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5話
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嵐のようなコンペの提出期限が過ぎ、406号室にようやく静寂が戻ってきた。
一条さんは丸一日泥のように眠り、翌日の夕方、僕が仕事帰りに寄った時には、驚くほどスッキリとした顔でコーヒーを淹れていた。
「藤代。今回のコンペ、手応えはある。……君がいなければ、途中で投げ出していたかもしれない」
「そんな、大げさですよ。僕はただ、お味噌汁を作っていただけですから」
そう謙遜したけれど、一条さんの瞳は真剣だった。
彼はそれ以上何も言わなかったけれど、その数日後、僕の職場で小さな事件が起きた。
「ねえ、凪くん! 今、ビルの下にある雑貨屋さんの前に、ものすごいイケメンがいるんだけど!」
同期の女子社員が、窓の外を指差して騒いでいる。
「モデルかな? 誰かを待ってるみたいだけど、オーラが凄すぎて誰も近づけないのよ」
まさか、と思って僕が窓から下を覗くと。
そこには、黒のロングコートをスマートに着こなし、スマホを片手に眉間に皺を寄せている一条さんの姿があった。
彼は何かに悩んでいるようで、雑貨屋のディスプレイをじっと見つめては、難しそうな顔で首を振っている。
「一条さん……!? 何してるのあんなところで……」
僕は慌てて会社を飛び出した。
「一条さん!」
「……藤代か。ちょうどいいところに来た」
僕を見つけた瞬間、一条さんの表情がふっと緩んだ。
周囲の女性たちが「あ、笑った……」と溜息を漏らすのが聞こえる。本人は全く無自覚なのが恐ろしい。
「どうしたんですか、こんなところで。打ち合わせですか?」
「いや、君の会社がこの近くだと思い出してな。……少し、付き合ってくれ」
案内されたのは、老舗の刃物専門店だった。
建築家らしい厳しい目利きで、一条さんは陳列された包丁を一つ一つ吟味している。
「あの、一条さん? 料理なんてしないのに、包丁を買うんですか?」
「俺が使うんじゃない。……君に、これを受け取ってほしいんだ」
一条さんが手に取ったのは、美しく波打つ模様が入った、プロ仕様の三徳包丁だった。
「コンペの期間中、君の包丁が少し欠けているのが見えた。……俺の健康を支えてくれる手に、相応しい道具を使ってほしい。これは、その……俺からの、礼だ」
一条さんは少しだけ視線を泳がせながら、無造作に箱を僕に差し出した。
前の恋人には「お前の料理なんて道具を揃えるほどじゃない」と笑われたことがあった。
けれど一条さんは、僕が料理をする「手」そのものを、誰よりも尊重してくれている。
「……ありがとうございます。すごく、嬉しいです。大切にしますね」
「ああ。……それと、もう一つ」
一条さんは、ポケットから小さな包みを取り出した。
中に入っていたのは、上品な銀色のヘアクリップ。
「雑貨屋の前で悩んでいたのは、これだ。君は料理をする時、いつも前髪を邪魔そうにしていたから。……建築家として、機能性の低いものは見逃せなくてな」
理屈っぽい言葉を並べているけれど、その耳の先端が赤くなっているのを、僕は知っている。
彼は、執着して僕を縛り付けようとしているんじゃない。
ただ、僕の日常が少しでも快適になるように、彼なりの方法で「心地よさ」を返そうとしてくれているのだ。
「一条さん、今夜は、この包丁を初めて使う記念日にしましょう。何が食べたいですか?」
僕が笑いかけると、一条さんは少しだけ満足そうに目を細めた。
「君が選ぶものなら、何でもいい。……ただ、君の隣で食べたい。それだけだ」
夕暮れの街を、二人で歩く。
一条さんの歩幅は、いつの間にか僕の歩幅に、優しく寄り添うように変わっていた。
一条さんは丸一日泥のように眠り、翌日の夕方、僕が仕事帰りに寄った時には、驚くほどスッキリとした顔でコーヒーを淹れていた。
「藤代。今回のコンペ、手応えはある。……君がいなければ、途中で投げ出していたかもしれない」
「そんな、大げさですよ。僕はただ、お味噌汁を作っていただけですから」
そう謙遜したけれど、一条さんの瞳は真剣だった。
彼はそれ以上何も言わなかったけれど、その数日後、僕の職場で小さな事件が起きた。
「ねえ、凪くん! 今、ビルの下にある雑貨屋さんの前に、ものすごいイケメンがいるんだけど!」
同期の女子社員が、窓の外を指差して騒いでいる。
「モデルかな? 誰かを待ってるみたいだけど、オーラが凄すぎて誰も近づけないのよ」
まさか、と思って僕が窓から下を覗くと。
そこには、黒のロングコートをスマートに着こなし、スマホを片手に眉間に皺を寄せている一条さんの姿があった。
彼は何かに悩んでいるようで、雑貨屋のディスプレイをじっと見つめては、難しそうな顔で首を振っている。
「一条さん……!? 何してるのあんなところで……」
僕は慌てて会社を飛び出した。
「一条さん!」
「……藤代か。ちょうどいいところに来た」
僕を見つけた瞬間、一条さんの表情がふっと緩んだ。
周囲の女性たちが「あ、笑った……」と溜息を漏らすのが聞こえる。本人は全く無自覚なのが恐ろしい。
「どうしたんですか、こんなところで。打ち合わせですか?」
「いや、君の会社がこの近くだと思い出してな。……少し、付き合ってくれ」
案内されたのは、老舗の刃物専門店だった。
建築家らしい厳しい目利きで、一条さんは陳列された包丁を一つ一つ吟味している。
「あの、一条さん? 料理なんてしないのに、包丁を買うんですか?」
「俺が使うんじゃない。……君に、これを受け取ってほしいんだ」
一条さんが手に取ったのは、美しく波打つ模様が入った、プロ仕様の三徳包丁だった。
「コンペの期間中、君の包丁が少し欠けているのが見えた。……俺の健康を支えてくれる手に、相応しい道具を使ってほしい。これは、その……俺からの、礼だ」
一条さんは少しだけ視線を泳がせながら、無造作に箱を僕に差し出した。
前の恋人には「お前の料理なんて道具を揃えるほどじゃない」と笑われたことがあった。
けれど一条さんは、僕が料理をする「手」そのものを、誰よりも尊重してくれている。
「……ありがとうございます。すごく、嬉しいです。大切にしますね」
「ああ。……それと、もう一つ」
一条さんは、ポケットから小さな包みを取り出した。
中に入っていたのは、上品な銀色のヘアクリップ。
「雑貨屋の前で悩んでいたのは、これだ。君は料理をする時、いつも前髪を邪魔そうにしていたから。……建築家として、機能性の低いものは見逃せなくてな」
理屈っぽい言葉を並べているけれど、その耳の先端が赤くなっているのを、僕は知っている。
彼は、執着して僕を縛り付けようとしているんじゃない。
ただ、僕の日常が少しでも快適になるように、彼なりの方法で「心地よさ」を返そうとしてくれているのだ。
「一条さん、今夜は、この包丁を初めて使う記念日にしましょう。何が食べたいですか?」
僕が笑いかけると、一条さんは少しだけ満足そうに目を細めた。
「君が選ぶものなら、何でもいい。……ただ、君の隣で食べたい。それだけだ」
夕暮れの街を、二人で歩く。
一条さんの歩幅は、いつの間にか僕の歩幅に、優しく寄り添うように変わっていた。
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