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3話
一条さんとの「食事契約」が始まって、二週間が経った。
僕の生活は劇的に変わった。仕事帰りにスーパーに寄り、「今日は一条さんに何を食べてらおうか」と考える時間が、いつの間にか僕自身の孤独を埋めていた。
一条さんは相変わらず、食事以外は仕事一筋だ。
僕が部屋に入っても、図面に顔を埋めたまま「ああ、来たか」と短く応えるだけ。
けれど、僕が料理をテーブルに並べると、彼は必ずペンを置き、僕が言った『条件』を律儀に守って「いただきます」と手を合わせる。
その、不器用なほど真面目な横顔を見るのが、最近の僕の密かな楽しみになっていた。
「藤代。明日の午後、時間は空いているか」
金曜日の夕食後。
ハンバーグのデミグラスソースを綺麗に拭ったお皿を前に、一条さんが不意に口を開いた。
「明日ですか? ええ、特に予定はありませんけど……。何か買い物のお手伝いですか?」
「いや。……君に、見せたい場所がある。これまでのお礼も兼ねて、案内させてほしい」
一条さんに誘われるなんて、思いもしなかった。
断る理由もなくて、僕は二つ返事で承諾した。
◇
翌日の土曜日。
案内されたのは、都心の喧騒から少し離れた場所にある、緑に囲まれた一軒のカフェだった。
「わあ……素敵……」
思わず声が漏れた。
コンクリート打ち放しの外壁に、大きく取られたガラス窓。
そこから差し込む光が、店内の木の温もりを際立たせている。
モダンなのに、どこか懐かしくて、深い呼吸ができるような空間。
「ここは、俺が五年前、独立して最初に設計したカフェだ」
一条さんが、少しだけ誇らしげに、けれど淡々と言った。
店内に一歩足を踏み入れると、スタッフがすぐに気づいて駆け寄ってきた。
「一条先生! お久しぶりです」
「ああ。今日は連れがいる。いつもの席を」
テラスに近い、特等席に案内される。
一条さんはメニューも見ずに「ブレンドと、季節のタルトを二つ」と注文した。
「一条さん、ここ、本当に落ち着きますね。光の入り方がすごく綺麗で……」
「そうか。……なら良かった。君はいつも、俺の機能……いや、健康ばかりを気遣ってくれる。だから、俺の『仕事』も一度見てもらいたかったんだ」
一条さんは眼鏡のブリッジを押し上げ、外の景色を見つめた。
「建築は、箱を作る仕事じゃない。そこに流れる時間をデザインする仕事だ。……君が作る食事も、それに似ていると、最近思うようになった」
「……僕の食事が、一条さんの建築と?」
「ああ。君がキッチンに立つと、この無機質な部屋に『温度』が生まれる。それは、俺が図面の上で必死に生み出そうとしているものと同じだ」
一条さんの言葉は、驚くほど真っ直ぐに僕の心に届いた。
元カレには「お前のやることは自己満足だ」と切り捨てられた僕の献身が、一条さんの世界では、彼の芸術と同じ価値として扱われている。
運ばれてきたタルトは、宝石のように美しかった。
「食べてみてくれ。ここのシェフは、俺の設計を一番理解してくれている」
一口食べると、甘さ控えめのカスタードと旬の苺の酸味が、絶妙なバランスで口の中に広がった。
「美味しい……! 幸せな味がします」
僕が顔をほころばせると、一条さんは自分もタルトを口に運び、小さく頷いた。
「そうか。……それは、俺の台詞だ。いつも、君のごはんを食べる時に感じている」
一条さんは、笑ったわけではない。
けれど、その瞳には柔らかな光が宿っていて、僕を見つめる視線はどこまでも穏やかだった。
執着も、激しい独占欲もない。
ただ、お互いが作り出す「心地よい空間」を、静かに共有している。
その距離感が、今の僕にはたまらなく心地よかった。
「あ、一条さん。口元にクリームが……」
無意識に手を伸ばし、彼の唇の端を指で拭った。
触れた肌の熱に、ハッとして指を引く。
「……あ、すみません! つい……」
「…………。いや」
一条さんは一瞬だけ固まり、それから視線を窓の外へ逸らした。
心なしか、彼の耳の先端が、昨日の夕食の時よりもずっと赤くなっている気がする。
「……藤代。明日の夜は、何を作ってくれるんだ?」
「えっと……明日は、一条さんが好きそうな和食にしようかなって。ブリ大根とか、どうですか?」
「……期待して待っている」
カフェを出ると、空は抜けるような青空だった。
一条さんと歩く歩道の幅は、少しだけ前よりも狭くなった気がした。
恋と呼ぶにはまだ淡すぎる、けれど確かな温もりが、僕たちの間に芽生え始めていた。
僕の生活は劇的に変わった。仕事帰りにスーパーに寄り、「今日は一条さんに何を食べてらおうか」と考える時間が、いつの間にか僕自身の孤独を埋めていた。
一条さんは相変わらず、食事以外は仕事一筋だ。
僕が部屋に入っても、図面に顔を埋めたまま「ああ、来たか」と短く応えるだけ。
けれど、僕が料理をテーブルに並べると、彼は必ずペンを置き、僕が言った『条件』を律儀に守って「いただきます」と手を合わせる。
その、不器用なほど真面目な横顔を見るのが、最近の僕の密かな楽しみになっていた。
「藤代。明日の午後、時間は空いているか」
金曜日の夕食後。
ハンバーグのデミグラスソースを綺麗に拭ったお皿を前に、一条さんが不意に口を開いた。
「明日ですか? ええ、特に予定はありませんけど……。何か買い物のお手伝いですか?」
「いや。……君に、見せたい場所がある。これまでのお礼も兼ねて、案内させてほしい」
一条さんに誘われるなんて、思いもしなかった。
断る理由もなくて、僕は二つ返事で承諾した。
◇
翌日の土曜日。
案内されたのは、都心の喧騒から少し離れた場所にある、緑に囲まれた一軒のカフェだった。
「わあ……素敵……」
思わず声が漏れた。
コンクリート打ち放しの外壁に、大きく取られたガラス窓。
そこから差し込む光が、店内の木の温もりを際立たせている。
モダンなのに、どこか懐かしくて、深い呼吸ができるような空間。
「ここは、俺が五年前、独立して最初に設計したカフェだ」
一条さんが、少しだけ誇らしげに、けれど淡々と言った。
店内に一歩足を踏み入れると、スタッフがすぐに気づいて駆け寄ってきた。
「一条先生! お久しぶりです」
「ああ。今日は連れがいる。いつもの席を」
テラスに近い、特等席に案内される。
一条さんはメニューも見ずに「ブレンドと、季節のタルトを二つ」と注文した。
「一条さん、ここ、本当に落ち着きますね。光の入り方がすごく綺麗で……」
「そうか。……なら良かった。君はいつも、俺の機能……いや、健康ばかりを気遣ってくれる。だから、俺の『仕事』も一度見てもらいたかったんだ」
一条さんは眼鏡のブリッジを押し上げ、外の景色を見つめた。
「建築は、箱を作る仕事じゃない。そこに流れる時間をデザインする仕事だ。……君が作る食事も、それに似ていると、最近思うようになった」
「……僕の食事が、一条さんの建築と?」
「ああ。君がキッチンに立つと、この無機質な部屋に『温度』が生まれる。それは、俺が図面の上で必死に生み出そうとしているものと同じだ」
一条さんの言葉は、驚くほど真っ直ぐに僕の心に届いた。
元カレには「お前のやることは自己満足だ」と切り捨てられた僕の献身が、一条さんの世界では、彼の芸術と同じ価値として扱われている。
運ばれてきたタルトは、宝石のように美しかった。
「食べてみてくれ。ここのシェフは、俺の設計を一番理解してくれている」
一口食べると、甘さ控えめのカスタードと旬の苺の酸味が、絶妙なバランスで口の中に広がった。
「美味しい……! 幸せな味がします」
僕が顔をほころばせると、一条さんは自分もタルトを口に運び、小さく頷いた。
「そうか。……それは、俺の台詞だ。いつも、君のごはんを食べる時に感じている」
一条さんは、笑ったわけではない。
けれど、その瞳には柔らかな光が宿っていて、僕を見つめる視線はどこまでも穏やかだった。
執着も、激しい独占欲もない。
ただ、お互いが作り出す「心地よい空間」を、静かに共有している。
その距離感が、今の僕にはたまらなく心地よかった。
「あ、一条さん。口元にクリームが……」
無意識に手を伸ばし、彼の唇の端を指で拭った。
触れた肌の熱に、ハッとして指を引く。
「……あ、すみません! つい……」
「…………。いや」
一条さんは一瞬だけ固まり、それから視線を窓の外へ逸らした。
心なしか、彼の耳の先端が、昨日の夕食の時よりもずっと赤くなっている気がする。
「……藤代。明日の夜は、何を作ってくれるんだ?」
「えっと……明日は、一条さんが好きそうな和食にしようかなって。ブリ大根とか、どうですか?」
「……期待して待っている」
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