限界社畜の僕がお隣の偏食な天才建築家に「美味しい」を教えることになった件~週末ごはんで育むじれったい恋の味~

たら昆布

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1話

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 午後十一時半。
 藤代凪(ふじしろ なぎ)は、鉛のように重い体を引きずってマンションの廊下を歩いていた。

「はぁ……終わった……」

 手にしたコンビニのレジ袋が、カサリと虚しい音を立てる。
 中身は、半額のシールが貼られた野菜炒め弁当と、糖分補給のためのエナジードリンク。
 広告代理店のデスクワークは、華やかなイメージとは裏腹に、修正と調整の泥沼だ。
 今日も上司の無茶振りに振り回され、ようやく解放された時には日付が変わろうとしていた。

 二十四歳。独身。
 代わり映えのしない、彩りのない日常。
 一年前、同棲していた恋人に「お前の優しさは重すぎるんだよ。もっと刺激が欲しい」と言われて振られてから、凪は自分のために料理を作る気力さえ失っていた。

 ……あ。

 自分の部屋である405号室に辿り着く手前。
 隣の406号室のドアが、わずかに開いているのが目に入った。

「……? 閉め忘れかな」

 不用心だな、と思いながら通り過ぎようとした時――。
 隙間から、細くて白い手が、床を這うように伸びているのが見えた。

「えっ……!? ちょっと、大丈夫ですか!?」

 反射的にドアを押し開ける。
 そこは、自分の部屋と同じ間取りとは思えないほど、殺風景で、けれど洗練された空間だった。
 家具は最低限。その代わり、壁一面には巨大な棚があり、そこには建築模型や図面がぎっしりと詰め込まれている。

 その玄関ホールに、一人の男が倒れていた。

「あ……う……」

 男はうつ伏せになり、苦しげな吐息を漏らしている。
 凪は慌てて駆け寄り、彼の肩を抱き起こした。

「しっかりしてください! 今、救急車を――」

「……いら、ない……」

 遮るように、男が掠れた声を出した。
 乱れた前髪の間から覗く、鋭くも美しい瞳。
 銀縁の眼鏡が少しずれ、そこから覗く素顔は、驚くほど整っていた。
 まるで精密に設計された芸術品のような、冷ややかで端正な顔立ち。

 一条慧(いちじょう けい)。
 このマンションに越してきた時、管理会社から「有名な建築家の方ですから、騒音などには気をつけてください」と念を押された人物だ。

「でも、顔色が真っ白ですよ。どこか痛むんですか?」

「……動け……ないだけだ……」

 一条は、凪の腕の中でぐったりと力なく目を閉じる。
 至近距離で触れる彼の肌は驚くほど冷たく、けれど呼吸だけは荒い。
 凪はふと、彼の部屋のキッチンに目をやった。
 そこには生活感が全くない。
 シンクは磨き上げられたように綺麗で、コンロが使われた形跡すら見当たらない。
 代わりにゴミ箱から溢れていたのは、大量の栄養剤の空き瓶と、コーヒーの紙コップ。

「……もしかして、最後に食事をしたのはいつですか?」

「……一昨日、だったか……記憶に、ない……」

 凪は絶句した。
 この男は、仕事に没頭するあまり、人間として最低限必要な「食事」という行為を忘れていたのだ。

「待っててください。今、何か作ってきます!」

「……いい、放っておけ……。すぐ……回復……」

「回復しません! じっとしててください!」

 凪は自分の部屋へ駆け戻った。
 コンビニ弁当を放り出し、冷蔵庫の奥に眠っていた、実家から送られてきたばかりの無農薬米を取り出す。
 それから、丁寧に熟成された合わせ味噌。

 手早く米を研ぎ、急速モードで炊飯器を回す。
 その間に、乾燥わかめと豆腐、それに少しだけ残っていた長ネギを刻む。
 出汁の香りがキッチンに広がる。
 自分一人のためには面倒で作らなかったものが、誰かの「危機」に直面した途端、魔法のように手が動いた。

 炊き立ての米を、熱いうちにふっくらと結ぶ。
 具材は、シンプルに塩だけで。
 それが一番、疲れた胃に優しいはずだ。

 十五分後。
 凪はトレイに、おにぎり二個とお味噌汁、それに温かいほうじ茶を乗せて406号室に戻った。

 一条はまだ廊下で壁に背を預けて座り込んでいたが、香ってきた出汁の匂いに、ぴくりと長い睫毛を震わせた。

「……なんだ、この……匂いは」

「お味噌汁です。一口だけでも飲めますか?」

 凪は一条の背中に手を添え、ゆっくりと椀を口元へ運んだ。
 一条は怪訝そうな顔をしたが、温かい湯気が鼻腔をくすぐると、抗えずに一口、汁を啜った。

「…………」

 静寂が流れる。
 一条は目を見開いたまま、固まっていた。
 そして、二口目を求めるように、自分から椀を手に取った。

「……熱い。だが……温かい」

「当たり前ですよ。おにぎりも、どうぞ」

 差し出されたおにぎりを、一条は細長い指で受け取った。
 まるで未知の物質に触れるような手つきだったが、一口齧ると、その表情が劇的に変わった。

「…………うまい」

 ポツリと、けれど確かな熱量を持って、彼は言った。

「これ……君が、作ったのか?」

「はい。冷蔵庫にあるもので急いで作ったので、大したものではありませんが……」

「大したこと、ある……。俺は今まで、これを……知らなかった」

 一条は、まるで宝物を慈しむように、最後の一粒までおにぎりを食べた。
 食べ終える頃には、その白い頬にわずかに赤みが差し、死神のようだった瞳に光が戻っていた。

「……藤代、と言ったか」

「あ、はい。隣の405号室の者です」

「藤代。俺は建築以外に興味を持たないと決めていた。食事も、時間を奪う無駄な儀式だと思っていた」

 一条は眼鏡をクイと指で押し上げ、真っ直ぐに凪を見つめた。
 その視線は鋭く、けれどどこか迷子の子どものようでもあった。

「だが、今……生まれて初めて、明日もこれが食べたいと思ってしまった」

「えっ……」

「礼をさせてくれ。金ならいくらでも払う。だから――」

 一条が凪の手を、ひんやりとした、けれど確かな力強さで握りしめる。

「明日から、俺の食事を作りに来てくれないか」

 深夜の廊下、月明かりが差し込む中で。
 世界的に有名な天才建築家から発せられたのは、あまりにも突飛で、けれど切実な「求食」の告白だった。

 自分を「重い」と切り捨てた元カレの言葉が、一条の真剣な眼差しに上書きされていく。
 凪の、止まっていた日常の時計が、静かに、けれど力強く動き始めた瞬間だった。
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