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2話
昨夜の出来事は、夢だったんじゃないだろうか。
翌朝、藤代凪(ふじしろ なぎ)は自分のベッドの中でぼんやりと天井を見上げていた。
隣の部屋に住む、あの冷徹なほど美しい建築家、一条慧(いちじょう けい)に「食事を作りに来てほしい」と頼まれたこと。
差し出したおにぎりを、彼はまるで聖杯でも扱うような手つきで食べていた。
「……さすがに、寝ぼけてただけだよね」
そう自分に言い聞かせ、凪は重い腰を上げた。
今日は土曜日だ。会社は休みだが、昨日の残業の疲れが抜けきっていない。
適当にトーストでも焼こうかとキッチンに立ったその時、玄関のインターホンが控えめに鳴った。
モニターを確認すると、そこには非の打ち所がないほど完璧なスーツ姿の男性が立っていた。
一条……ではなく、見知らぬ眼鏡の男性だ。
「はい、どなたですか?」
「突然の訪問、失礼いたします。一条慧の秘書を務めております、佐々木(ささき)と申します」
慌ててドアを開けると、佐々木と名乗った男性は深々と頭を下げた。
その顔には、隠しきれない安堵と、藁にもすがるような必死さが滲んでいる。
「藤代様ですね。一条から話を聞きました。昨夜は主人が大変失礼なことを申し上げた上に、命を救っていただき、本当に……本当にありがとうございます!」
「あ、いえ、そんな大げさな……」
「大げさではありません。彼は没頭すると周囲が見えなくなり、今まで何度栄養失調で倒れたことか。今回ばかりはプロジェクトの締め切り前で、私も心配で一睡もできず……」
佐々木の話によれば、一条は一度集中すると、睡眠さえ「効率が悪い」と削り、食事は「サプリメントで補えば十分」と言い切る筋金入りの仕事人間らしい。
けれど、昨夜の一条は佐々木にこう言ったのだという。
『隣の男が作ったものは、機能ではなく、感情に作用した。あれをもう一度食べたい』と。
「これが、主人からの契約書です。……いえ、お願い書と呼ぶべきでしょうか」
手渡された封筒の中には、丁寧な筆致で記された書類が入っていた。
内容は、週に三回程度の食事の提供。そして、信じられないほどの「業務委託費」の金額。
「こんなに貰えません! 僕はプロの料理人じゃないですし……」
「いいえ、藤代様。これは主人の……一条の『健康の維持』という、世界的なプロジェクトへの投資なのです。どうか、お引き受けいただけないでしょうか」
凪は、一条のあの孤独な、けれど凛とした横顔を思い出した。
前の恋人には「重すぎる」と言われた自分の世話焼きな性格が、もし、あの人の役に立つのなら。
誰かに必要とされる感覚が、凪の冷え切った心に、ほんのりと灯をともした。
「……お金は、材料費だけでいいです。その代わり、条件があります」
「条件、ですか?」
「一条さんに、ちゃんと『いただきます』と『ごちそうさま』を言ってもらいます。食事をただの作業にさせないこと。それが守れるなら、お引き受けします」
佐々木は目を見開き、それから今日一番の笑顔で「承知いたしました!」と答えた。
◇
数時間後。
凪は買い物袋を下げて、406号室の前に立っていた。
合鍵は秘書の佐々木から(無理やり)渡されている。
「お邪魔します……」と小声で言って中に入ると、一条はリビングの巨大なデスクで、既に図面と格闘していた。
昨夜の死にそうな様子が嘘のように、その背筋は伸び、集中力のオーラが部屋中に満ちている。
「……藤代か」
一条は視線を図面から外さないまま、低く心地よい声で言った。
「本当に来たんだな。冗談だと思われるかと思っていた」
「約束ですから。でも一条さん、その前に。……おはようございます」
「……あ。ああ、おはよう」
一条が少しだけ戸惑ったようにこちらを振り向く。眼鏡の奥の瞳が、凪の持っている袋に向けられた。
「まずはブランチにしましょう。作業の手を止めてください」
「だが、このラインの修正を終えないと――」
「ダメです。冷めたら美味しくありませんから」
凪は迷わずキッチンへ向かった。
冷蔵庫には、佐々木が補充したばかりの新鮮な牛乳と卵、それに厚切りの食パンがある。
卵液に砂糖とバニラエッセンスを加え、パンをじっくりと浸す。
バターを熱したフライパンで、弱火でじっくりと焼き色がつくまで。
甘い香りが、無機質だった一条の部屋に満ちていく。
図面に向かっていた一条の鼻が、ヒクリと動いたのを凪は見逃さなかった。
「はい、できました。フレンチトーストです」
メープルシロップをたっぷりとかけ、サイドには少しの塩気としてカリカリに焼いたベーコンを添える。
一条は渋々といった様子でテーブルについた。
けれど、差し出された皿を前にして、彼は昨夜言われたことを思い出したのか、少しぎこちなく手を合わせた。
「……いただきます」
フォークでパンを切り分け、口に運ぶ。
次の瞬間、一条の動きが止まった。
「…………っ」
「……口に合いませんでしたか?」
「いや……。柔らかい。甘くて、温かい。……脳が、覚醒していくような感覚だ」
一条はそれから、無言で食べ進めた。
執着しているわけではない。ただ、本当に「美味しい」という未知の体験を、一つ一つ咀嚼して確かめているような、静かな食事だった。
最後の一口を飲み込み、彼はゆっくりと、今度は凪の目を真っ直ぐに見て言った。
「ごちそうさま。……藤代、君の作るものは、不思議だ」
「不思議、ですか?」
「ああ。建築は、計算と理論で美しさを構築する。だが、この食事には……数値化できない『心地よさ』がある」
一条の言葉は、飾り気がなくて、とても誠実だった。
元カレに言われた「面白くない」という言葉が、この瞬間、少しだけ遠のいた気がした。
「一条さんの建築も、きっとそうですよ。住む人の心地よさを考えて作られているはずですから」
凪が微笑むと、一条は一瞬だけ呆然としたように目を見開いた。
そして、すぐにまたいつもの無表情に戻り、けれど耳の先端だけを少し赤くして、そそくさとデスクに戻っていった。
「……午後も、作業が捗りそうだ」
背中で語るその言葉に、凪は小さく頷いた。
ベタベタと距離を詰めるわけじゃない。
けれど、美味しいごはんを介して、二人の間に穏やかな風が吹き始めた。
それは、雨上がりの午後のような、とても爽やかな始まりだった。
翌朝、藤代凪(ふじしろ なぎ)は自分のベッドの中でぼんやりと天井を見上げていた。
隣の部屋に住む、あの冷徹なほど美しい建築家、一条慧(いちじょう けい)に「食事を作りに来てほしい」と頼まれたこと。
差し出したおにぎりを、彼はまるで聖杯でも扱うような手つきで食べていた。
「……さすがに、寝ぼけてただけだよね」
そう自分に言い聞かせ、凪は重い腰を上げた。
今日は土曜日だ。会社は休みだが、昨日の残業の疲れが抜けきっていない。
適当にトーストでも焼こうかとキッチンに立ったその時、玄関のインターホンが控えめに鳴った。
モニターを確認すると、そこには非の打ち所がないほど完璧なスーツ姿の男性が立っていた。
一条……ではなく、見知らぬ眼鏡の男性だ。
「はい、どなたですか?」
「突然の訪問、失礼いたします。一条慧の秘書を務めております、佐々木(ささき)と申します」
慌ててドアを開けると、佐々木と名乗った男性は深々と頭を下げた。
その顔には、隠しきれない安堵と、藁にもすがるような必死さが滲んでいる。
「藤代様ですね。一条から話を聞きました。昨夜は主人が大変失礼なことを申し上げた上に、命を救っていただき、本当に……本当にありがとうございます!」
「あ、いえ、そんな大げさな……」
「大げさではありません。彼は没頭すると周囲が見えなくなり、今まで何度栄養失調で倒れたことか。今回ばかりはプロジェクトの締め切り前で、私も心配で一睡もできず……」
佐々木の話によれば、一条は一度集中すると、睡眠さえ「効率が悪い」と削り、食事は「サプリメントで補えば十分」と言い切る筋金入りの仕事人間らしい。
けれど、昨夜の一条は佐々木にこう言ったのだという。
『隣の男が作ったものは、機能ではなく、感情に作用した。あれをもう一度食べたい』と。
「これが、主人からの契約書です。……いえ、お願い書と呼ぶべきでしょうか」
手渡された封筒の中には、丁寧な筆致で記された書類が入っていた。
内容は、週に三回程度の食事の提供。そして、信じられないほどの「業務委託費」の金額。
「こんなに貰えません! 僕はプロの料理人じゃないですし……」
「いいえ、藤代様。これは主人の……一条の『健康の維持』という、世界的なプロジェクトへの投資なのです。どうか、お引き受けいただけないでしょうか」
凪は、一条のあの孤独な、けれど凛とした横顔を思い出した。
前の恋人には「重すぎる」と言われた自分の世話焼きな性格が、もし、あの人の役に立つのなら。
誰かに必要とされる感覚が、凪の冷え切った心に、ほんのりと灯をともした。
「……お金は、材料費だけでいいです。その代わり、条件があります」
「条件、ですか?」
「一条さんに、ちゃんと『いただきます』と『ごちそうさま』を言ってもらいます。食事をただの作業にさせないこと。それが守れるなら、お引き受けします」
佐々木は目を見開き、それから今日一番の笑顔で「承知いたしました!」と答えた。
◇
数時間後。
凪は買い物袋を下げて、406号室の前に立っていた。
合鍵は秘書の佐々木から(無理やり)渡されている。
「お邪魔します……」と小声で言って中に入ると、一条はリビングの巨大なデスクで、既に図面と格闘していた。
昨夜の死にそうな様子が嘘のように、その背筋は伸び、集中力のオーラが部屋中に満ちている。
「……藤代か」
一条は視線を図面から外さないまま、低く心地よい声で言った。
「本当に来たんだな。冗談だと思われるかと思っていた」
「約束ですから。でも一条さん、その前に。……おはようございます」
「……あ。ああ、おはよう」
一条が少しだけ戸惑ったようにこちらを振り向く。眼鏡の奥の瞳が、凪の持っている袋に向けられた。
「まずはブランチにしましょう。作業の手を止めてください」
「だが、このラインの修正を終えないと――」
「ダメです。冷めたら美味しくありませんから」
凪は迷わずキッチンへ向かった。
冷蔵庫には、佐々木が補充したばかりの新鮮な牛乳と卵、それに厚切りの食パンがある。
卵液に砂糖とバニラエッセンスを加え、パンをじっくりと浸す。
バターを熱したフライパンで、弱火でじっくりと焼き色がつくまで。
甘い香りが、無機質だった一条の部屋に満ちていく。
図面に向かっていた一条の鼻が、ヒクリと動いたのを凪は見逃さなかった。
「はい、できました。フレンチトーストです」
メープルシロップをたっぷりとかけ、サイドには少しの塩気としてカリカリに焼いたベーコンを添える。
一条は渋々といった様子でテーブルについた。
けれど、差し出された皿を前にして、彼は昨夜言われたことを思い出したのか、少しぎこちなく手を合わせた。
「……いただきます」
フォークでパンを切り分け、口に運ぶ。
次の瞬間、一条の動きが止まった。
「…………っ」
「……口に合いませんでしたか?」
「いや……。柔らかい。甘くて、温かい。……脳が、覚醒していくような感覚だ」
一条はそれから、無言で食べ進めた。
執着しているわけではない。ただ、本当に「美味しい」という未知の体験を、一つ一つ咀嚼して確かめているような、静かな食事だった。
最後の一口を飲み込み、彼はゆっくりと、今度は凪の目を真っ直ぐに見て言った。
「ごちそうさま。……藤代、君の作るものは、不思議だ」
「不思議、ですか?」
「ああ。建築は、計算と理論で美しさを構築する。だが、この食事には……数値化できない『心地よさ』がある」
一条の言葉は、飾り気がなくて、とても誠実だった。
元カレに言われた「面白くない」という言葉が、この瞬間、少しだけ遠のいた気がした。
「一条さんの建築も、きっとそうですよ。住む人の心地よさを考えて作られているはずですから」
凪が微笑むと、一条は一瞬だけ呆然としたように目を見開いた。
そして、すぐにまたいつもの無表情に戻り、けれど耳の先端だけを少し赤くして、そそくさとデスクに戻っていった。
「……午後も、作業が捗りそうだ」
背中で語るその言葉に、凪は小さく頷いた。
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それは、雨上がりの午後のような、とても爽やかな始まりだった。
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