほどまでに「離したくない」と願った宝物を、自ら手放した。自分の人生で最も大きな成功であり、同時に最悪の失敗だと、理性が叫んでいる。
数刻後、拠点の外から馬の嘶きが聞こえてきた。
ヴァンは窓の隙間から、夜の帳へと消えていく一団を見つめていた。
騎士たちに囲まれ、馬の背に揺られる銀色の髪。
リナートは一度も振り返らなかった。
その背中が闇に溶けて見えなくなった瞬間、ヴァンは胸の奥の風穴に、冷たい風が吹き抜けるのを感じた。
「……行ったか」
背後でログが、低い声で言った。
振り返れば、ログもメイも、いつになく沈痛な面持ちで立っていた。
「頭領。あんた、あれで良かったのかよ。あの子、泣いてたぜ」
「……ああ。あれでいいんだ。あいつは、もっと綺麗な場所にいるべきなんだよ」
ヴァンは自分に言い聞かせるように、震える声で答えた。
だが、その夜、ヴァンが作ったスープは、これまでのどんな料理よりも酷い、泥のような味がした。
拠点は確かに平和を取り戻したはずだった。
それなのに、ヴァンの心臓は、まるで大切な半分を切り取られたかのように、空虚な拍動を刻み続けるのだった。
数日後。
王都の街角で、ヴァンは一通の噂を耳にする。
隣国から来た公爵と、リナート殿下の婚約が急遽決まったという知らせを。
ヴァンの指先が、持っていた情報を記した羊皮紙を無残に握り潰した。
初恋の難易度は、ついに絶望という名の崖っぷちまで追い詰められていた。
「……、……あのアホ王子。あんなに世間知らずのくせに、結婚なんてできるわけねえだろ」
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