限界社畜の僕がお隣の偏食な天才建築家に「美味しい」を教えることになった件~週末ごはんで育むじれったい恋の味~

たら昆布

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4話

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 一条さんにカフェへ招待されたあの日から、僕たちの距離は「隣人」という言葉では片付けられないほど、しっくりと馴染んでいた。
 けれど、そんな穏やかな時間を切り裂くように、一条さんに大きな仕事が舞い込んだ。
 北欧で行われる、国立美術館の国際コンペだ。

 その日から、406号室の明かりは朝まで消えることがなくなった。

「一条さん、入りますよ」

 夜の十時。合鍵を使って中に入ると、部屋の中は異様な熱気に包まれていた。
 床一面に広げられた図面、何個も作られた模型の試作品。
 デスクに向かう一条さんの背中は、まるで戦いに挑む騎士のような鋭さを帯びている。

「……藤代か。悪いが、今は手が離せない。そこに置いておいてくれ」

 眼鏡の奥の瞳は充血し、声は酷くかすれている。
 一週間前のあのみずみずしさは消え、彼はまた「建築」という魔物に命を削って捧げようとしていた。

 ……今の状態で、重い食事は受け付けないよね。

 僕は静かにキッチンに立った。
 持参したのは、たっぷりの根菜と鶏肉、そして隠し味に生姜を効かせた「具だくさんの豚汁」の材料だ。
 それと、片手でも食べられるように小さく握った、焼きおにぎり。

 トントン、と小気味よい包丁の音が部屋に響く。
 一条さんはいつも、この音を聞くと少しだけ肩の力が抜けると言ってくれた。
 出汁の香りが立ち上り、生姜の爽やかな匂いが部屋の淀んだ空気を浄化していく。

「一条さん、できましたよ。五分だけ、手を休めてください」

「……あと少しなんだ。このエントランスの傾斜が決まらない」

「その『あと少し』のために、ガソリンが必要です。はい、どうぞ」

 僕は一条さんの腕の隙間に、無理やりお椀を差し入れた。
 湯気が一条さんの眼鏡を曇らせる。彼は小さく溜息をつき、ようやくペンを置いた。

「……君は、強引だな」

「一条さんが頑固すぎるんです。ほら、温かいうちに」

 一条さんは眼鏡を外し、疲れた顔を両手で覆った。
 それからゆっくりとお椀を手に取り、汁を一口啜る。

「…………生姜か」

「はい。体が冷え切っていたので。内側から温めてください」

「……ああ。……染みるな」

 一条さんは、焼きおにぎりを一つ手に取った。
 表面はカリッと香ばしく、中はふっくらとしている。
 彼はそれを一口ずつ、慈しむように咀嚼していく。
 
「藤代。君は……怖くないのか?」

「え、何がですか?」

「俺は今、人生を賭けた勝負をしている。余裕がなくて、君に対して無愛想で、食事の味さえ正しく理解できているか怪しい。……そんな人間に食事を作るのは、虚しくないのか」

 一条さんの言葉は、どこか自分を突き放すような響きがあった。
 前の恋人は、僕のこういう献身を「重い」と言い、自分のやりたいことに付き合わない僕を「虚無だ」と言った。
 けれど、一条さんは違う。彼は僕の献身を「虚しいのではないか」と、僕の側の気持ちを慮ってくれている。

 僕は笑って、彼の飲み終えたお椀を受け取った。

「虚しくなんてありませんよ。一条さんの建築が素晴らしいのは、一条さんが命を削って向き合っているからだって知っていますから。僕はその、ほんの少しの欠片を支えているだけです。……あ、それと」

 僕は一歩踏み出し、デスクの上の模型を指差した。

「このエントランス、すごく素敵です。まだ完成していないのに、ここを通る人がみんな笑顔になるのが想像できます」

「…………」

 一条さんは絶句したように僕を見た。
 それから、ふっと、本当に微かに、唇の端を上げた。
 それは、彼が見せた初めての、心からの微笑みだった。

「……そうか。なら、この傾斜で間違いないな」

 一条さんが、そっと僕の手に自分の手を重ねた。
 指先はまだ少し冷たかったけれど、重なる体温が、驚くほど心地よく心に溶けていく。

「藤代。君がいてくれて、良かった」

 握られた手に、力が入る。
 それは執着なんて強いものではなく、暗闇の中で灯火を見つけた時のような、切実で純粋な感謝だった。

「……僕も、一条さんのごはんを作れて、嬉しいです」

 深夜二時。
 静まり返った部屋の中で、重なった手だけが熱を持っていた。
 コンペの結果が出るまで、あと少し。
 僕たちの関係も、少しずつ、けれど確実に形を変えようとしていた。
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