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28話
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二月十四日、東京ドームという巨大な聖域で二十一歳の誕生日を迎えた玲央は、あの日を境に、どこか憑き物が落ちたような、穏やかな表情を見せるようになっていた。
三月。暦の上では春だけれど、夜の風にはまだ冬の鋭さが残っている。
僕は大学三年生としてのすべての講義を終え、いよいよ「就職活動」や「卒業論文」という、大人になるための最後のステップを控えた春休みの中にいた。
一方の玲央も、ドーム公演という大きな山を越え、次なる世界ツアーに向けた準備期間に入っている。事務所の配慮もあり、彼には珍しくまとまった「自分を取り戻すための時間」が与えられていた。
その日の午後、僕たちは久しぶりに外で待ち合わせをした。
場所は、かつて二人でよく歩いた、川沿いの古い並木道。
「……千秋! お待たせ。……やっぱり、この時期の風は気持ちいいね」
並木の影から現れた玲央は、飾らないスウェット姿に、僕がプレゼントしたマフラーをゆるく巻いていた。トップアイドルとしての「レオ」ではなく、一人の二十一歳の青年としての「玲央」がそこにいた。
「玲央。……今日は一段と、いい顔をしてるね」
「そうかな。……たぶん、昨日もしっかり眠れたからかな。千秋の部屋でね」
玲央はいたずらっぽく笑って、僕の隣に並んだ。
川面にはキラキラと春の陽光が反射し、時折、早咲きの桜の花びらが風に乗って僕たちの間を通り抜けていく。
僕たちは、どちらからともなくゆっくりと歩き出した。
これまでは、玲央が「僕の部屋に来る」という形が多かった。彼を守るために、外での接触を避けてきたからだ。けれど、今の僕たちには、変な緊張感はなかった。たとえ誰かに見られたとしても、この穏やかな空気までは誰も壊せないという、不思議な信頼があった。
「ねえ、千秋。……来月からは、いよいよ四年生だね。忙しくなるんでしょ?」
「そうだね。セミナーも始まるし、将来のこともちゃんと決めなきゃいけない。……玲央みたいに、真っ直ぐにやりたいことを見つけられてるわけじゃないから、少し不安だけど」
僕が正直な気持ちを吐露すると、玲央はふと立ち止まり、僕の方をじっと見つめた。
「……千秋は、そのままでいいんだよ。……無理に何者かになろうとしなくても、君は僕にとって、世界でたった一人の、最高の千秋なんだから」
玲央はそう言って、僕の手をそっと握った。
それは、十年前のあの日のように、すがりつくような力強さではなかった。
温かくて、柔らかくて、まるでお互いの体温を確認し合うような、静かな重なり。
「……僕ね、ドームのステージで歌いながら、ずっと考えてたんだ。……僕が歌い続ける理由は、もちろんファンのためでもあるけど。……一番は、こうして千秋と繋いでいる手の温もりを、一生忘れたくないからなんだって」
玲央の声は、春の風に溶けてしまいそうなほど優しかった。
「好きだよ、千秋。……これまでも、これからも。……親友としてだけじゃなくて、僕の人生の隣にいてほしい人は、君だけなんだ」
具体的な「恋人」や「愛」という言葉を使わなくても、その響きには、どんな告白よりも深い真実が宿っていた。
僕は握り返された手のひらに、少しだけ力を込めた。
「……僕もだよ、玲央。……君がどれほど高い場所へ昇っていっても、僕が君の手を離すことはない。……来年も、再来年も、こうして一緒に春を迎えよう」
玲央は僕の言葉を聞くと、安心したように目を細め、僕の肩に頭を預けた。
まだ蕾の多い桜並木の下。
僕たちは、言葉にする必要さえないほどに、深く、優しく、結ばれていた。
これから始まる、大学生最後の、そして玲央がさらなるスターへと駆け上がる激動の一年。
どんな困難が待ち受けていても、この手の温もりがあれば、僕たちはどこへだって行ける。
夕暮れ時。
僕たちは、どちらからともなく寄り添い、僕の小さなアパートへと向かった。
ドアを開け、明かりを灯す。
そこには、昨日の続きの、けれど昨日よりも少しだけ甘くて温かい、二人だけの「家」が待っている。
「……ただいま、千秋」
「おかえり、玲央」
何千回、何万回と繰り返されるであろう、この当たり前のやり取り。
それこそが、僕たちが十年の歳月をかけて手に入れた、世界で一番贅沢な宝物だった。
窓の外には、春の宵闇。
夜空には、あのドームで見た照明よりもずっと穏やかな星たちが、二人の行く末を祝福するように瞬いていた。
僕たちの銀河は、これからも。
この小さな部屋の明かりとともに、永遠に、穏やかに輝き続けていくのだ。
三月。暦の上では春だけれど、夜の風にはまだ冬の鋭さが残っている。
僕は大学三年生としてのすべての講義を終え、いよいよ「就職活動」や「卒業論文」という、大人になるための最後のステップを控えた春休みの中にいた。
一方の玲央も、ドーム公演という大きな山を越え、次なる世界ツアーに向けた準備期間に入っている。事務所の配慮もあり、彼には珍しくまとまった「自分を取り戻すための時間」が与えられていた。
その日の午後、僕たちは久しぶりに外で待ち合わせをした。
場所は、かつて二人でよく歩いた、川沿いの古い並木道。
「……千秋! お待たせ。……やっぱり、この時期の風は気持ちいいね」
並木の影から現れた玲央は、飾らないスウェット姿に、僕がプレゼントしたマフラーをゆるく巻いていた。トップアイドルとしての「レオ」ではなく、一人の二十一歳の青年としての「玲央」がそこにいた。
「玲央。……今日は一段と、いい顔をしてるね」
「そうかな。……たぶん、昨日もしっかり眠れたからかな。千秋の部屋でね」
玲央はいたずらっぽく笑って、僕の隣に並んだ。
川面にはキラキラと春の陽光が反射し、時折、早咲きの桜の花びらが風に乗って僕たちの間を通り抜けていく。
僕たちは、どちらからともなくゆっくりと歩き出した。
これまでは、玲央が「僕の部屋に来る」という形が多かった。彼を守るために、外での接触を避けてきたからだ。けれど、今の僕たちには、変な緊張感はなかった。たとえ誰かに見られたとしても、この穏やかな空気までは誰も壊せないという、不思議な信頼があった。
「ねえ、千秋。……来月からは、いよいよ四年生だね。忙しくなるんでしょ?」
「そうだね。セミナーも始まるし、将来のこともちゃんと決めなきゃいけない。……玲央みたいに、真っ直ぐにやりたいことを見つけられてるわけじゃないから、少し不安だけど」
僕が正直な気持ちを吐露すると、玲央はふと立ち止まり、僕の方をじっと見つめた。
「……千秋は、そのままでいいんだよ。……無理に何者かになろうとしなくても、君は僕にとって、世界でたった一人の、最高の千秋なんだから」
玲央はそう言って、僕の手をそっと握った。
それは、十年前のあの日のように、すがりつくような力強さではなかった。
温かくて、柔らかくて、まるでお互いの体温を確認し合うような、静かな重なり。
「……僕ね、ドームのステージで歌いながら、ずっと考えてたんだ。……僕が歌い続ける理由は、もちろんファンのためでもあるけど。……一番は、こうして千秋と繋いでいる手の温もりを、一生忘れたくないからなんだって」
玲央の声は、春の風に溶けてしまいそうなほど優しかった。
「好きだよ、千秋。……これまでも、これからも。……親友としてだけじゃなくて、僕の人生の隣にいてほしい人は、君だけなんだ」
具体的な「恋人」や「愛」という言葉を使わなくても、その響きには、どんな告白よりも深い真実が宿っていた。
僕は握り返された手のひらに、少しだけ力を込めた。
「……僕もだよ、玲央。……君がどれほど高い場所へ昇っていっても、僕が君の手を離すことはない。……来年も、再来年も、こうして一緒に春を迎えよう」
玲央は僕の言葉を聞くと、安心したように目を細め、僕の肩に頭を預けた。
まだ蕾の多い桜並木の下。
僕たちは、言葉にする必要さえないほどに、深く、優しく、結ばれていた。
これから始まる、大学生最後の、そして玲央がさらなるスターへと駆け上がる激動の一年。
どんな困難が待ち受けていても、この手の温もりがあれば、僕たちはどこへだって行ける。
夕暮れ時。
僕たちは、どちらからともなく寄り添い、僕の小さなアパートへと向かった。
ドアを開け、明かりを灯す。
そこには、昨日の続きの、けれど昨日よりも少しだけ甘くて温かい、二人だけの「家」が待っている。
「……ただいま、千秋」
「おかえり、玲央」
何千回、何万回と繰り返されるであろう、この当たり前のやり取り。
それこそが、僕たちが十年の歳月をかけて手に入れた、世界で一番贅沢な宝物だった。
窓の外には、春の宵闇。
夜空には、あのドームで見た照明よりもずっと穏やかな星たちが、二人の行く末を祝福するように瞬いていた。
僕たちの銀河は、これからも。
この小さな部屋の明かりとともに、永遠に、穏やかに輝き続けていくのだ。
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