4 / 28
4話
しおりを挟む
一条さんにカフェへ招待されたあの日から、僕たちの距離は「隣人」という言葉では片付けられないほど、しっくりと馴染んでいた。
けれど、そんな穏やかな時間を切り裂くように、一条さんに大きな仕事が舞い込んだ。
北欧で行われる、国立美術館の国際コンペだ。
その日から、406号室の明かりは朝まで消えることがなくなった。
「一条さん、入りますよ」
夜の十時。合鍵を使って中に入ると、部屋の中は異様な熱気に包まれていた。
床一面に広げられた図面、何個も作られた模型の試作品。
デスクに向かう一条さんの背中は、まるで戦いに挑む騎士のような鋭さを帯びている。
「……藤代か。悪いが、今は手が離せない。そこに置いておいてくれ」
眼鏡の奥の瞳は充血し、声は酷くかすれている。
一週間前のあのみずみずしさは消え、彼はまた「建築」という魔物に命を削って捧げようとしていた。
……今の状態で、重い食事は受け付けないよね。
僕は静かにキッチンに立った。
持参したのは、たっぷりの根菜と鶏肉、そして隠し味に生姜を効かせた「具だくさんの豚汁」の材料だ。
それと、片手でも食べられるように小さく握った、焼きおにぎり。
トントン、と小気味よい包丁の音が部屋に響く。
一条さんはいつも、この音を聞くと少しだけ肩の力が抜けると言ってくれた。
出汁の香りが立ち上り、生姜の爽やかな匂いが部屋の淀んだ空気を浄化していく。
「一条さん、できましたよ。五分だけ、手を休めてください」
「……あと少しなんだ。このエントランスの傾斜が決まらない」
「その『あと少し』のために、ガソリンが必要です。はい、どうぞ」
僕は一条さんの腕の隙間に、無理やりお椀を差し入れた。
湯気が一条さんの眼鏡を曇らせる。彼は小さく溜息をつき、ようやくペンを置いた。
「……君は、強引だな」
「一条さんが頑固すぎるんです。ほら、温かいうちに」
一条さんは眼鏡を外し、疲れた顔を両手で覆った。
それからゆっくりとお椀を手に取り、汁を一口啜る。
「…………生姜か」
「はい。体が冷え切っていたので。内側から温めてください」
「……ああ。……染みるな」
一条さんは、焼きおにぎりを一つ手に取った。
表面はカリッと香ばしく、中はふっくらとしている。
彼はそれを一口ずつ、慈しむように咀嚼していく。
「藤代。君は……怖くないのか?」
「え、何がですか?」
「俺は今、人生を賭けた勝負をしている。余裕がなくて、君に対して無愛想で、食事の味さえ正しく理解できているか怪しい。……そんな人間に食事を作るのは、虚しくないのか」
一条さんの言葉は、どこか自分を突き放すような響きがあった。
前の恋人は、僕のこういう献身を「重い」と言い、自分のやりたいことに付き合わない僕を「虚無だ」と言った。
けれど、一条さんは違う。彼は僕の献身を「虚しいのではないか」と、僕の側の気持ちを慮ってくれている。
僕は笑って、彼の飲み終えたお椀を受け取った。
「虚しくなんてありませんよ。一条さんの建築が素晴らしいのは、一条さんが命を削って向き合っているからだって知っていますから。僕はその、ほんの少しの欠片を支えているだけです。……あ、それと」
僕は一歩踏み出し、デスクの上の模型を指差した。
「このエントランス、すごく素敵です。まだ完成していないのに、ここを通る人がみんな笑顔になるのが想像できます」
「…………」
一条さんは絶句したように僕を見た。
それから、ふっと、本当に微かに、唇の端を上げた。
それは、彼が見せた初めての、心からの微笑みだった。
「……そうか。なら、この傾斜で間違いないな」
一条さんが、そっと僕の手に自分の手を重ねた。
指先はまだ少し冷たかったけれど、重なる体温が、驚くほど心地よく心に溶けていく。
「藤代。君がいてくれて、良かった」
握られた手に、力が入る。
それは執着なんて強いものではなく、暗闇の中で灯火を見つけた時のような、切実で純粋な感謝だった。
「……僕も、一条さんのごはんを作れて、嬉しいです」
深夜二時。
静まり返った部屋の中で、重なった手だけが熱を持っていた。
コンペの結果が出るまで、あと少し。
僕たちの関係も、少しずつ、けれど確実に形を変えようとしていた。
けれど、そんな穏やかな時間を切り裂くように、一条さんに大きな仕事が舞い込んだ。
北欧で行われる、国立美術館の国際コンペだ。
その日から、406号室の明かりは朝まで消えることがなくなった。
「一条さん、入りますよ」
夜の十時。合鍵を使って中に入ると、部屋の中は異様な熱気に包まれていた。
床一面に広げられた図面、何個も作られた模型の試作品。
デスクに向かう一条さんの背中は、まるで戦いに挑む騎士のような鋭さを帯びている。
「……藤代か。悪いが、今は手が離せない。そこに置いておいてくれ」
眼鏡の奥の瞳は充血し、声は酷くかすれている。
一週間前のあのみずみずしさは消え、彼はまた「建築」という魔物に命を削って捧げようとしていた。
……今の状態で、重い食事は受け付けないよね。
僕は静かにキッチンに立った。
持参したのは、たっぷりの根菜と鶏肉、そして隠し味に生姜を効かせた「具だくさんの豚汁」の材料だ。
それと、片手でも食べられるように小さく握った、焼きおにぎり。
トントン、と小気味よい包丁の音が部屋に響く。
一条さんはいつも、この音を聞くと少しだけ肩の力が抜けると言ってくれた。
出汁の香りが立ち上り、生姜の爽やかな匂いが部屋の淀んだ空気を浄化していく。
「一条さん、できましたよ。五分だけ、手を休めてください」
「……あと少しなんだ。このエントランスの傾斜が決まらない」
「その『あと少し』のために、ガソリンが必要です。はい、どうぞ」
僕は一条さんの腕の隙間に、無理やりお椀を差し入れた。
湯気が一条さんの眼鏡を曇らせる。彼は小さく溜息をつき、ようやくペンを置いた。
「……君は、強引だな」
「一条さんが頑固すぎるんです。ほら、温かいうちに」
一条さんは眼鏡を外し、疲れた顔を両手で覆った。
それからゆっくりとお椀を手に取り、汁を一口啜る。
「…………生姜か」
「はい。体が冷え切っていたので。内側から温めてください」
「……ああ。……染みるな」
一条さんは、焼きおにぎりを一つ手に取った。
表面はカリッと香ばしく、中はふっくらとしている。
彼はそれを一口ずつ、慈しむように咀嚼していく。
「藤代。君は……怖くないのか?」
「え、何がですか?」
「俺は今、人生を賭けた勝負をしている。余裕がなくて、君に対して無愛想で、食事の味さえ正しく理解できているか怪しい。……そんな人間に食事を作るのは、虚しくないのか」
一条さんの言葉は、どこか自分を突き放すような響きがあった。
前の恋人は、僕のこういう献身を「重い」と言い、自分のやりたいことに付き合わない僕を「虚無だ」と言った。
けれど、一条さんは違う。彼は僕の献身を「虚しいのではないか」と、僕の側の気持ちを慮ってくれている。
僕は笑って、彼の飲み終えたお椀を受け取った。
「虚しくなんてありませんよ。一条さんの建築が素晴らしいのは、一条さんが命を削って向き合っているからだって知っていますから。僕はその、ほんの少しの欠片を支えているだけです。……あ、それと」
僕は一歩踏み出し、デスクの上の模型を指差した。
「このエントランス、すごく素敵です。まだ完成していないのに、ここを通る人がみんな笑顔になるのが想像できます」
「…………」
一条さんは絶句したように僕を見た。
それから、ふっと、本当に微かに、唇の端を上げた。
それは、彼が見せた初めての、心からの微笑みだった。
「……そうか。なら、この傾斜で間違いないな」
一条さんが、そっと僕の手に自分の手を重ねた。
指先はまだ少し冷たかったけれど、重なる体温が、驚くほど心地よく心に溶けていく。
「藤代。君がいてくれて、良かった」
握られた手に、力が入る。
それは執着なんて強いものではなく、暗闇の中で灯火を見つけた時のような、切実で純粋な感謝だった。
「……僕も、一条さんのごはんを作れて、嬉しいです」
深夜二時。
静まり返った部屋の中で、重なった手だけが熱を持っていた。
コンペの結果が出るまで、あと少し。
僕たちの関係も、少しずつ、けれど確実に形を変えようとしていた。
25
あなたにおすすめの小説
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
美澄の顔には抗えない。
米奏よぞら
BL
スパダリ美形攻め×流され面食い受け
高校時代に一目惚れした相手と勢いで付き合ったはいいものの、徐々に相手の熱が冷めていっていることに限界を感じた主人公のお話です。
※なろう、カクヨムでも掲載中です。
【1話完結】あなたの恋人は毎夜わたしのベッドで寝てますよ。
ariya
ファンタジー
ソフィア・ラテットは、婚約者アレックスから疎まれていた。
彼の傍らには、いつも愛らしい恋人リリアンヌ。
婚約者の立場として注意しても、アレックスは聞く耳を持たない。
そして迎えた学園卒業パーティー。
ソフィアは公衆の面前で婚約破棄を言い渡される。
ガッツポーズを決めるリリアンヌ。
そのままアレックスに飛び込むかと思いきや――
彼女が抱きついた先は、ソフィアだった。
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?
krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」
突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。
なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!?
全力すれ違いラブコメファンタジーBL!
支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。
結婚間近だったのに、殿下の皇太子妃に選ばれたのは僕だった
釦
BL
皇太子妃を輩出する家系に産まれた主人公は半ば政略的な結婚を控えていた。
にも関わらず、皇太子が皇妃に選んだのは皇太子妃争いに参加していない見目のよくない五男の主人公だった、というお話。
目線の先には。僕の好きな人は誰を見ている?
綾波絢斗
BL
東雲桜花大学附属第一高等学園の三年生の高瀬陸(たかせりく)と一ノ瀬湊(いちのせみなと)は幼稚舎の頃からの幼馴染。
湊は陸にひそかに想いを寄せているけれど、陸はいつも違う人を見ている。
そして、陸は相手が自分に好意を寄せると途端に興味を失う。
その性格を知っている僕は自分の想いを秘めたまま陸の傍にいようとするが、陸が恋している姿を見ていることに耐えられなく陸から離れる決意をした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる