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7話
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誕生日を経て、僕と一条さんの間には、言葉にしなくても伝わる「特別」が定着していた。
一条さんは僕が部屋に行くと、時折、設計中の図面を見せて「この窓の配置、君ならどう思う?」と意見を求めてくれるようになった。
建築の素人である僕の「なんとなく落ち着きそう」という言葉を、彼は「生活者の視点だ」と真剣にノートに書き留める。
そんな穏やかな時間が、ずっと続くと思っていた。
その日は、珍しく夕方から一条さんの事務所(自宅兼オフィス)へ向かった。
佐々木さんから「今日は来客が長引いているので、先にキッチンをお使いください」と言われていたからだ。
手を洗ってエプロンを締め、買ってきたばかりのレモンでマドレーヌを焼こうとしていた時。
リビングから、聞き慣れない女性の笑い声が聞こえてきた。
「やっぱり慧(けい)くんの設計は、理屈が完璧ね。でも、このエントランスの遊び心は……誰かの影響?」
慧くん、と親しげに呼ぶ声。
キッチンの隙間から覗くと、そこには凛としたスーツを纏った美しい女性がいた。
彼女は一条さんの隣に立ち、一枚の図面を二人で覗き込んでいる。
「……藤代の影響だ。彼は、空間の『温度』に敏感だからな」
一条さんが僕の名前を出したことに心臓が跳ねたけれど、女性の次の言葉に、その鼓動は少し冷えた。
「へえ、あの『お料理担当』の彼? 慧くんがそんなに他人の感性を入れるなんて珍しい。昔の貴方なら、自分の美学だけで完結させていたのに」
彼女――加賀美(かがみ)さんは、一条さんの大学時代の同期で、今は新進気鋭の女性建築家として活躍しているらしい。
二人の会話は、専門用語が飛び交う高度なもので、僕には半分も理解できなかった。
並んで図面を引く二人の背中は、あまりに似通っていて、同じ「言葉」を話しているように見えた。
……僕には、あんな風に一条さんの仕事の深いところまでは理解できない。
僕はただ、彼が倒れないようにごはんを作るだけの人間だ。
胸の奥が、ちりりと焼けるように痛む。
これが「嫉妬」だなんて、認めたくなかった。
執着なんてしない、爽やかな関係でいたかったのに。
「……あ、藤代。いたのか」
加賀美さんが帰り、一条さんがキッチンに顔を出した。
僕は慌てて、焼き上がったばかりのマドレーヌを皿に並べる。
「お疲れ様です。お客様、お帰りになられたんですね」
「ああ。加賀美だ。仕事のパートナーとしては優秀だが、少し声が大きくて疲れる」
一条さんは、いつも通り無表情に、けれど少し疲れたように椅子の背もたれに体を預けた。
僕は黙って、レモンの香るマドレーヌと紅茶を彼の前に置いた。
「……藤代? どうした、元気がないな」
「いえ、そんなことないですよ。……一条さん、加賀美さんとは、やっぱり話が合うんですね。建築のこととか」
我慢できずにこぼれた言葉。
一条さんは、差し出されたマドレーヌを一つ手に取り、じっと見つめた。
「話は合うな。同じ理論を共有しているからだ。……だが、藤代。俺が今、本当に求めているのは理論じゃない」
一条さんはマドレーヌを一口食べると、ふっと表情を和らげた。
「加賀美と話すと、脳は動くが心は休まらない。……君が焼いたこの菓子の甘さと、レモンの香りがなければ、俺はまた自分を見失うところだった」
一条さんは空いている方の手で、僕のエプロンの紐を、所在なげにツンと突いた。
「俺にとっての『特別』を、履き違えないでほしい」
「…………」
「君の作る味が、俺の正解だ」
真っ直ぐな、一点の曇りもない瞳。
加賀美さんに向ける「同業者への敬意」とは全く違う、もっと深くて、柔らかくて、唯一無二の光がそこにはあった。
……ああ、もう。
こんな風に言われたら、僕の方が彼を独り占めしたくなってしまう。
「……一条さん、マドレーヌ、おかわりありますから」
「ああ。全部食べよう。……今日は、少しだけ長めに隣にいてくれ」
外は、激しい夕立。
けれど、雨音さえ心地よいBGMに変わるほど、二人の距離はまた一歩、静かに、けれど確実に縮まっていた。
一条さんは僕が部屋に行くと、時折、設計中の図面を見せて「この窓の配置、君ならどう思う?」と意見を求めてくれるようになった。
建築の素人である僕の「なんとなく落ち着きそう」という言葉を、彼は「生活者の視点だ」と真剣にノートに書き留める。
そんな穏やかな時間が、ずっと続くと思っていた。
その日は、珍しく夕方から一条さんの事務所(自宅兼オフィス)へ向かった。
佐々木さんから「今日は来客が長引いているので、先にキッチンをお使いください」と言われていたからだ。
手を洗ってエプロンを締め、買ってきたばかりのレモンでマドレーヌを焼こうとしていた時。
リビングから、聞き慣れない女性の笑い声が聞こえてきた。
「やっぱり慧(けい)くんの設計は、理屈が完璧ね。でも、このエントランスの遊び心は……誰かの影響?」
慧くん、と親しげに呼ぶ声。
キッチンの隙間から覗くと、そこには凛としたスーツを纏った美しい女性がいた。
彼女は一条さんの隣に立ち、一枚の図面を二人で覗き込んでいる。
「……藤代の影響だ。彼は、空間の『温度』に敏感だからな」
一条さんが僕の名前を出したことに心臓が跳ねたけれど、女性の次の言葉に、その鼓動は少し冷えた。
「へえ、あの『お料理担当』の彼? 慧くんがそんなに他人の感性を入れるなんて珍しい。昔の貴方なら、自分の美学だけで完結させていたのに」
彼女――加賀美(かがみ)さんは、一条さんの大学時代の同期で、今は新進気鋭の女性建築家として活躍しているらしい。
二人の会話は、専門用語が飛び交う高度なもので、僕には半分も理解できなかった。
並んで図面を引く二人の背中は、あまりに似通っていて、同じ「言葉」を話しているように見えた。
……僕には、あんな風に一条さんの仕事の深いところまでは理解できない。
僕はただ、彼が倒れないようにごはんを作るだけの人間だ。
胸の奥が、ちりりと焼けるように痛む。
これが「嫉妬」だなんて、認めたくなかった。
執着なんてしない、爽やかな関係でいたかったのに。
「……あ、藤代。いたのか」
加賀美さんが帰り、一条さんがキッチンに顔を出した。
僕は慌てて、焼き上がったばかりのマドレーヌを皿に並べる。
「お疲れ様です。お客様、お帰りになられたんですね」
「ああ。加賀美だ。仕事のパートナーとしては優秀だが、少し声が大きくて疲れる」
一条さんは、いつも通り無表情に、けれど少し疲れたように椅子の背もたれに体を預けた。
僕は黙って、レモンの香るマドレーヌと紅茶を彼の前に置いた。
「……藤代? どうした、元気がないな」
「いえ、そんなことないですよ。……一条さん、加賀美さんとは、やっぱり話が合うんですね。建築のこととか」
我慢できずにこぼれた言葉。
一条さんは、差し出されたマドレーヌを一つ手に取り、じっと見つめた。
「話は合うな。同じ理論を共有しているからだ。……だが、藤代。俺が今、本当に求めているのは理論じゃない」
一条さんはマドレーヌを一口食べると、ふっと表情を和らげた。
「加賀美と話すと、脳は動くが心は休まらない。……君が焼いたこの菓子の甘さと、レモンの香りがなければ、俺はまた自分を見失うところだった」
一条さんは空いている方の手で、僕のエプロンの紐を、所在なげにツンと突いた。
「俺にとっての『特別』を、履き違えないでほしい」
「…………」
「君の作る味が、俺の正解だ」
真っ直ぐな、一点の曇りもない瞳。
加賀美さんに向ける「同業者への敬意」とは全く違う、もっと深くて、柔らかくて、唯一無二の光がそこにはあった。
……ああ、もう。
こんな風に言われたら、僕の方が彼を独り占めしたくなってしまう。
「……一条さん、マドレーヌ、おかわりありますから」
「ああ。全部食べよう。……今日は、少しだけ長めに隣にいてくれ」
外は、激しい夕立。
けれど、雨音さえ心地よいBGMに変わるほど、二人の距離はまた一歩、静かに、けれど確実に縮まっていた。
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