3 / 28
3話
しおりを挟む
一条さんとの「食事契約」が始まって、二週間が経った。
僕の生活は劇的に変わった。仕事帰りにスーパーに寄り、「今日は一条さんに何を食べてらおうか」と考える時間が、いつの間にか僕自身の孤独を埋めていた。
一条さんは相変わらず、食事以外は仕事一筋だ。
僕が部屋に入っても、図面に顔を埋めたまま「ああ、来たか」と短く応えるだけ。
けれど、僕が料理をテーブルに並べると、彼は必ずペンを置き、僕が言った『条件』を律儀に守って「いただきます」と手を合わせる。
その、不器用なほど真面目な横顔を見るのが、最近の僕の密かな楽しみになっていた。
「藤代。明日の午後、時間は空いているか」
金曜日の夕食後。
ハンバーグのデミグラスソースを綺麗に拭ったお皿を前に、一条さんが不意に口を開いた。
「明日ですか? ええ、特に予定はありませんけど……。何か買い物のお手伝いですか?」
「いや。……君に、見せたい場所がある。これまでのお礼も兼ねて、案内させてほしい」
一条さんに誘われるなんて、思いもしなかった。
断る理由もなくて、僕は二つ返事で承諾した。
◇
翌日の土曜日。
案内されたのは、都心の喧騒から少し離れた場所にある、緑に囲まれた一軒のカフェだった。
「わあ……素敵……」
思わず声が漏れた。
コンクリート打ち放しの外壁に、大きく取られたガラス窓。
そこから差し込む光が、店内の木の温もりを際立たせている。
モダンなのに、どこか懐かしくて、深い呼吸ができるような空間。
「ここは、俺が五年前、独立して最初に設計したカフェだ」
一条さんが、少しだけ誇らしげに、けれど淡々と言った。
店内に一歩足を踏み入れると、スタッフがすぐに気づいて駆け寄ってきた。
「一条先生! お久しぶりです」
「ああ。今日は連れがいる。いつもの席を」
テラスに近い、特等席に案内される。
一条さんはメニューも見ずに「ブレンドと、季節のタルトを二つ」と注文した。
「一条さん、ここ、本当に落ち着きますね。光の入り方がすごく綺麗で……」
「そうか。……なら良かった。君はいつも、俺の機能……いや、健康ばかりを気遣ってくれる。だから、俺の『仕事』も一度見てもらいたかったんだ」
一条さんは眼鏡のブリッジを押し上げ、外の景色を見つめた。
「建築は、箱を作る仕事じゃない。そこに流れる時間をデザインする仕事だ。……君が作る食事も、それに似ていると、最近思うようになった」
「……僕の食事が、一条さんの建築と?」
「ああ。君がキッチンに立つと、この無機質な部屋に『温度』が生まれる。それは、俺が図面の上で必死に生み出そうとしているものと同じだ」
一条さんの言葉は、驚くほど真っ直ぐに僕の心に届いた。
元カレには「お前のやることは自己満足だ」と切り捨てられた僕の献身が、一条さんの世界では、彼の芸術と同じ価値として扱われている。
運ばれてきたタルトは、宝石のように美しかった。
「食べてみてくれ。ここのシェフは、俺の設計を一番理解してくれている」
一口食べると、甘さ控えめのカスタードと旬の苺の酸味が、絶妙なバランスで口の中に広がった。
「美味しい……! 幸せな味がします」
僕が顔をほころばせると、一条さんは自分もタルトを口に運び、小さく頷いた。
「そうか。……それは、俺の台詞だ。いつも、君のごはんを食べる時に感じている」
一条さんは、笑ったわけではない。
けれど、その瞳には柔らかな光が宿っていて、僕を見つめる視線はどこまでも穏やかだった。
執着も、激しい独占欲もない。
ただ、お互いが作り出す「心地よい空間」を、静かに共有している。
その距離感が、今の僕にはたまらなく心地よかった。
「あ、一条さん。口元にクリームが……」
無意識に手を伸ばし、彼の唇の端を指で拭った。
触れた肌の熱に、ハッとして指を引く。
「……あ、すみません! つい……」
「…………。いや」
一条さんは一瞬だけ固まり、それから視線を窓の外へ逸らした。
心なしか、彼の耳の先端が、昨日の夕食の時よりもずっと赤くなっている気がする。
「……藤代。明日の夜は、何を作ってくれるんだ?」
「えっと……明日は、一条さんが好きそうな和食にしようかなって。ブリ大根とか、どうですか?」
「……期待して待っている」
カフェを出ると、空は抜けるような青空だった。
一条さんと歩く歩道の幅は、少しだけ前よりも狭くなった気がした。
恋と呼ぶにはまだ淡すぎる、けれど確かな温もりが、僕たちの間に芽生え始めていた。
僕の生活は劇的に変わった。仕事帰りにスーパーに寄り、「今日は一条さんに何を食べてらおうか」と考える時間が、いつの間にか僕自身の孤独を埋めていた。
一条さんは相変わらず、食事以外は仕事一筋だ。
僕が部屋に入っても、図面に顔を埋めたまま「ああ、来たか」と短く応えるだけ。
けれど、僕が料理をテーブルに並べると、彼は必ずペンを置き、僕が言った『条件』を律儀に守って「いただきます」と手を合わせる。
その、不器用なほど真面目な横顔を見るのが、最近の僕の密かな楽しみになっていた。
「藤代。明日の午後、時間は空いているか」
金曜日の夕食後。
ハンバーグのデミグラスソースを綺麗に拭ったお皿を前に、一条さんが不意に口を開いた。
「明日ですか? ええ、特に予定はありませんけど……。何か買い物のお手伝いですか?」
「いや。……君に、見せたい場所がある。これまでのお礼も兼ねて、案内させてほしい」
一条さんに誘われるなんて、思いもしなかった。
断る理由もなくて、僕は二つ返事で承諾した。
◇
翌日の土曜日。
案内されたのは、都心の喧騒から少し離れた場所にある、緑に囲まれた一軒のカフェだった。
「わあ……素敵……」
思わず声が漏れた。
コンクリート打ち放しの外壁に、大きく取られたガラス窓。
そこから差し込む光が、店内の木の温もりを際立たせている。
モダンなのに、どこか懐かしくて、深い呼吸ができるような空間。
「ここは、俺が五年前、独立して最初に設計したカフェだ」
一条さんが、少しだけ誇らしげに、けれど淡々と言った。
店内に一歩足を踏み入れると、スタッフがすぐに気づいて駆け寄ってきた。
「一条先生! お久しぶりです」
「ああ。今日は連れがいる。いつもの席を」
テラスに近い、特等席に案内される。
一条さんはメニューも見ずに「ブレンドと、季節のタルトを二つ」と注文した。
「一条さん、ここ、本当に落ち着きますね。光の入り方がすごく綺麗で……」
「そうか。……なら良かった。君はいつも、俺の機能……いや、健康ばかりを気遣ってくれる。だから、俺の『仕事』も一度見てもらいたかったんだ」
一条さんは眼鏡のブリッジを押し上げ、外の景色を見つめた。
「建築は、箱を作る仕事じゃない。そこに流れる時間をデザインする仕事だ。……君が作る食事も、それに似ていると、最近思うようになった」
「……僕の食事が、一条さんの建築と?」
「ああ。君がキッチンに立つと、この無機質な部屋に『温度』が生まれる。それは、俺が図面の上で必死に生み出そうとしているものと同じだ」
一条さんの言葉は、驚くほど真っ直ぐに僕の心に届いた。
元カレには「お前のやることは自己満足だ」と切り捨てられた僕の献身が、一条さんの世界では、彼の芸術と同じ価値として扱われている。
運ばれてきたタルトは、宝石のように美しかった。
「食べてみてくれ。ここのシェフは、俺の設計を一番理解してくれている」
一口食べると、甘さ控えめのカスタードと旬の苺の酸味が、絶妙なバランスで口の中に広がった。
「美味しい……! 幸せな味がします」
僕が顔をほころばせると、一条さんは自分もタルトを口に運び、小さく頷いた。
「そうか。……それは、俺の台詞だ。いつも、君のごはんを食べる時に感じている」
一条さんは、笑ったわけではない。
けれど、その瞳には柔らかな光が宿っていて、僕を見つめる視線はどこまでも穏やかだった。
執着も、激しい独占欲もない。
ただ、お互いが作り出す「心地よい空間」を、静かに共有している。
その距離感が、今の僕にはたまらなく心地よかった。
「あ、一条さん。口元にクリームが……」
無意識に手を伸ばし、彼の唇の端を指で拭った。
触れた肌の熱に、ハッとして指を引く。
「……あ、すみません! つい……」
「…………。いや」
一条さんは一瞬だけ固まり、それから視線を窓の外へ逸らした。
心なしか、彼の耳の先端が、昨日の夕食の時よりもずっと赤くなっている気がする。
「……藤代。明日の夜は、何を作ってくれるんだ?」
「えっと……明日は、一条さんが好きそうな和食にしようかなって。ブリ大根とか、どうですか?」
「……期待して待っている」
カフェを出ると、空は抜けるような青空だった。
一条さんと歩く歩道の幅は、少しだけ前よりも狭くなった気がした。
恋と呼ぶにはまだ淡すぎる、けれど確かな温もりが、僕たちの間に芽生え始めていた。
21
あなたにおすすめの小説
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
美澄の顔には抗えない。
米奏よぞら
BL
スパダリ美形攻め×流され面食い受け
高校時代に一目惚れした相手と勢いで付き合ったはいいものの、徐々に相手の熱が冷めていっていることに限界を感じた主人公のお話です。
※なろう、カクヨムでも掲載中です。
【1話完結】あなたの恋人は毎夜わたしのベッドで寝てますよ。
ariya
ファンタジー
ソフィア・ラテットは、婚約者アレックスから疎まれていた。
彼の傍らには、いつも愛らしい恋人リリアンヌ。
婚約者の立場として注意しても、アレックスは聞く耳を持たない。
そして迎えた学園卒業パーティー。
ソフィアは公衆の面前で婚約破棄を言い渡される。
ガッツポーズを決めるリリアンヌ。
そのままアレックスに飛び込むかと思いきや――
彼女が抱きついた先は、ソフィアだった。
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?
krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」
突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。
なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!?
全力すれ違いラブコメファンタジーBL!
支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。
結婚間近だったのに、殿下の皇太子妃に選ばれたのは僕だった
釦
BL
皇太子妃を輩出する家系に産まれた主人公は半ば政略的な結婚を控えていた。
にも関わらず、皇太子が皇妃に選んだのは皇太子妃争いに参加していない見目のよくない五男の主人公だった、というお話。
目線の先には。僕の好きな人は誰を見ている?
綾波絢斗
BL
東雲桜花大学附属第一高等学園の三年生の高瀬陸(たかせりく)と一ノ瀬湊(いちのせみなと)は幼稚舎の頃からの幼馴染。
湊は陸にひそかに想いを寄せているけれど、陸はいつも違う人を見ている。
そして、陸は相手が自分に好意を寄せると途端に興味を失う。
その性格を知っている僕は自分の想いを秘めたまま陸の傍にいようとするが、陸が恋している姿を見ていることに耐えられなく陸から離れる決意をした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる