41 / 45
41話
しおりを挟む
泡だらけになった脱衣所を片付け終える頃には、空は鮮やかな茜色に染まり始めていた。
先ほどまでの不自然な密着の余韻が消えないまま、リィエルは湿った空気を入れ替えるためにテラスの椅子に腰を下ろした。
「……リィエル。さっきの失態の埋め合わせというわけじゃないが、少し気分転換をしないか」
ガイアスが背後から声をかけてきた。その手には、王都で流行しているという最新の小型魔導蓄音機が握られている。
「気分転換、ですか? 俺はこれ以上、予測不能なイベントが発生するのは御免ですよ。特に掃除が必要になるようなものは」
「安心しろ、ただの音楽だ。……王都の夜会では、この曲に合わせてステップを踏むのが礼儀でな。お前もいずれ王都の魔導学会などに招待された時、踊り方を知らないと困るだろう?」
ガイアスがスイッチを入れると、弦楽器の柔らかな旋律がテラスに流れ出した。
リィエルは「学会に行く予定はありません」と断りたかったが、アイアンがその大きな巨体を揺らしながら背後から声を上げた。
「お母様。王都の社交プロトコルの習得は、生存戦略において有利なステータスとなります。アイアンも、お母様の優雅な挙動をログに記録したいです」
「……アイアン、お前まで。シロ、お前はどうなんだ」
「きゅうっ! 主様が踊るの、見たい!」
シロまでが期待に満ちた瞳で見つめてくる。
逃げ場を失ったリィエルは、ため息をつきながら渋々と立ち上がった。
「……基本のステップだけですよ。それ以上の高度な技術を要求しないでください」
「ああ、分かっている。まずは左手を俺の肩に。右手は、そう、俺が支える」
ガイアスが大きな掌で、リィエルの細い手を包み込む。
泡の騒動の時とは違い、今度はゆっくりとした意志のある接触だ。リィエルは、指先から伝わってくるガイアスの確かな体温と、騎士特有の固いマメがある掌の感触に、またしてもシステムが熱を帯びるのを感じた。
「……リズムに合わせて。ワン、ツー、スリー。……そうだ、リィエル。お前は演算能力が高いから、足運びを覚えるのが驚くほど早いな」
「……ただの幾何学的な移動パターンです。数式に当てはめれば難しいことではありません」
リィエルは強がって見せたが、顔は夕焼けのせいだけではない赤みに染まっていた。
ガイアスのリードに身を任せていると、自分の意思で動いているはずなのに、まるで大きな流れに身を委ねているような、不思議な浮遊感に包まれる。
テラスを回るたびに、二人の距離が僅かに縮まる。
ガイアスの胸板から伝わる規則正しい鼓動と、リィエルの不規則に跳ねる鼓動。
翻訳果実の効果がまだ残っているのか、言葉を介さずとも「楽しい」「愛おしい」という、ガイアスのストレートな感情のログが、リィエルの意識にノイズのように入り込んでくる。
「……ガイアスさん。感情の出力が大きすぎます。もう少し、信号を抑制してください」
「……なんのことだ? 俺はただ、お前と踊れるのが嬉しいだけだぞ」
ガイアスは悪びれもせず、リィエルの腰を支える手に少しだけ力を込めた。
見つめ合う視線の中で、音楽だけが静かに流れていく。
効率を最優先に生きてきたリィエルにとって、この何の生産性もない時間は、どの高度な術式よりも解読困難で、そして心地よい「未知のバグ」だった。
先ほどまでの不自然な密着の余韻が消えないまま、リィエルは湿った空気を入れ替えるためにテラスの椅子に腰を下ろした。
「……リィエル。さっきの失態の埋め合わせというわけじゃないが、少し気分転換をしないか」
ガイアスが背後から声をかけてきた。その手には、王都で流行しているという最新の小型魔導蓄音機が握られている。
「気分転換、ですか? 俺はこれ以上、予測不能なイベントが発生するのは御免ですよ。特に掃除が必要になるようなものは」
「安心しろ、ただの音楽だ。……王都の夜会では、この曲に合わせてステップを踏むのが礼儀でな。お前もいずれ王都の魔導学会などに招待された時、踊り方を知らないと困るだろう?」
ガイアスがスイッチを入れると、弦楽器の柔らかな旋律がテラスに流れ出した。
リィエルは「学会に行く予定はありません」と断りたかったが、アイアンがその大きな巨体を揺らしながら背後から声を上げた。
「お母様。王都の社交プロトコルの習得は、生存戦略において有利なステータスとなります。アイアンも、お母様の優雅な挙動をログに記録したいです」
「……アイアン、お前まで。シロ、お前はどうなんだ」
「きゅうっ! 主様が踊るの、見たい!」
シロまでが期待に満ちた瞳で見つめてくる。
逃げ場を失ったリィエルは、ため息をつきながら渋々と立ち上がった。
「……基本のステップだけですよ。それ以上の高度な技術を要求しないでください」
「ああ、分かっている。まずは左手を俺の肩に。右手は、そう、俺が支える」
ガイアスが大きな掌で、リィエルの細い手を包み込む。
泡の騒動の時とは違い、今度はゆっくりとした意志のある接触だ。リィエルは、指先から伝わってくるガイアスの確かな体温と、騎士特有の固いマメがある掌の感触に、またしてもシステムが熱を帯びるのを感じた。
「……リズムに合わせて。ワン、ツー、スリー。……そうだ、リィエル。お前は演算能力が高いから、足運びを覚えるのが驚くほど早いな」
「……ただの幾何学的な移動パターンです。数式に当てはめれば難しいことではありません」
リィエルは強がって見せたが、顔は夕焼けのせいだけではない赤みに染まっていた。
ガイアスのリードに身を任せていると、自分の意思で動いているはずなのに、まるで大きな流れに身を委ねているような、不思議な浮遊感に包まれる。
テラスを回るたびに、二人の距離が僅かに縮まる。
ガイアスの胸板から伝わる規則正しい鼓動と、リィエルの不規則に跳ねる鼓動。
翻訳果実の効果がまだ残っているのか、言葉を介さずとも「楽しい」「愛おしい」という、ガイアスのストレートな感情のログが、リィエルの意識にノイズのように入り込んでくる。
「……ガイアスさん。感情の出力が大きすぎます。もう少し、信号を抑制してください」
「……なんのことだ? 俺はただ、お前と踊れるのが嬉しいだけだぞ」
ガイアスは悪びれもせず、リィエルの腰を支える手に少しだけ力を込めた。
見つめ合う視線の中で、音楽だけが静かに流れていく。
効率を最優先に生きてきたリィエルにとって、この何の生産性もない時間は、どの高度な術式よりも解読困難で、そして心地よい「未知のバグ」だった。
10
あなたにおすすめの小説
きっと、君は知らない
mahiro
BL
前世、というのだろうか。
俺は前、日本という国で暮らしていて、あの日は中学時代にお世話になった先輩の結婚式に参列していた。
大人になった先輩と綺麗な女性の幸せそうな姿に胸を痛めながら見つめていると二人の間に産まれたという女の子がひとりで車道に向かい歩いている姿が目に入った。
皆が主役の二人に夢中で子供の存在に気付いておらず、俺は慌ててその子供のもとへと向かった。
あと少しで追い付くというタイミングで大型の車がこちらに向かってくるのが見え、慌ててその子供の手を掴み、彼らのいる方へと突き飛ばした。
次の瞬間、俺は驚く先輩の目と合ったような気がするが、俺の意識はそこで途絶えてしまった。
次に目が覚めたのは見知らぬ世界で、聞いたことのない言葉が行き交っていた。
それから暫く様子を見ていたが、どうやら俺は異世界に転生したらしく………?
本当に悪役なんですか?
メカラウロ子
BL
気づいたら乙女ゲームのモブに転生していた主人公は悪役の取り巻きとしてモブらしからぬ行動を取ってしまう。
状況が掴めないまま戸惑う主人公に、悪役令息のアルフレッドが意外な行動を取ってきて…
ムーンライトノベルズ にも掲載中です。
雫
ゆい
BL
涙が落ちる。
涙は彼に届くことはない。
彼を想うことは、これでやめよう。
何をどうしても、彼の気持ちは僕に向くことはない。
僕は、その場から音を立てずに立ち去った。
僕はアシェル=オルスト。
侯爵家の嫡男として生まれ、10歳の時にエドガー=ハルミトンと婚約した。
彼には、他に愛する人がいた。
世界観は、【夜空と暁と】と同じです。
アルサス達がでます。
【夜空と暁と】を知らなくても、これだけで読めます。
2025.4.28 ムーンライトノベルに投稿しました。
いい加減観念して結婚してください
彩根梨愛
BL
平凡なオメガが成り行きで決まった婚約解消予定のアルファに結婚を迫られる話
元々ショートショートでしたが、続編を書きましたので短編になりました。
2025/05/05時点でBL18位ありがとうございます。
作者自身驚いていますが、お楽しみ頂き光栄です。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
【8話完結】俺は推しじゃない!ただの冒険者だ!
キノア9g
BL
ごく普通の中堅冒険者・イーサン。
今日もほどほどのクエストを探しにギルドを訪れたところ、見慣れない美形の冒険者・アシュレイと出くわす。
最初は「珍しい奴がいるな」程度だった。
だが次の瞬間──
「あなたは僕の推しです!」
そう叫びながら抱きついてきたかと思えば、つきまとう、語りかける、迫ってくる。
挙句、自宅の前で待ち伏せまで!?
「金なんかねぇぞ!」
「大丈夫です! 僕が、稼ぎますから!」
平穏な日常をこよなく愛するイーサンと、
“推しの幸せ”のためなら迷惑も距離感も超えていく超ポジティブ転生者・アシュレイ。
愛とは、追うものか、追われるものか。
差し出される支援、注がれる好意、止まらぬ猛アプローチ。
ふたりの距離が縮まる日はくるのか!?
強くて貢ぎ癖のあるイケメン転生者 × 弱めで普通な中堅冒険者。
異世界で始まる、ドタバタ&ちょっぴり胸キュンなBLコメディ、ここに開幕!
全8話
【8話完結】強制力に負けて死に戻ったら、幼馴染の様子がおかしいのですが、バグですか?
キノア9g
BL
目が覚めたら、大好きだったRPGの世界に転生していた。
知識チートでなんとか死亡フラグを回避した……はずだったのに、あっさり死んで、気づけば一年前に逆戻り。
今度こそ生き残ってみせる。そう思っていたんだけど——
「お前、ちょっと俺に執着しすぎじゃない……?」
幼馴染が、なんかおかしい。妙に優しいし、距離が近いし、俺の行動にやたら詳しい。
しかも、その笑顔の奥に見える“何か”が、最近ちょっと怖い。
これは、運命を変えようと足掻く俺と、俺だけを見つめ続ける幼馴染の、ちょっと(だいぶ?)危険な異世界BL。
全8話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる